artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
Q『いのちのちQ II』
会期:2013/11/29~2013/12/01
アサヒ・アートスクエア[東京都]
今年2月に横浜で上演された『いのちのちQ』を基にリアレンジした本作。キャストが何人か欠けたり増えたりがあったぶん、脚本もそれなりの変化はあったが、生命をめぐる問いかけは一貫していて、Qという劇団の、というか主宰の市原佐都子の強い意志が感じられた。ペットブリーダーの家に暮らす、犬の純血種たち。語尾が「~なんだわ、わ、わ、わーん」と裏声で上がり調子の主人公格の女の子(もちろん犬)は、祖父にして父にして夫でもある犬と一緒に暮らす。この設定が明らかになった瞬間、おぞましさが胸中を駆けめぐる。ペットの気味悪さは、市原が女性であるからこそ引きだせるものなのか? ともかくも、生殖し妊娠し出産する性を生きる者の、絶望と可能性がともに描かれることこそ、現在のQの際立った、他に得難い魅力だ。そう、絶望のみならず可能性が描かれるのだけれど、例えば、この主人公格の女の子(犬)は、密やかに、水族館に暮らすというオタリアとの交尾を夢見ている。彼女はテレビ越しにオタリアを知っているだけで、1人で水族館に行けるわけもないし、ましてや交尾を果たせるわけもない。仮に首尾よく交尾まで行けたとしても、それが彼女に与えるのは死だろう。彼女は結局、自分の愚かさを笑い、自分の境遇を受け入れてしまう。この世界に冒険の余地はない。いやでも、本当にそうだろうか。かつて飼っていた犬のことを忘れられずにいる人間の女性が登場するのだが、彼女は自分の混乱した性欲を吐露する。ぼくたちは、それでも欲情するのだ。欲情のなかに秘められている雑種化への意欲は、絶望ベースの世界における微かな希望だ。最近の女性劇作家たちの、世界へ向けた冷徹なまなざしに、ぼくは未来を見たくなる。かつて女性たちは、演劇やダンスの世界で、男性たち中心の空間を彩る「華」でなければならなかった。ようやく、「華」ではない女性の可能性が開かれようとしている。市原が描き出す醜悪なものの内にこそ、前人未到の未来が隠れている、そんな気がするのだ。
2013/11/30(土)(木村覚)
真夏の奇譚集
会期:2013/11/29~2013/12/01
もうひとつ公募プログラムでは、台湾のジョン・ボーユエン作・演出の「真夏の奇譚集/シャインハウス・シアター」を観劇。Jホラーの影響を受けた女性像で、現代の都市伝説的なエピソード群だった。が、出所なき噂でなく、体験者への取材をもとにしたものらしい。手持ちカメラで、ライブ投影する演出が効果的である。
2013/11/30(土)(五十嵐太郎)
いのちのちQII
会期:2013/11/29~2013/12/01
アサヒ・アートスクエア[東京都]
F/T13の公募プログラムで、「いのちのちQII」を観劇。ドッグ・ブリーダーと回転寿司バーを組み合わせ、犬や人間の血統、近親相姦、異種交配をテーマにしたもの。ジョセフィーヌ役の演技と声がパワフルなこと! さらりと語られる下品な言葉や天皇ネタなど、ドキリとさせる展開だが、空間性のある舞台美術もよかった。
2013/11/30(土)(五十嵐太郎)
プレビュー:チェルフィッチュ『地面と床』
会期:2013/12/14~2013/12/23
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
チェルフィッチュの『地面と床』が今月のレコメンド作品です。サンガツが音楽を担当するのみならず、「音楽劇」と銘打って音楽と劇との対等な関係を模索するということが、岡田利規本人の言葉として語られています。このあたりのアプローチは、かねてから岡田が試みてきたことの延長上にあるものとも思えるのだけれど、今回ではどんな表現で新たな指針を示してくれるのか、楽しみだ。いや、そういった穏当な期待だけではまずいだろう。どうも、これまでずっとチェルフィッチュを牽引してきた俳優・山縣太一が今回を最後に劇団を離れるようなのだ。詳細は不明だが、山縣本人のFacebookでのコメントを見ると、劇団やプロダクション側とうまくいっていないなどの話が綴られている(部外者が口を出すことではまったくないのだけれど、彼が訴えている役者の地位向上については、舞台関係者は真剣にその改善の可能性について考える必要があるだろう。なんといってもこれだけの成功を収めているチェルフィッチュの役者が訴えていることなのだから)。山縣のパフォーマンス=チェルフィッチュと思う部分もあったので、このことが事実ならばとても残念なことだし、山縣の出演するチェルフィッチュを見るひょっとしたら最後の機会となる可能性があるので、その意味でも、見逃すことはできない。
2013/11/29(金)(木村覚)
室伏鴻『リトルネロ──外の人、他のもの』(室伏鴻プロデュース「〈外〉の千夜一夜」
会期:2013/11/23
横浜赤レンガ倉庫1号館3階[神奈川県]
室伏鴻本人のプロデュースによるイベントでのメイン公演。僕も大谷能生さんとトークのイベントで参加したので、本イベントの〈外〉の人とは言えないのだけれど、あくまで批評の人間としてこの作品について考えたい。1時間弱の舞台。室伏の身体は、彼らしい身振りを絶えず繰り出した。突拍子なく不意に背中から倒れたり、首で支える逆立ちの状態で脚と腕を上げて「万歳……」を連呼したり、ぽろぽろと口から言葉をこぼしたり、舞台の脇で服を脱ぐと素肌を曝して壁にぶつかったり、四つん這いになって獣のごとく徘徊し口で真鍮板をくわえたり。すべてが室伏印の振る舞いだった。前半には、アップテンポの曲にノリノリになるなんてところもあって、新味な場面もなかったわけではない。だけれども、なんだか、空で対象を掴みそこねたように、どの動作もどこか頼りない。力がみなぎっていないというか、「ため」に乏しく、力の入れどころが見出せないまま時間が過ぎてしまったかのようだ(意図的なもの?とも想像させられたが、そう断定することもできなかった)。もちろん、それでも、ありふれた舞踏の、「自己嘲弄的」とでも非難したくなる弛んだ舞台とは比べものにならない、テンションの高さは保持している。けれども、考えていることから動作へと移る際の連動が早すぎて、気づくと予期せぬ事態が目の前で起こっていて、めまいを起こしてしまうといった感覚、室伏の舞台でしかえられないあの感覚が見ているぼくの内に訪れることはなかった。早さの欠如は、もっと際立つと、大野一雄がそうだったように、ダンサーが心に抱く踊りのイメージと実際の踊りとのあいだのズレが大きくなって、それはまた新たな踊りのニュアンスを生むのかも知れない。いまの室伏の肉体はその境地に立つにはまだ若い。それでも、やはり終幕でぼくは感動していた。たんなる「踊りの上演」ではなかった。獣になって四つん這いで口だけで真鍮板をくわえ、床に敷くと体をそこに沿わせたり、ユリの花を食いちぎって、客席のほうに放り投げたりといったラストは、「鎮魂」なんて言葉が頭に浮かんでしまう時間だった。ライオンになってしまった自分が人間だったころの微かな記憶にせき立てられて思わず行なってしまった儀式。そんな連想を抱かされてしまうほどの迫真性は、室伏にしか達成できないことであるのは間違いない。
2013/11/23(土)(木村覚)