artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

あいちトリエンナーレ2013 オープンアーキテクチャー 朗読劇「ベアトリーチェ・チェンチ」

会期:2013/09/27~2013/09/28

名古屋陶磁器会館[愛知県]

名古屋陶磁器会館のオープンアーキテクチャーと、田尾下哲らの演出による朗読劇「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」が開催された。まず1932年竣工の会館を見学し、輸出用の陶磁器産業が栄えていた歴史と、戦後に入ったデザイン事務所とリノベーションについて説明が行なわれる。続いて陶磁器会館の2階を使い、父殺しで処刑されたベアトリーチェを描いたとされる一枚の絵をめぐる朗読劇がスタートした。実はこの会場に決まるまで、ほかにさまざまな近代建築の候補を訪れ、検討し、ようやく決まったのだが、最初からこの場所のために制作されたと思えるほど、空間の相性がよい演出だった。朗読劇は、画家のグイド・レーニとある訪問者の会話(1615年)のシーンと、チェンチ家の事件が起きた1596~99年の回想シーンが交互に登場しながら、物語は進行していく。照明の効果だけで劇的に空間は変わるのが印象的である。特に奥の浅いアルコーブが光のたまり場として闇に浮かぶ。第一幕は強権的な父フランチェスコと娘ベアトリーチェのただならぬ関係を軸に展開するが、第二幕はむしろグイド・レーニと訪問者の会話による物語論であり、絵画論になっていく。振り返るポーズの「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」は、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」のもとになったと言われる絵だ。しかし、処刑前に描かれた女の目がなぜ絶望ではなく、光に満ちあふれているか。朗読劇を通じて、独自の解釈がなされる。空間を使い倒し、ジャンルを越境する、あいちトリエンナーレにふさわしい、近代建築を舞台にした絵画をめぐる朗読劇の初演だった。

2013/09/27(金)(五十嵐太郎)

あいちトリエンナーレ2013 パフォーミングアーツ アルチュール・ノジシエル「L'IMAGE」

会期:2013/09/22~2013/09/23

愛知芸術劇場 小ホール[愛知県]

「L'IMAGE」を観劇した。最後まで句読点が一切ないベケットの同名短編テキストをもとに、アルチュール・ノジシエルが演出した日本初演の作品である。地を這う男による、ばらばらになった身体のごとき特殊な動き。あるいは、痙攣と震え。そして同じ場にいながら、異空間に存在するかのような朗読と音楽。本編よりも長いアフタートークが、作品の理解を深めた。実はダンサーのダミアン・ジャレは、3.11の当日、東京にいて震災に遭遇しており、その激しい揺れの体験が反映されているという。また舞台に敷きつめられた芝は、もともと本作が屋外用につくられたからで、大地と交わる震える身体の運動なのである。

2013/09/23(月)(五十嵐太郎)

ほうほう堂「ほうほう堂@おつかい」

会期:2013/09/21~2013/09/22

あいちトリエンナーレ2013会場ほか[愛知県]

ぼくはこの公演を上演の現場ではなくiPhoneの画面で見た。あいちトリエンナーレ2013の委嘱作品である本作は、長者町を中心に、栄の街をあちこちと移動しながら踊るという一風変わった公演で、肉眼でつぶさにパフォーマンスを逐一追うという鑑賞スタイルは不可能。その分、パブリックビューイング、踊る場で待ち構える、Ustream中継で見る、という3種類の鑑賞があらかじめ用意されていた。ダンスの作品発表は舞台公演の形式をとらなくてもよいのではとぼくはかねてから思っていたので、今回の上演には未来を先取りするところがあると期待していた。舞台公演というのは、時間のみならず場所も制限しており、この二重の制限は、ネットが浸透した時代にあまりにも不自由ではないか。肉体表現はライブでなければならないというもっともらしい考えも、本当に検討するべき課題を先送りするための言い訳になっていはいないか。新作をYouTubeで公表する作家がいてもいいのだ。そう、例えば、ほうほう堂はすでに3年ほど前から、戸外のあちこちに繰り出して踊り、それを映像に収めてYouTubeに投稿してきた先駆者だ。今回の上演は、そうした活動の集大成だという。ぼくは、上演予定の15時30分にはまだ家族と江ノ島で遊んだ帰り道で、街中にいた。そんなルーズさでも鑑賞体験が成立すると言うことに、まずは痛快さを感じた。さて、放送を見ると、和菓子屋のCMが始まっていた。会場から会場へと移動するあいだなどにも用いられたこのCM。「おつかい」がテーマであることともあいまって、栄周辺がどんな街で、どんな歴史・伝統を宿しているのか、現在の課題はなんなのかを、このCMは伝えてくれる。このCMという仕組みがとくにそう思わせるのだが、この上演は放送が前提になっていたのは驚きだ。ほうほう堂は、CMがフォローした場所を含め、県庁舎や長者町の倉庫、喫茶店、花屋、ビルの屋上などで踊った。彼女たちの踊りは、ミニマルな動きを反復したり、ユニゾンしたり、2人でずらしたり、シンプルで短いフレーズの連続する様が特徴。それは映像化したときに、ちょっとした武器になる。スローモーな動きとか、見る者に緊張を強いる動作だと、映像では伝わりにくい。しかも、まだネット中継の基盤が整っていない現状では、しばしば映像の中断が起こるので、一層、数秒でまとまったニュアンスが伝わる振付のほうがよいのだ。彼女たちの気負いのない、気取りのない、些細だけれど、フレンドリーなダンスは、観客と現場とを上手くつなぎ合わせ、結び合わせる糸の役割をはたしていた。ただ、その糸にもっと独特さを感じさせる「よれ」があってもよいのでは、とも思ってしまった。CMなどとくにそうなのだが、彼女たちの眼差しが特にどこにこだわり、どこに「あいち」の潜在的な力を見いだしたのか、そこにハッとさせられる点があってもよかったのではないか。とはいえ、個性のごり押しで作品が小さくなるよりはよいのかも知れない。ほうほう堂が進めたこの一歩から、どんなネクストが起こるのか? コンテンポラリー・ダンスの未来はこのあたりに鍵があるような気がしてならない。

『ほうほう堂@おつかい』あいちトリエンナーレ2013 ダイジェスト映像

2013/09/22(日)(木村覚)

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奥山ばらば(大駱駝艦)『磔 ハリツケ』

会期:2013/09/13~2013/09/21

「壺中天」スタジオ[東京都]

まるでオーソン・ウェルズの『フェイク』みたいだ!と言ったら大袈裟すぎるだろう。けれども、そんな賛辞を口にしそうになるくらい、今回の大駱駝艦・壺中天の公演は飛び抜けて面白かった。
冒頭、闇から現われたのは、柱に磔にされた奥山ばらば(作・主演)。車輪のように巨体がぐるぐる回される。被虐的な光景は、しかしよく見ると、腕や足に縛られたり釘で打ちつけられたりといった様子がない。ということは、自分で率先して磔にされている? 受動と能動、加虐と被虐がはっきりと線引きされず、曖昧なまま浮遊した状態、この作品の決定的に秀逸なところは、この点に集約される。ほかにも例えば、奥山がほどかれて(自らほどいて)舞台奥に行くと、村松卓矢扮する「磔の先輩」のごとき男がやはり磔にされている(自ら磔になっている)その脇で、柵に体を巻き込んで何度もポーズを変えながら柵に絡まれる(自ら絡まる)シーン。あるいは、この2人をこらしめる古代ギリシア風「奴隷の監視人」らしき男が現われ、鞭を打ち鳴らし2人を怯えさせるのだけれど、自分で振っている鞭の音に自分で驚き「ビクッ」と狼狽えるなんてシーンがある。こうしたシーンはたまたまではなく明澄な知性が生んだものだ。舞踏の創始者・土方巽は死刑囚に「舞踊の原形」を見た。「生きているのではなく、生かされている人間」という「完全な受動性」に舞踏の根源があるなんて言葉を残している。しかし、そうだとしても、それを意図してなんらかの策を講ずるならば「完全な受動性」は途端に揺らぐ。受動を能動的に求めるという矛盾あるいは嘘。これは、舞踏に限らず、およそすべての舞台芸術が共通に出くわす隘路だろう。嘘を嘘と知りながら真に受けてくれる観客の「不信の宙づり」に支えられて、舞台表現は生き存え、同時に問うべき問いが先送りされる。大抵はそんな感じでことなく進むのだが、ウェルズは希有なことに『フェイク』その他の映画のなかで、この嘘の問題に真っ直ぐフォーカスしたのだ。奥山も今作でこの「嘘」という圏へと果敢にもアクセスした。
こうしたコンセプトも素晴らしかったのだが、もう一点言及しておきたいのは、踊りが純粋に面白かったことだ。奥山のソロの動きは、まるで逆再生した映像をトレースしているかのような、不思議な浮遊感があって、次の動作が読み取れず、そのぶん目が離せない。それも魅力的だったのだが、一層重要なことであるのは、大抵の舞踏的な動きとは対照的に、奥山をはじめ、登場するすべての踊り手から内向性をほとんど感じなかったという点だ。ようするにカラッとしていたのだ。観客は踊り手の内の秘めた部分を察知する面倒から解放されるがゆえのことだろう。そうだからか、踊り手の身体は奥山の与える数々の振付で奴隷のように弄ばれているのだが、被虐的ではなく、弄ばせているのだよと言いたげな軽さがある。その点でとびきりだったのが、「磔の先輩」と「奴隷の監視人」が舞台に横並びにさせられたとき、他の踊り手たちが彼らの両手、両足、口、頭などに次々と小道具を握らせ、履かせ、銜えさせ、被せるシーンだった。右手に位牌、左手に裸の人形、眼にはサングラス、頭にはかつら、例えばそんな小道具が盛られると、2人の踊り手はその事態にあわせたポーズを恐る恐るとるのだが、すぐに小道具は別のものに変えられてしまう。そうなると、変化したバランスに対応しようとして、2人はまたポーズを恐る恐るゆっくりと切り替えねばならない。ポーズをとっているようでとらされているようで、なんともいえない、能動と受動のあわいに突っ立った体が、じつに生き生きとしていて面白い。
大駱駝艦・壺中天公演では、しばしば、踊り手の体がちゃんと遊びの道具になっている。まるでゲーム上の体のように、まるでニコニコ動画上の体のように。今作は、そんな彼らの遊び心が躍動しまくっていた。脱帽です。

2013/09/19(木)(木村覚)

イリ・キリアン「East Shadow」

会期:2013/09/14~2013/09/16

愛知芸術劇場 小ホール[愛知県]

イリ・キリアンの「EAST SHADOW」を観劇した。寄せては引く波のように、絶えず繰り返される向井山朋子のピアノのリフレイン。舞台の右半分は超高解像度の映像で記憶を追想するような男女の動きのシーン、左半分は右と同じ室内が実物として存在し、実際のパフォーマーの抑制された動きがある。そして感情の波の高まりで出現する津波の映像。静謐でパワフル。コミカルな部分もありながら悲しい。実体と映像が交錯しつつ、とりわけ影のふるまいが美しい。普遍的でありながら、東日本大震災を想起させ、あいちトリエンナーレのテーマにも即している。恐るべき完成度で、世界初演の新作が発表された。

2013/09/15(日)(五十嵐太郎)