2021年10月15日号
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artscapeレビュー

田村一行(大駱駝艦)『又』

2014年03月01日号

会期:2014/01/31~2014/02/09

壺中天スタジオ[東京都]

しばしば大駱駝艦の壺中天公演は、舞踏の基礎を身に宿したダンサーたちが、既存の「舞踏らしい舞踏」とは別のところに舞踏を導こうとする場だ。今作もそうだった。挑戦的で挑発的でもあるプログラムは、舞踏かどうかと聞かれれば、「舞踏じゃない」と答えるべきかも知れない。ただしそれは、ややもすればダンスの死せる古典としてとらえられかねなくなった日本の前提的なダンス(=舞踏)を、あくまでも現在も生きて働くものとして現代の社会のなかに躍動させる実験として評価されるべきだろう。冒頭、ウエディングドレスを纏った田村一行がうつぶせでうずくまる。その周りに、ガラスの入った杉の戸が田村を囲む。真冬の突風の音。ベタなくらいに「東北」(舞踏の世界)がこうして舞台に置かれるのだが、しかし、あくまでもさらっとしていて、泥臭くない。舞踏のイメージに寄り添いながら、それに耽溺しない。当たり前と言えば当たり前だ。日本人と言えど、現代の私たちは、土方が参照した東北の生活のリアルな面を知らない。いや、土方が取り上げた時点でも、それは忘れられつつある情景だった。それは、モダンな芸術世界を生きる土方が、モダンな芸術を活性化させる試みとして巧みに参照したものに相違ない。杉の戸がカタカタと風に揺れるさまは、過去の日本の世界である以上に、とくに若い観客にとっては、未知の世界への入り口なのだ。田村以外の若いメンバーたちは、柔らかい動きを重ねていく。音楽のニュアンスがそう連想させるのかも知れないけれど、冒頭の北風の音が想像させた寒さよりも、彼らからは熱帯の雰囲気が漂う。彼らの見せ場が、両手で鎌を手にしダンサーの首を刎ねる場面だったことも、そうした印象を強化した。南方性の舞踏というのは、これまた矛盾と言える。ただし、具体的などこかの少数部族の文化を再現するなどと言ったものではなく、あくまでも、「鎌」の扱いが観客に与える「ショック」というものに、焦点が置かれている。戸のガラスに田村が自分の顔を映して、古いガラスの歪みで顔が歪むのを見せた場面でも同じことを思った。つまり、田村は、舞踏のなかのとくに「ショック」の効果を抽出して、世界に歪みを与え、世界の見え方を一瞬変えようとしたのではないか。その目的のためには、舞踏的なアティテュードは、目的に奉仕する部分以外は必要ない。そう考えているのではないか。舞踏とは、この社会においてどんな効果ある役割を担いうるのか、そのひとつのアイディアをこの作品は提出していた。この試みは、まだ実験的なものに見えたけれど、社会のなかに深く入り込んで行こうとする誠実な野心を感じた。

2014/02/09(日)(木村覚)

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