artscapeレビュー
捩子ぴじん『空気か屁』
2014年03月01日号
会期:2014/02/11
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]
捩子ぴじんがまず舞台に入る。ふわふわと踊りだす。真後ろに白いカーテンが揺れる。その揺れと捩子の動きが重なり響きあう。大駱駝艦に所属したこともあるその身体は、十分に見応えのある「曖昧さ」を見せ続ける。そのダンスの密度にあっけにとられていると、不意に踊りは止み、次に音楽家のカンノケントがあらわれる。背の高いカンノがじっと立つ。何もしない。舞台上の身体とは不思議だ。何もしなくても、いや、何もしないときに、見ないではいられない質がうまれることがある。なんとなく、そんな「質」に見とれているときに、不意に「ばあ!」とカンノはふざけたポーズを見せた。驚かされるが、そこに演劇的なあるいはダンス的な質はない。むしろ個々の観客たちと地続きの身体がそこにあるということに、観客は気づかされる。捩子とカンノはしゃがんで指で数を数えたり、床を軽く手で叩いたりした。次に、さっきまで寝ていたようなぼんやりした顔の男(篠原健)があらわれて、言葉みたいだけれど無意味な音を口にし続けた。最後に女(若林里枝)があらわれる。無意味語を発し続ける男の脇で、声を出して笑う。彼女はリラックスしていて、この場を相対化してゆく。出演者が全員舞台に登場したあとで、寸胴に溜まったヨーグルトらしき液体に一人一人顔を浸けた。白いカーテンとも呼応する、柔い白塗りが生まれた。おかしな化粧はテンションを微妙に上げた。4人は、さっき捩子とカンノとで行なっていたリズムの生成を始めた。ケチャのようでもあるが、静かで、あまり複雑にはならない。個々のリズムに没頭して、全体で音楽みたいなものになっていった。若林が篠原を被介護者に見立てて介護の動作をはじめた。これもまた日常と地続きの行為。それに音楽みたいなものが重なる。日常の光景から立ちあらわれるロー・テンションの祭り。そう、見ていてずっと感じていたのは、ここにある独特な祭り性だった。この独特さに似ているのは、最近の手塚夏子の上演だ。一般的な伝統の継承とは異なる仕方で、あくまでもコンセプチュアルに、純粋に方法的に、祭りをいまここに立ち上げること。手塚の最近の試みをそう称するならば、捩子はまさにそれを実践しようとしているのではないか。派手さはない「ロー・テンション」は、「空気」とみなしてしまうほどの「屁」なのかもしれないけれど、どうしたらいま・ここで祭りが立ち上がるのかという問いは、わかりやすい「派手」さから距離を取らずには、問うべき意義を見失うだろう。横浜ダンスコレクションの受賞者公演として上演された本作。ダンスのメインストリームからかけ離れているかに見えるこうした上演こそが、評価されるべきまったくユニークな試みであり、日本の未来のダンスにとっての道標であるかも知れない。ただし、その道標は、いままだ微かにしか、人には見えていない。
2014/02/11(火・祝)(木村覚)