artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

チェルフィッチュ『地面と床』

会期:2013/12/14~2013/12/23

神奈川芸術劇場[神奈川県]

ぼくはポッドキャスト中毒者だ。1人でいるときはほとんど常時、そして寝る前と起きてすぐも必ずiPhoneに差したイヤーフォン越しに、ポッドキャストを聴いている。お笑い芸人のも好きだけれど、欠かさず聴いているものの多くは社会問題や政治問題を論じる番組のものだ。artscape読者のなかでぼくのようなヘヴィリスナーは少なくないと思うけれど、ぼくが最近試みている、TBSラジオとニッポン放送を交互に聴くというリスナーは多くないかも知れない。荻上チキや青木理、神保哲生などTBSラジオの出演者にはどちらかというと「左」の論客が多い。それに対して、ニッポン放送の場合、論客の多くは明らかに「右」より。ぼくは比較的「左」の意見に同調しがちなタイプだが、ひょんなことから「ザ・ボイス そこまで言うか!」を聴くようになり、イライラしつつも、こちらの意見にも耳を傾けたほうがいいと思うようになった。あっちもこっちも聴くとぐらぐらする。あっちでからかいの対象だった政治家が、こちらではヒーロー扱い。逆もしかり。そして、簡単にどちらかに軍配が上がるものではなく、対立は根深いということがわかってくる。いまは、自分の欲しい情報だけを取り込んで、それが世界だと思ってしまえる時代。だからこそ、このわかり難さに向き合うことは、結構意味があることかもしれないと、ぐらぐらしてみる。
ぼくにとって『地面と床』は、「右」と「左」の番組を両方聴く感覚と似ていた。近未来の日本。国際情勢が不安定になり、戦争へと進むことが現実味を帯びている日本。そこに暮らす一組の家族。兄は結婚しその妻は妊娠中。弟は最近、失業の苦しみから解放され、仕事を得た。しかし、兄弟の仲は険悪だ。道路をつくることで自己アイデンティティを回復しようとする弟は、愛国的な意識を強め、対して兄はこの国の将来を憂いて子どもが生まれるのを期に国外への移住を考える。この両者の対立は、けっして調停されることがない。この舞台には、どんな調停の契機もない。弟は兄夫婦を怨む。その怨みは、義理の娘を嫌悪する母の思いと同調する。母はすでに死んでいる。母は「地面」の下から弟を経由して、「床」にいる者たちに力を及ぼす。この死者の及ぼす力が「日本的伝統」のメタファーなのか、たんなる嫁姑問題なのかははっきりしないのだが、兄弟の諍いという横の軸に対して、死者と生者あるいは伝統と進歩という縦の軸が設定される。シンプルな構造がこの芝居を引き締めている。
この芝居は、ほかにも二項対立の緊張に満ちている。「世界9都市国際共同製作作品」という冠のもと、複数の国での上演を前提にしてつくられているという経緯がそうさせているのだろうが、上記した家族のほかに、「日本」について語るイライラした女性が登場し、「日本とその他の国」という対立を浮きぼりにする。具体的にはこうだ。舞台上に白い十字状のオブジェがある。これはスクリーンでもあり、海外の上演で用いられたまま、英語字幕が映写される。この女性は、客席に座るどれだけのひとが自分の話す日本語を理解しているのだろうかと絶望を口にしながら(この部分は、日本での上演の場合、明らかにちぐはぐなのだけれど、観客は海外での上演の模様を想像しながら見ることになるので、このちぐはぐな状態は実際のところなんら問題とはならない)、自分の思いを早口でまくしたてる。ところが字幕はそれに追いつけない。イライラした女性はこの字幕の進行を待ち、一層イライラしてくる。このメタ演劇的仕掛けは、日本のマイナー性を明らかにする内容面だけではなく、マイナーな国がどう自分たちの状況を表現すればよいのかという方法的側面においても効果的だった。そして、日本人の観客としては、この国に生きる不穏さは、別に3.11が起きようが起きまいが私たちを取り巻いていた、なんてことに気づかされる。
もうひとつの二項対立は、役者の身体に関わることだ。今作では、『三月の5日間』以降注目されたいわゆるチェルフィッチュ的な身体性は、最小化されていた。山縣太一は汗をびっしょりかきながら、独特の、観客にとって不可知のルールに縛られた身体動作を続けていたのだが、そのほかの役者たちは、以前のような、発話に動機づけられた無意識的な動作の拡大・反復表現はしないで、微小な動作を行なうだけだった。何というか、薄っぺらい、存在の重さを欠いた、あてどない身体だ。興味深いのは、以前のチェルフィッチュとは異なり、観客の身体への訴求力が弱いことで、けれども、だからこそこの身体はこの作品の上演にふさわしいと思わされたことだ。言い換えれば、これまでのチェルフィッチュにはモダンダンス的なところがあって、観客の身体に直接訴える身体の強度を帯びていた。確かに演劇においてはユニークなのだが、そうした試みはモダンダンス的な文脈の更新にはなっても、身体に直接訴えるのとは別の身体の可能性を模索しようとするならば、妨げになりかねない傾向でもあった。本作の「薄っぺらい、存在の重さを欠いた」身体は、調停しえぬ対立のなかで揺れている人間の身体にふさわしい。その印象を倍加させたのは、サンガツの音楽だった。今作でサンガツは、舞台美術のように舞台上で存在感を示す音楽を目指したらしい。なるほど、でも、舞台美術というよりは、ぼくの目/耳には、音楽は役者と並立する位置にあった。音楽と音響(音素材)のあいだにあると言えばよいか、サンガツの音楽はギターやドラムなどの楽器の存在を強く意識させる質を帯びていて、「ジャリッ」「ガリッ」などのノイジーな響きはそうした楽器の身体性をむき出しにしていた。しかも、その音がかなり大きく響き(ときには観客の身体を直接揺さぶるほどに)、耳を支配するので(そのため、役者はマイク越しに台詞を発していた)、目には見えないのだが、舞台上にあるいは客席に徘徊する幽霊のような仕方で、場を支配していたのだった。この「もう一人の役者」とも言える音楽と、人間の役者との対立は、音楽の存在位置を高めるとそれだけ、役者の身体が薄っぺらく脆弱に見える効果を与えていた。快快と比較しても面白いかも知れない、舞台から追い出されそうなこの脆弱な身体たちは、しかし、汗を垂らしている山縣が存在していることによって、なんとか消滅の危機に抗っているようだった。
今作で岡田利規は、演劇が抱えうる多数の「二項対立」を取り出し、そこに調停なしの争いを露呈させた。なんと率直でわかりやすく、それでいて簡単には解消できない諸問題が舞台上で露出してしまったことだろう。「二項対立」とは、言い換えれば「批評性」ということだ。政治の実践的場とは異なり、演劇の上演は結論を出す場でなくていい。むしろ丁寧に対立を浮きぼりにすることこそ重要だ。日本を生きることの不穏さは消えないし、対立は容易に解消しないだろう。けれども『地面と床』から、ぼくたちは「対立」の相貌を知ることができる。岡田の作品のなかで、これまでの最高傑作なのではないかと思う。


チェルフィッチュ「地面と床」

2013/12/15(日)(木村覚)

向雲太郎『舞踏?──ぶとうってなんだろう?なにそれ?おいしいの?』

会期:2013/12/13~2013/12/14

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この公演は長らく大駱駝艦のメンバーとして(すなわち1人の舞踏手として)研鑽を積んだ向雲太郎が、「舞踏」ではなく「舞踏?」を踊った問題作。タイトルに「?」が付されているのは、この上演が舞踏作品ではなく「舞踏について」の作品であったことを意味する。すなわち、これは言うなればコンセプチュアル舞踏であり、メタ舞踏だったのだ。古巣の大駱駝艦作品に似て、本作には進行順に六つの小タイトルが付けられているのだが、その六つのパートはどれも一貫した仕掛けが一つひとつにあり、そのどれもが、一般的に基礎とするような舞踏的身体技法抜きで、いわば外側からの強制によって動きが舞踏になるように準備されているという点に特徴がある。例えば、冒頭の「1. 暗黒君II」では、大リーグボール養成ギプス(「巨人の星」)のごときエキスパンダーのバネが仕組まれた器具を、腿や腕、頭に装着することで、どうしても手足や背中を伸長させることができず、向の体は腰の曲がった老人のような姿勢になってしまう。これは、自動的に舞踏的な姿勢がとれる一種の「舞踏家養成ギプス」であるみならず、もともと舞踏が踊れる向に通常の意味での舞踏を踊らせなくするための「拘束具」でもある。つまり、この舞台でダンサーは、いったん自分のスキルをゼロにし、そのうえで踊るということを行なうことになる。
「メタ舞踏」と呼んだのは、こうした点だ。ほかにも、食用の鶏を白塗りし、舞踏を踊る人形にしてみたり。どうも白塗りの粉は実際は小麦粉で、踊らせたあとオーブンに入れ、最後にそれを手を使わずに食べた。貪りつくと、顔が曲がり、首がくねって、そのさまは自ずと「舞踏的な動作」と化した。ラストでは、映像の粉雪が降り、その真ん中に向が立つ。次第に雪が吹雪になり、強烈なノイズへと変貌すると、その嵐の中に巻き込まれた向は、やはり舞踏のある種の場面によくあるような、受動的で被虐的な身体の危機性を湛えていた。ただし、通常の舞踏公演ならば、それは踊りで、あるいはギッと虚空を凝視する目や痙攣する腕や脚で表わすものだ。それを、踊る代わりに映像のノイズを肉体に浴びせることで、つまり踊らずに示したわけだ。こうして、この上演で向は徹底的に通常の意味で踊ることなく「舞踏について」のパフォーマンスを続けた。
数少ない、通常の意味での「踊り」に見える場面に「5. Girl~Kさんのほうへ」があった。しかし、ここで向が行なったのは、土方巽の踊りを極めて忠実に再現することだった。踊りの途中で舞台の箱を蹴ると転がって現われたのは「土方 完コピ中」の文字。なるほど、トータル10分ほどのパートは、衣裳の再現もあいまって、確かに『夏の嵐』という記録映画に登場する土方によく似ている。アフタートークで、向自身が発言したところによると、これはYoutubeにアップされた映像をスマホで見ながら2カ月ほどかけて模倣したものだという。トークのゲストだった川口隆夫が8月に上演した『大野一雄について』も、その点では同じく映像化されたダンスをコピーする企てだった。この上演に影響を受けたとの発言も向からあったのだが、確かに似たところがあるもののの、川口の試みには大野一雄が川口に憑依したかのようなところがあったのに対して、向の試みた土方巽の踊りにそうした要素はさほどない。丁寧なのだが、体を土方の所作の上に「置きにいっている」感じがした。あるいはパロディ的に見えるところもあった。「コピー」というアイディアのもとで、今後、ダンスへ向けたコンセプチュアルな思考が高まっていくにつれて、その狙いや意図の違いから、多様な実践が起こることだろう(そう希望します)。川口や向のチャレンジは、その発端だったと、将来振り返られることだろう。アフタートークでは、映像と並べると向の踊りが少しずつ遅くなってしまい、その点では完コピとはならなかった趣旨の話があった。これはちょっと印象的で、仮に完コピする時間が10分ではなく1分だったら、少しずつ遅くなるという誤差さえも調整可能かも知れず、ならば、ぜひそういうトライアルも誰かに行なってみてもらいたいなどと思わされた。音楽が主導する踊りであれば、その点は克服できるはずで、舞踏においても、時間をマップ化する仕組みができれば、不可能な課題ではないはずだ。もちろん、よりいっそう問われるのは、なぜ「完コピ」したいのかという点である。このことは大谷能生氏とぼくとで、室伏鴻プロデュースの『〈外〉の千夜一夜』においてさしあたりのトークを行ない、また目下のところ継続的に考察中の「映像化されたダンス」の問題に関わってくる事柄である。この点については、いつか稿をあらためて触れてみたいと思う。
向の活動は、来年にはさらに目立ったものになるようだ。来年の12月には自身のカンパニーによる旗揚げ公演が予定されているという。なんとカンパニー名は「マルセルデュ社」。マジか? ようやくダンスも、レディ・メイドについて問うようになるのか、否か。少なくとも、これまでの日本のコンテンポラリーダンス史のなかであるべきはずだった当然の問い直し(「?」に象徴される)が、いま起ころうとしているのは事実だ。

2013/12/13(金)(木村覚)

生西康典『おかえりなさい、うた』

会期:2013/11/30~2013/12/04

UPLINK[東京都]

「音の映画」という言葉が作品タイトルの脇に添えられている。それで勘ぐって「ああ、画面に何も映らないで音だけ流れるってことね」と早合点してしまったら、大変なことになった。ぼくだったら代わりにこの映画を「映画館の映画」と形容するだろう。あれでも、それじゃあ、あたり前か。ならば「映画館的闇の映画」ではどうか。「音の映画」というけど、たんに音だけならばCDを聴けばいいし、上演するならば、明るいところで(日中の野外でも)スピーカーがあればそれでいい。でも、この作品はそんな単純な「音」の映画ではない。上演は必ず映画館がなければならない。いや、正確には、映画館の「闇」こそが、この映画にとって、必要不可欠のパートナーなのである。声でカウントダウンが始まる。その後、映画館はいつものように闇になる。だが普通ならば、闇になった直後に映写機が稼働し、スクリーンに光が当たり、観客の視覚能力も稼働を始めるものだ。それが、この作品では光が最後まで与えられない。音は聞こえてくる。ときに、演奏だったり、誰かのインタビューだったり、お話だったり、宇宙に関する詩的な言葉だったりが、耳に入ってくる。もちろん、その音たちを構成した生西康典の、音に体するデリケートな探査能力や選択能力にもワクワクさせられるのだけれど、それは夜の闇に浮かんでいる星々のようなもので、この作品を彩っているものには違いないが、しかし、この作品のもっている甚だしさの一部に過ぎない。音たちに囲まれながら、何度も目をぱちくりしてみた。もちろん、なにも見えない。この「見えない」状態が長く続くとどうなるか。ぼくは対象を求めた。ぼくの感覚は対象を求めて反り返る。その結果ぼくは「対象を求める自分」を感じるところへと至った。自分の身体を感じる、その呼吸とか、見えない目の動きとか、音に遭遇され続ける耳の感じとか。それはほぼ同じことなのだが、闇を感じることでもある。闇が膨らんでそれ自体が実体を持つような感じになって、自分を囲む。この感じは、ただ目が見えないという事態が生じるだけで起きることであるならば、自分のすぐ近くにいた隣人のはずだ。しかし、その隣人をぼくはほとんど知らずにいた。そんなことに心底驚く。映画館という人工的に闇を出現させる場の本領が映画(映像=光)がないことで立ち上がってきた。ちょうどこの数日前に、ぼくは水戸芸術館で行なわれた視覚障害者と展覧会を見るイベントに参加したばかりだった(「ダレンアーモンド──追考」関連イベントで、タイトルは「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー『セッション!』」)。視覚障害者も、触覚的な要素なしでも展示を楽しむことができる。彼らは、見えるひとと一緒に展示室に入り、見えるひとから作品の説明をしてもらったり、作品に抱いた感想を聞くことで、鑑賞を行なう。見えるひとの多くが孤独な作業だと思っているのとは異なり、彼らにとって鑑賞は社交し、おしゃべりを交わすことなのだ。視覚障害者がこの作品を鑑賞すると、どう感じるのだろうと思った。あるいはぼくらはどんな言葉を交わすのだろうと想像した。この作品の真骨頂が「闇」の体験になるのだとして、闇との付き合いが長い「玄人」な彼らは、この作品にどんな感想を持つのか知りたいと思った。そんな未知の隣人に気づくことが、この作品の唯一無二な力なのだ。生西の映像作品には、ほかにも『演劇』『ダンス』と呼ばれるものがあり、今回ぼくは『ダンス』(「星の行方 Where Did the Stars Go…」「既に光は 暗い土のなかに」の二作の舞台公演を映像化したもの)も見た。とくに「星の行方」の映像と踊る生身とのコラボレーションには、新鮮な感触が強くあって、「映像」と「身体」の関係可能性について深く考えさせられるところがあった。

2013/12/04(水)(木村覚)

フェスティバル/トーキョー13 F/T13イェリネク連続上演 光のない。(プロローグ?)

会期:2013/11/30~2013/12/08

東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]

宮沢章夫演出の「光のない。(プロローグ?)」を観劇した。女優たちが次々と言葉を発していくが、F/T13から与えられた難題=イェリネクの難しいテキストをよくもまあ演劇化したものだと感心する。同じ脚本をもとに、小沢剛が展覧会の形式によって一切音としての言葉を排除したのに対し、宮沢は逆に徹底的に声による言葉にこだわる。彼によれば、語りの私は「死者」とみなしたという。

2013/12/01(日)(五十嵐太郎)

マームとジプシー『モモノパノラマ』

会期:2013/11/21~2013/12/01

神奈川芸術劇場[神奈川県]

今月のレビューで取り上げたQ『いのちのちQ II』を見た直後、横浜に移動して観劇したのが本作。同日に見たのはたまたまなのだが、両者には強い相関性があって、ひとつはどちらにおいても主役級の活躍をしている俳優・吉田聡子のこと。Qの2月公演『いのちのちQ』では重要な役を演じていた吉田は、上演日程が重なっている今回、Qではなくマームとジプシーの作品に登場していた。小さくて、被虐的で、凛としてもいる、今日の演劇を代表する顔のひとつだとぼくは思っているけれど、そのことは同時に、二つの劇団の今日性を映し出してもいる気がする。もうひとつは、どの作品も「ペット」をテーマにしていること。しかし異なるのは、Qがペットたちを主人公にしていたのに対して、マームとジプシーで舞台に現われるのは飼い主の人間たちであることだ。この違いは両者の作品性に決定的な違いを生んでいた(とはいえ、こんな風に両者を比較するなんて誰も思いつかないだろうし、ぼくの場合、たまたま同じ日に見たことで、両者の相関性に言及せざるを得なくなったというのが正直なところだ)。作・演出の藤田貴大は、今作に限らず、「ロス」に直面したときの「やりきれなさ」「悲しみ」へと観客を引きずり込もうとする作家だが、今作はそれが徹底していた。「モモ」と名づけた生後6カ月のネコがいなくなった。どこでどうしているのか。迷いネコを案じるのはこれまた社会において弱々しい存在の女の子たち(小学生? 中学生?)。男性俳優たちは木製のフレームを大小の形に組み合わせて、そうしてできた構造体をつくっては壊し、女の子たちは不安やいらだちや悲しみを抱きつつ、家や扉に見える構造体のなかで周りで躍動した。そう、その様はダンスと呼びたくなるほど躍動的だ。前半はそれでもゆるゆるとした体の運びも目立ったが、後半になると様子は一変、大縄跳びを行なったり、男性陣は1列になって前転を繰り返すなど、物語とは直接関係ない、けれども俳優たちの身体性に直接の変化を与える激しい運動が舞台を覆った。それにともない、物語の焦点が「死」に集中しはじめた。「モモ」の陰で川に流されていた5匹の兄弟たち、また友人の自殺、恋人の死と、立て続けに描かれる「ロス」の場面。正直、観客が登場人物に感情を移す十分な準備なしに、「悲しい」瞬間が訪れてしまうので、音楽があおり、役者の丁寧な演技がさらにいっそう「悲しみ」をあおるのだけれど、それが狙うほどには感情がかき立てられない。それともうひとつは、ペット(モモ)への思いは、飼い主のある意味一方的なものであって、Qが描くようなペット側の思いにひとが心を傾けた途端に相対化されてしまうところがある。その相対化を避けることでしか、この「悲しみ」は絶対化されないのかもしれず、ペットという他者の実存を見ないことによってしか、藤田の狙う感動は観客に訪れないのかも知れない。だからダメなのだと批判するのは簡単なので、この絶対的な「悲しみ」を描く必然的条件を考えてみるべきかも知れないと思う。前作の『cocoon』で描いた第二次世界大戦も、今作のペットという主題も、ぼくにとっては相対化できる悲しみだった。ぼくらにとって絶対的なのは、身体とともに生き死ぬことだ。この生と死の場である身体が、今作では物語とは切り離されて躍動していたが、物語と身体とが離れがたく絡まることがあれば、そこで表象される「悲しみ」は絶対的な質を帯びるのかも知れない。

2013/11/30(土)(木村覚)