artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」

会期:2014/12/12~2015/12/21
KATT 神奈川芸術劇場[神奈川県]
これは傑作である。コンビニを舞台にして、人々の物語をドライブさせるのが主眼ではなく、変わらない日本の日常やシステムを象徴するコンビニ論そのものになっているからだ。バッハの平均律にあわせて、48のシーンから構成される形式も良かった。そして岡田利規は彼女を念頭に脚本を書いたらしいのだが、水谷役の川崎麻里子の演技が忘れがたい。
2014/12/15(月)(五十嵐太郎)
Fujimoto Takayuki + Jung Young Doo 赤を見る/Seeing Red

会期:2014/12/12~2015/12/14
KATT 神奈川芸術劇場[神奈川県]
スペイン国立ダンスカンパニーの驚異的なパフォーマンスを見た後なだけに、どうしても身体能力に物足りなさを感じてしまった。むしろ、藤本隆行の照明や、アシスタントの松原慈による空間デザインは興味深かったのだが、それをあまり使わない前半が長いせいか、思っていたほどには効果的に活用されていない。個人的には、照明と空間の力をもっと引きだす内容を見たかった。
2014/12/14(日)(五十嵐太郎)
第19次笑の内閣 福島第一原発舞台化計画─黎明編─「超天晴!福島旅行」
会期:2014/12/04~2015/12/07
こまばアゴラ劇場[東京都]
東浩紀が提唱する福島第一原発観光地化計画に触発された作品であり、修学旅行先に福島を選んだ高校の職員会議の体裁をとる。あらかじめ想定される議論をトレスしながら、政争や色恋、そして歌と笑いを織り込み、最後まで飽きさせない内容だ。いや、むしろ修学旅行先を舞台にした続編を是非見たい。なお、映像で紹介された福島の訪問先候補は、ほとんど訪れていた。
2014/12/06(土)(五十嵐太郎)
鉄道芸術祭vol.4「音のステーション」プログラム

会期:2014/10/18~2015/12/23
アートエリアB1[大阪府]
京阪なにわ橋駅の地下一階コンコースに2008年に開設されたアートエリアB1。「文化・芸術・知の創造と交流の場」をテーマに、企業・大学・NPO法人が協同で、駅という特性やその可能性に着目したさまざまなイベントや展覧会を実施している。この会場を舞台に2010年よりはじまった「鉄道芸術祭」は多様なプログラムを展開するアートイベント。第4回目となった今回は〈音・技術・ネットワーク〉をテーマに開催された。「音」にまつわる制作活動を行っているアーティストの作品展示のほか、コンサート、公開ラジオ、トークライブなど多数のイベントが行われた。なかでも斬新だったのが実際に走行する電車内でのライブ・パフォーマンス「ノイズ・トレイン」。出演アーティストの伊東篤宏、鈴木昭男、和田晋侍とともに観客も中之島駅発の貸切電車に乗り込み、出発の中之島駅から樟葉駅で折り返す電車が、なにわ橋駅に到着するまでのおよそ一時間半の公演。放電ノイズを拾って音を発する伊東のオリジナル楽器、「OPTRON」のライブが行われた車両内部は人だかりで、私はあまり接近できなかったが、車窓全てのカーテンがひかれたなかでチカチカと強い光が明滅するその怪しげな車両はノイズ音と光がスパークする強烈な空間だった。2つの車両を移動しながら行われたサウンド・アーティストの鈴木昭男の《アナラポス》演奏、和田晋侍のドラム演奏空間など、観客はアーティストたちがそれぞれライブを行う車両を自由に移動しながらパフォーマンスや空間を楽しむのだが、その時間自体が刺激的で面白い。電車の走行音や車窓を流れていく外の景色、通過する駅の様子がいつもとは違うものに感じられ、新鮮。ユニークで独創的なイベントだった。
電車公演「ノイズ・トレイン」ウェブサイトhttp://artarea-b1.jp/archive/2014/1206629.php
2014/12/06(土)(酒井千穂)
デュ社(向雲太郎主宰)『ふたつの太陽』

会期:2014/12/05~2014/12/07
吉祥寺シアター[東京都]
大駱駝艦で永らく活躍していた向雲太郎が2012年に脱退し、あらたにグループを結成した。本作はその「デュ社」の旗揚げ公演である。向の祖父が広島で原爆に遭遇した事実を背景に、上演の90分、舞台は1945年8月6日8時15分の広島にひたすらとどまった。黒い床には白い円が描かれ、黒い空間に白い大きな布が垂れ下がっている。タイトルにある「太陽」がそこにあった。向扮する戯画的なマッド・サイエンティストがげらげらと笑いながら怪しげな物体を扱う。爆弾のようなコーラのボトル。酩酊しているように足取りが怪しい。そんな風にして、人間の科学的な進歩の危うさが象徴的に示される。4人の若い男女が現われる。それと1人の中年男性。彼は恐らく、向の祖父だ。祖父は何気ない日常のなかで、その日を迎えた。床の「太陽」の縁に沿って、顔に時計を付けた男がゆっくりと歩く。時計は「8時15分」で止まったままだ。舞台上の人々はゆっくりとその時に向かっていく。そして、その時が来る。そこでの惨状がしかし、比較的静かに描かれる。向はここでは大駱駝艦で培った舞踏の技術的な部分をまったく用いない。舞踏とはいえある種の様式的な美しさを帯びている大駱駝艦とは異なり、ここでのダンスはあいまいでとりとめがない。大駱駝艦であれば「人間とは何か」といった問いが普遍的で抽象的な仕方で高まっていくところだが、向はあくまでも歴史的なあの日あのときにとどまる。そのためには、きっとこの踊りでなければなければならなかったのだ。踊りは、人間への絶望、不満、不信を語る。こんなにいらだっている舞台もないものだと思う。ひとつのピークは、川口隆夫が全裸であらわれた直後、若い4人もまた白い衣服を脱ぎだすと、全員全裸で踊り始めたあたりであったろう。現代人はもっと肉体を肉眼視しなくてはいけないのではないかと最近の川口はよく述べているけれども、そうした思いが向へと伝播したかのような場面だった。裸の男女がゆっくりと絡まりながら床を這いつくばる。まるで丸木位里・俊の絵画《原爆の図》のようだと思いながら、悲惨さと裸体がもつ脆弱さを帯びた美しさに圧倒させられた。本作の真摯な重さは、今日の日本におけるダンス表現としては異例である。ダンスにおける歴史主義とでもいうべきか。そこに簡単に既存の様式性をあてがわないのは勇気がいっただろうが正しい選択だったろう。ダンスが社会にひらかれるということは、それが真摯な思いであればそれだけ、ダンスがそれまでのダンスではいられなくなるということを含むはずだ。ゆえの不安定なあいまいなさまは、ダンスが更新されるのに必要な状態と見るべきだろう。
2014/12/05(金)(木村覚)


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