artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

アダム・クーパー主演『SINGIN' IN THE RAIN──雨に唄えば』

会期:2014/11/01~2014/11/24

東急シアターオーブ[東京都]

この上演作は、ややこしいと言えばとてもややこしい。ミュージカル映画をつくる過程を舞台にした映画がまずあり、それをもとにした舞台ミュージカルである。舞台のミュージカルがトーキー映画の台頭とともに映画のなかに吸収されていった。本作はその過程を映画スタジオではなく舞台の上で描いてゆく。舞台なのか映画なのかで時折目眩を起こしそうになる。いや、舞台に繰り広げられる華々しいパフォーマンスを素直に見ればよいのだ、きっと。ただ、そうは言っても、あの傑作映画のディテールがいちいち心に浮かんできて素直になれない。休憩を挟んで二部構成の本作は、かなりの程度映画に忠実につくられている。映画の名場面では確かに舞台も盛り上がる。あの一番有名な夜の街を傘をささずに唄い踊る場面は、この舞台でも一番の見所になっていて、アダム・クーパーの演じるドンは、びしゃびしゃになった床を蹴り上げる。すると、水しぶきが美しい弧を描いて、最前列の観客を水浸しにする。まるでシャチのショーのように、水しぶきに観客は湧く。踊りはきわめてスマートだ。涼しい顔で水たまりと遊ぶ姿は、ジーン・ケリーのようなユーモアとは別の雰囲気を湛えている。踊りの場はどれもとても洗練されている。とくに印象的だったのは、踊りの統一性だ。澱みのない美しさは群舞のなかでも薄まることはない。ただ、そうしたダンスの力に舞台が支配される分、物語の細部はそれほど重視されない。とくに発音の教師とのコミカルなやりとりで有名な「モーゼス・サポーゼス」のシーンでは、俳優のドンとコズモは、トーキー映画に出演するために発音の再教育を受けなければならず、その境遇に腹を立て、発音の教師に食って掛かる。この場面は、サイレントからトーキーへの移行に際して俳優たちがその変化に苛立ちつつどう対応していったかというこのお話の大きなテーマを語る大事なところだ。しかし、2対1の関係は、あまり強調されずに、しばしば3人は対等な関係になって仲良く踊りの輪をつくってしまう。まあ、息のあった踊りが見られるならばそれで良いよねという意見もあるのだろうし、まあ固いことは言わずに娯楽を楽しみましょうという雰囲気に会場は満ちていたのだが、とはいえその分物語の細部が重視されないのはもったいないのでは?と思わずにはいられなかった。

2014/11/23(日)(木村覚)

プレビュー:『とつとつダンスpart.2 愛のレッスン』

会期:2014/11/28~2014/11/30

アサヒ・アートスクエア[東京都]

ぼくはかねてから、未来を明るくする最大の焦点は、身体に障害のあるひとや高齢になって身体が十分に働かないひととどう共存し、互いの幸福を高めていくかを考えることではないかと思っています。「健常者」がノーマルでありそのノーマルを基準に社会をつくるべきだという通念から自由になること。例えば、オリンピック/パラリンピックの区別がなくなったら、それだけでも社会はよくなる気がするのです。既存の価値が転倒し、混乱するだろうけれども、その混乱から始めることなしに、明るい未来はないはずです。身体というメディアで表現をする振付家・ダンサーこそ、美しく優れた身体を誇示するエリート主義から自由になって、そうした混乱を引き出す存在でいて欲しいと思います。さて、砂連尾理は第1回のトヨタ コレオグラフィーアワードで「次代を担う振付家賞」を寺田みさことともに獲得したダンス界を牽引する存在。これまでも、ベルリンの劇団ティクバとの共作などを通じて、健常者と障害のあるひととの交流のあり方を模索してきました。砂連尾が今回取り組むのは、車椅子の高齢者。特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」との四年におよぶ交流を通して生まれた上演作品が『とつとつダンス part. 2 愛のレッスン』。ダンスは社会において、どんな価値を発信できるのか? 砂連尾はときどき「フィクション」の意義ということを発言していますが、そうした考えが本作を通してどう示されるのか、期待してしまいます。

2014/10/31(金)(木村覚)

Q『油脂越しq』(『flat plat fesdesu vol. 3』Aプログラム)

会期:2014/10/15~2014/10/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

Qの演劇は微妙なバランスを保って進む。人間へのまなざしというか距離感が絶妙で、人間の暗部を暴露するとはいえ、それを遂行する際の対象に向けたまなざしが誠実で優しい。チェルフィッチュや岡崎藝術座に似てしばしば役者は観客に顔を向けて独白する。中身は「現実にそんな告白されたらちょっと困るな」と思うような性的な妄想だったりするのだけれど、特徴的なのは、肉体に宿した突き上げてくる衝動がすべての言葉の動機になっているところだ。肉体が言語を生む。そんなスタンスの劇団はこの世にそんなに多くは存在しない。そのうえで付け加えたいのだが、コメディともとれるユーモアの要素が今回際立っていた。まさに絶妙な人間への距離感がそれを可能にしていた。30分程の短編。コンビニの女店員2人と魚肉ソーセージを大量に購入する女1人の物語。3人それぞれ性の記憶と妄想にとりつかれている。共通の趣味(GLAYのファン)が元で男の部屋に遊びにいった太めの女。58才の男と恋愛している若い店員。2人の存在に刺激されてオナニーばかりしているもう1人の店員。今回のQがユーモラスだなと思わされたのは、そうした3人の性衝動が、いつものQのように背後に暴力性を漂わせていながらも、「止むに止まれぬ内側からの突き上げ」として描かれていたからだろう。人間のおかしさや悲しさやかわいさが、それを源に溢れ出していた。魚肉ソーセージは、たんに魚だけではなく、人間も含めた多様な動物たちの肉をミンチにしてできているという妄想が語られる。いつものQらしい異種性交のイメージがコンパクトにこの妄想に収められた。それにしても、市原佐都子の、肉体と肉体が接触することへの執拗な興味というのは強烈で、ぜひここだけ取り出して現代美術のフォーマットに落としてみて欲しいなどと思ってしまう。そのインパクトはより広くそして的確に鑑賞者に受容されるだろうとも。

2014/10/19(日)(木村覚)

田辺知美+川口隆夫『めっひっひ まあるめや「病める舞姫」をテキストに、2つのソロダンス』(特別公開リハーサル in 女子美術大学)

会期:2014/10/18

女子美術大学(杉並キャンパス)[東京都]

最近、川口隆夫の活動が活発だ。8月から始めた『Slow Body』の公演は続いているし、毎週のようにタイトルの異なる上演に挑んでいる。その最中での今作上演。11月に青森で予定されている本公演のための公開リハーサルとして、川口が今年度非常勤講師を務める女子美術大学を会場に、教え子たちが運営に関わるほのぼのとしたムードのなか行なわれた。全体60分ほどのなか、前半に踊ったのは田辺知美。畳一畳の上で踊る。時折、暗黒舞踏の創始者・土方巽が書いた小説『病める舞姫』の一部分がスピーカ越しに朗読される。例えばそれは「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう」なんて台詞。確かに田辺の身体は畳の上で唸る。時折痙攣する。しかし、その状態を起こすための作為がなんとなく透けてしまっていて、あまり乗れない。とくに全身を(顔までも)覆う肌色のタイツはエロティックと見えなくもないけれど、一方で身体のあり様はタイツのせいで隠れてしまう。最後に、自らストッキングを破るのだが、その手の非ダンス的な能動性がダンスを消している。田辺がそうして身体を隠したのと対照的に、川口はどこまでも曝す気満々だ。田辺と交代で舞台に現われた川口は顔にオレンジの袋を被り、足に赤いジャージを履いて、あとは裸だった。ぎょっとさせられたのはジャージの股に開いた「穴」。それは明らかに男性にはない位置に開いたものだ。ろくでなし子(事件)へのアンサー? そんな気持ちも過りつつ、興味深かったのは、これが女性でなく男性だからこその表現に映ったこと。女性にはもともと女性器はあるので、このように衣服で暗示してもわざとらしい。男性にはない分、この「穴」が男性の股にあると暗示として機能しやすい。そう思っていると、浄瑠璃の一節を川口は朗誦しながらパフォーマンスを続けた。自分で自分の身体を縛るような奇妙な悶絶の時間もあった。「踊り」ではなく「パフォーマンス」であることが、田辺と比べ川口を自由にしているようにも見えたし、個人的には相対的により土方性を感じた。扉を開け放ち、中庭に出ると、二枚の畳を合わせて、そこに馬乗りするのだが、尻が脱げて、全裸になってしまうと、なんとなく、土方へのテンションが緩くなってしまった。土方に対峙するのは並大抵のことではない。なにより、テキストを朗読しただけで、その独特な「湿っぽさ」に心奪われて、結局土方の強さばかりが目立った時間だった。

2014/10/18(土)(木村覚)

悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』

会期:2014/10/11~2014/10/13

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

ぼくの目は悪魔のしるしに、というよりは危口統之に厳しいようだ。彼の偽悪性にしばしば乗れないことがその理由だ。おそらくこの上演には賛辞が多く寄せられるだろうから、ぼくが少し辛く書いたところで誰にも、おそらく本人にも嫌がられないだろう。危口の表現する「悪」は同時に彼のある部分を隠すために機能している気がする。観客の一人として「悪さの哲学」に没頭したい気持ちにそのことが水を差すことがある。他人をひどい目にあわせる仕掛けに、危口本人は一人静観している。今作は、でも、危口本人が出演し、しかも、彼の父が舞台で彼とともに演じるという、その意味では静観してはいられないシチュエーションである。フランス留学の経験がある父は、自分をジャコメッティと勘違いする「ボケ」の状態にある。危口はその父の息子役で舞台にいる。もう一人、父の介助役にミュージカル女優を志望する大谷ひかるも出演。物語はとくにない。点鼻薬の代わりに木工用ボンドを鼻に入れてしまったというコミカルなエピソードが何度も取り上げられる他は、当人たちのリアルなエピソードが過去の記憶を辿るように語られていく。通奏低音として、繰り返しジャコメッティと彼のモデルだった矢内原伊作のことが話題に上がる。ジャコメッテイは見えるがままに描くという不可能を本気で目指した。そんな話題から、すべて人生は不完全な演劇であるとの話になったり、父の演技の下手さ(演技不可能性)の話になったりする。だが、観客としてむしろ驚いたのは、父・木口敬三の演技の確かさだった。こんなふうに、本当の父は父の演技ができるだろうか(例えば、私の父は無理だろう)。「ジャコメッティ」という主題に身を隠さず、この「本物の父と演劇を上演している」というかなりの異常状態に、もっと迫っても良かったような気がする。危口はある場面で父の絵が好きだと口にした。父の絵のどこがどう好きなのか、そこにこだわったときには、血のつながった息子・危口と父・木口が2人でこの舞台に(あるいはこの世に)居ることの特殊性や不思議さへとスライドしたのかもしれない。


悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』トレーラー本篇

2014/10/12(日)(木村覚)