2021年01月15日号
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artscapeレビュー

笠井叡×麿赤兒『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』

2012年12月01日号

会期:2012/11/29~2012/12/02

世田谷パブリックシアター[東京都]

ダンサーとは錬金術師ではないか。あるいは、七五三の子どもをカメラに向かせようと「鳩が出ますよ!」と口にするカメラマンではないか。笠井叡と麿赤兒。ともに1943年生まれ。舞踏の黎明期から活動してきた2人が、真っ向からぶつかり合った宣伝に偽りない「事件」的上演は、ダンスという表現が独自に有している「嘘の真実性」とでもいうべき不思議な質を大いに湛えていた。ベートーヴェンの「第九」が、第1楽章から律儀に最終楽章まで大音量で流れ続けるなか、笠井が率いる天使館の若者たち4人の肌色の肉体と麿が率いる大駱駝艦の若者4人の白塗りの肉体とが、ときにバトルするように、ときに協働しながら、舞台を縁取ってゆく。そのなかを、笠井はラメの入ったズボンを履いて、まるでミック・ジャガーのようなアグレッシヴでときにコミカルなダンスを繰り出し、対して麿は巨大なカツラにロングドレス姿でのっそりとまたときどきなにかに翻弄されているかのような仕草をして徘徊する。彼らの動作は、バレエやモダンダンスといったオーセンティックなダンスとはほど遠い。そうしたダンスならば約束される美しさや様式性を見せることはない。あるいは、若いダンサーたちが体現する高い身体能力も彼らの身体とは縁遠い。ゆえに、2人の動作は「とんでもないなにかがここにはある」と約束しながら、その約束を延々と先延ばししているような詐術を感じさせる。いや、これは非難ではない。若い身体が現在の躍動を通して未来へ向かう可能性を示すのとは異なり、不可能性を意識させる初老の身体が語るのは、現世とははかない夢であるという真実である(とはいえ、彼らはまだ初老というのもはばかれる溌剌としたところがあり、もっと老いたほうが若い身体とのコントラストは際立ってくるだろう。大野一雄がそうであったように、10年後の彼らの身体こそ見物であるのかもしれない)。「三途の川をみんなで渡ろう」なんて台詞も笠井の口から漏れたが、2人の大袈裟でルール無用の振る舞いは、生の無意味さを嘆くのでも、意味あるものに無理やり変えようというのでもなく、ただ無意味さの周りで戯れるのだという意気込みばかりですがすがしい。「第九」の最終楽章が舞台を煽りに煽って「偉大ななにか」が立ち現われたかに見えた瞬間、音響のヴォリュームが急に下がり、それまで躍動していた若いダンサーたちがすっといなくなり、2人は舞台に取り残された。夢は消えた。あるいは、生はそもそもはかない夢だった。結局、鳩は出たのか、出なかったのか。定かではないが、「鳩が出るよ」の叫びの持つ人間的な真実に向き合うことができたことは間違いない。


笠井叡×麿赤兒 『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』

2012/11/30(金)(木村覚)

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