artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

東京デスロック『RE/PLAY(DANCE Edit.)』

会期:2014/02/14~2014/02/16

急な坂スタジオ[神奈川県]

ダンサーたち本人の実存(=ダンサーの生/人生)が、曲のリプレイ(と同時に振り付けのリプレイ)を通して、またそれに限らず、シンプルだけれど強固な演劇構造の設えによって、一種の「リアルな物語」として語られる演劇。本作を要約するならば、こう言えるだろう。90分ほどの上演時間は、10曲近いポップソングが一曲につき一度ならず、二度、三度と再生されるなか、ダンサーたちが自分で発案したのだろう短い振りあるいはポーズを数珠つなぎしていき、一曲分の一見でたらめ的即興のように見える動きの連なりを、曲の音量に呼応したダンサーたちのテンションの変化をともないいつつも淡々と繰り返す、その仕組みの遂行にあてられていた。一曲目はサザンオールスターズ『TSUNAMI』。二回目の再生でダンサーは一回目と同様の動きを見せていることがわかり、この作品の構造が明かされた。選曲に「東日本大震災」を連想させられもする。ただ、ダンサーたちの振り付けには、日常の出来事から切り離されたダンシーな要素が色濃い。とはいえ、バレエでもモダン・ダンスでもなく、いわゆるコンテンポラリー・ダンス的な動き。興味深いのは、それらの動きが、個々のダンサーの個性を観客が感受することにほとんど奉仕していない、ということだ。遠田誠、岩渕貞太、北尾亘、きたまり、岡田智代など、単体として見れば十分個性的で、ソロ公演も行なっている魅力的なダンサー/振付家ばかりだ。ただし、この舞台の場では、踊れば踊るほど、彼らは純粋に自分のダンスを見せるというより、演出家の多田淳之介に設えられた「演劇構造の枠」のうちに取り籠められてしまう。いや、「取り籠め」られるからこそ出てくるものがあるのであって、二曲目のビートルズ『オブラディオブラダ』で10回ほども曲がリプレイされ、新たにイントロが鳴るたびに、最初のポジションに戻りポーズを決め、先の振りを繰り出しはじめるダンサーたちを見ていると、演劇というよりは、まるでポスト・モダンダンス(ex. ジャドソン・ダンス・シアター)の舞台みたいだと思わされてしまった。つまり、審美的な振り付けというよりも、シンプルな行動の約束ごとを設定して、それを遂行している、というように見えたわけだ。個々のダンサーの思惑とは別に、リプライが重ねられるたびにダンサーが表現主体ではなく客体(オブジェ)化していく、そうなればなるほど、舞台は独特の充実した状態を達成していった。ところが、全体の2/3が終わったあたりで、突然、ダンサーたちが喋りだすと、様相は微妙に変化した。「今度いつ会えるか」などの会話から察するに、ダンサーたちは中華料理屋でこの公演の打ち上げをしている。そのあと再び、曲が鳴ると、リプレイの遂行が再開された。ここからダンサーたちは水をえた魚のように、これまでの抑制された動きから解き放たれて、主体的に踊りだした。「振り付けのリプレイ」という構造は相変わらずで、だからもちろん、躍動的に踊れば踊るほど、多田の「演劇構造の枠」に絡めとられ、演劇的に見える。「ダンサー」という役のダンサーたちは、踊れば踊るほど「ダンサー」という「役」を演じることになる。自己顕示欲にかられた、ナルシスティックな、踊らずにはいられない男や女の「リアルな物語」。くたくたになって「倒れる」が、本当は毎日何時間でも踊り続けてしまう人たちのはずで、疲れていないとは言えないとしても疲労した様子は一種の「演劇的」仕草でもあるはず。バレエ作品『ジゼル』にも、踊り狂う場面はあるけれど、ダンサーの踊らされる運命と踊りたい欲望の相克が、ここでは演劇的効果のなかで露呈させられていた。そこが「うまい!」とも言えるし「残念!」とも思う。演劇的な理解に回収されぬままに、ダンサーの狂気を(これはただ踊っていても表われない、一種の批評的視点が必要だ、故に)一種の批評的な「枠」にとじ込めつつ見たい。けれども、これを実践すべきは演劇を企図する作家ではなく、ダンスの分野の作家たちであって欲しい。

2014/02/14(金)(木村覚)

捩子ぴじん『空気か屁』

会期:2014/02/11

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんがまず舞台に入る。ふわふわと踊りだす。真後ろに白いカーテンが揺れる。その揺れと捩子の動きが重なり響きあう。大駱駝艦に所属したこともあるその身体は、十分に見応えのある「曖昧さ」を見せ続ける。そのダンスの密度にあっけにとられていると、不意に踊りは止み、次に音楽家のカンノケントがあらわれる。背の高いカンノがじっと立つ。何もしない。舞台上の身体とは不思議だ。何もしなくても、いや、何もしないときに、見ないではいられない質がうまれることがある。なんとなく、そんな「質」に見とれているときに、不意に「ばあ!」とカンノはふざけたポーズを見せた。驚かされるが、そこに演劇的なあるいはダンス的な質はない。むしろ個々の観客たちと地続きの身体がそこにあるということに、観客は気づかされる。捩子とカンノはしゃがんで指で数を数えたり、床を軽く手で叩いたりした。次に、さっきまで寝ていたようなぼんやりした顔の男(篠原健)があらわれて、言葉みたいだけれど無意味な音を口にし続けた。最後に女(若林里枝)があらわれる。無意味語を発し続ける男の脇で、声を出して笑う。彼女はリラックスしていて、この場を相対化してゆく。出演者が全員舞台に登場したあとで、寸胴に溜まったヨーグルトらしき液体に一人一人顔を浸けた。白いカーテンとも呼応する、柔い白塗りが生まれた。おかしな化粧はテンションを微妙に上げた。4人は、さっき捩子とカンノとで行なっていたリズムの生成を始めた。ケチャのようでもあるが、静かで、あまり複雑にはならない。個々のリズムに没頭して、全体で音楽みたいなものになっていった。若林が篠原を被介護者に見立てて介護の動作をはじめた。これもまた日常と地続きの行為。それに音楽みたいなものが重なる。日常の光景から立ちあらわれるロー・テンションの祭り。そう、見ていてずっと感じていたのは、ここにある独特な祭り性だった。この独特さに似ているのは、最近の手塚夏子の上演だ。一般的な伝統の継承とは異なる仕方で、あくまでもコンセプチュアルに、純粋に方法的に、祭りをいまここに立ち上げること。手塚の最近の試みをそう称するならば、捩子はまさにそれを実践しようとしているのではないか。派手さはない「ロー・テンション」は、「空気」とみなしてしまうほどの「屁」なのかもしれないけれど、どうしたらいま・ここで祭りが立ち上がるのかという問いは、わかりやすい「派手」さから距離を取らずには、問うべき意義を見失うだろう。横浜ダンスコレクションの受賞者公演として上演された本作。ダンスのメインストリームからかけ離れているかに見えるこうした上演こそが、評価されるべきまったくユニークな試みであり、日本の未来のダンスにとっての道標であるかも知れない。ただし、その道標は、いままだ微かにしか、人には見えていない。

2014/02/11(火・祝)(木村覚)

田村一行(大駱駝艦)『又』

会期:2014/01/31~2014/02/09

壺中天スタジオ[東京都]

しばしば大駱駝艦の壺中天公演は、舞踏の基礎を身に宿したダンサーたちが、既存の「舞踏らしい舞踏」とは別のところに舞踏を導こうとする場だ。今作もそうだった。挑戦的で挑発的でもあるプログラムは、舞踏かどうかと聞かれれば、「舞踏じゃない」と答えるべきかも知れない。ただしそれは、ややもすればダンスの死せる古典としてとらえられかねなくなった日本の前提的なダンス(=舞踏)を、あくまでも現在も生きて働くものとして現代の社会のなかに躍動させる実験として評価されるべきだろう。冒頭、ウエディングドレスを纏った田村一行がうつぶせでうずくまる。その周りに、ガラスの入った杉の戸が田村を囲む。真冬の突風の音。ベタなくらいに「東北」(舞踏の世界)がこうして舞台に置かれるのだが、しかし、あくまでもさらっとしていて、泥臭くない。舞踏のイメージに寄り添いながら、それに耽溺しない。当たり前と言えば当たり前だ。日本人と言えど、現代の私たちは、土方が参照した東北の生活のリアルな面を知らない。いや、土方が取り上げた時点でも、それは忘れられつつある情景だった。それは、モダンな芸術世界を生きる土方が、モダンな芸術を活性化させる試みとして巧みに参照したものに相違ない。杉の戸がカタカタと風に揺れるさまは、過去の日本の世界である以上に、とくに若い観客にとっては、未知の世界への入り口なのだ。田村以外の若いメンバーたちは、柔らかい動きを重ねていく。音楽のニュアンスがそう連想させるのかも知れないけれど、冒頭の北風の音が想像させた寒さよりも、彼らからは熱帯の雰囲気が漂う。彼らの見せ場が、両手で鎌を手にしダンサーの首を刎ねる場面だったことも、そうした印象を強化した。南方性の舞踏というのは、これまた矛盾と言える。ただし、具体的などこかの少数部族の文化を再現するなどと言ったものではなく、あくまでも、「鎌」の扱いが観客に与える「ショック」というものに、焦点が置かれている。戸のガラスに田村が自分の顔を映して、古いガラスの歪みで顔が歪むのを見せた場面でも同じことを思った。つまり、田村は、舞踏のなかのとくに「ショック」の効果を抽出して、世界に歪みを与え、世界の見え方を一瞬変えようとしたのではないか。その目的のためには、舞踏的なアティテュードは、目的に奉仕する部分以外は必要ない。そう考えているのではないか。舞踏とは、この社会においてどんな効果ある役割を担いうるのか、そのひとつのアイディアをこの作品は提出していた。この試みは、まだ実験的なものに見えたけれど、社会のなかに深く入り込んで行こうとする誠実な野心を感じた。

2014/02/09(日)(木村覚)

アイサ・ホクソン「Death of the Pole Dancer」

会期:2015/02/08~2015/02/09

KAAT神奈川芸術劇場 小スタジオ[神奈川県]

TPAM/国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2015は、ほとんどスケジュールが合わず、アイサ・ホクソンの「Death of the Pole Dancer」のみ鑑賞することができた。約15分かけて、ポールをじっくりと組立て、垂直に立てる。そしてしばらく柱を憎むかのように激しく身体を叩きつけてから、上下回転しながらポール・ダンスを踊るのが、20分ほどのパフォーマンスだった。最後は尽き果てたように床に倒れ込み、そのままずっと動かなくなる。結局、立ち上がらないまま、終演となる終わり方が印象的だった。

2014/02/08(日)(五十嵐太郎)

プレビュー:捩子ぴじん『空気か屁』

会期:2014/02/11

横浜赤レンガ倉庫1号館 3Fホール[神奈川県]

捩子ぴじんが(短編以外では)2年振りの新作『空気か屁』を上演する。2011年の横浜ダンスコレクション2011で審査員賞を受賞、今回の上演はその受賞公演にあたる。受賞作『syzygy』は、一応ダンスの作品なのだが、住宅の壁面の建設に使いそうな平たい板を二人のダンサーがすごい勢いで扱い、ときには乗ったり、乗った後は滑り台のようにそこからすべったり、板が「ダンサー」のようでもあり、ダンサーたちが板のごとき「もの」でもあるという、なんとも不思議な、他に類似する例を探しにくい(板の使用という点ではKo & Edgeの『美貌の青空』を先行例とみなせなくはないけど)「唯一無二」という感触の残る作品だった。同じく2011年には、『モチベーション代行』を発表。これは、コンビニでバイトする自分自身を扱った作品で、演劇的な要素は濃いが、鳥の唐揚げをつくる機械が舞台上で油っぽい匂いをたてているなど、超リアルな作品構成が印象的だった。昨年の吾妻橋ダンスクロッシングでは、心霊現象に遭遇した体験を語るパフォーマンスを行なった。さて、このように紹介すればするほど、捩子ぴじんとは何者かがわからなくなってくる。若いころは大駱駝艦で研鑽を積んだこと、あるいは手塚夏子との交流、あるいは昨年快快とアメリカ合衆国ツアーを行なったこと……説明を増やせば増やすほど、ますますその実体はわからなくなってくるだろう。はっきりしているのは、捩子ぴじんならばなにかをやってくれるということだ。公演日には都知事選も結果が出ている。ぼくたちの生きる道がどんな道筋を辿っているのか、そんな現在と未来に抱く不安と恐れに、捩子の舞台はきっとヴァイブレーションを与えてくれることだろう。

2014/01/31(金)(木村覚)