artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー

会期:2021/12/10~2021/12/26

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

theater apartment complex libido:は岩澤哲野、大蔵麻月、大橋悠太、緒方壮哉、鈴木正也による「演劇の拠り所」。「libido:Fシリーズ」はlibido:が拠点とする千葉県松戸市のクリエイティブ・スペース「せんぱく工舎」F号室を舞台に、所属する三人の俳優それぞれが持ち込んだ企画を演出家の岩澤が演出するひとり芝居のシリーズだ。

会場となるせんぱく工舎はもともと神戸船舶装備株式会社の社宅だった建物を改装したスペース。共有部のウッドデッキと芝生が開放的な1階にはカフェや本屋やバルが並び、室内すべてがDIY可能な2階のアトリエにはさまざまなアーティストが入居している。libido:が入居するF号室は1階の一番奥。今回の「libido:Fシリーズ」は2020年にF号室前の芝生を使って上演した『libido:AESOP 0』(原本:『イソップ寓話集』、構成・演出:岩澤哲野)に続く本拠地での公演となる。

episode:02として12月に上演されるのは緒方の企画による『最後の喫煙者』。ロロやKUNIOの作品でも俳優として活躍してきた緒方が筒井康隆による同タイトルの短編小説を演劇として立ち上げることを試みるという。『最後の喫煙者』の公演期間には5月にepisode:01として大橋の企画で上演された『たちぎれ線香』の再演もあわせて行なわれる。今回は両公演のプレビューとして5月の『たちぎれ線香』初演版を振り返る。


[撮影:畠山美樹]


『たちぎれ線香』は同タイトルの古典落語をもとにしたひとり芝居。『たちぎれ線香』というタイトルはかつて花街で芸者と過ごす時間、ひいてはその代金を線香の燃える長さで計っていたことに由来する。筋立ては以下の通り。ある商家の若旦那が小糸という芸者に惚れ、店の金に手をつけるほどに入れ上げてしまう。親族と店の者による会議が開かれ若旦那を懲らしめるためのさまざまな案が出るが、結局、番頭の案で若旦那は100日のあいだ蔵で暮らすことになる。その間、毎日のように小糸から旦那への手紙が送られてくるが、番頭はそれを自分のところで止めてしまう。80日目には「この手紙を読んだらすぐ来てください そうでなければもうこの世では会えないでしょう」という文面の手紙が届き、それを最後に小糸からの連絡は途絶える。100日を終えた若旦那はすぐに花街へ向かうが、小糸はすでに亡くなっている。小糸にあつらえた三味線と位牌を仏前に供えた若旦那が手を合わせると、三味線は若旦那の好きな「雪」という地唄を奏ではじめる。それを見た若旦那は小糸に許しを請うが、すると三味線の音は止まってしまう。小糸はもう三味線を弾けないと言う女将に若旦那が理由を問うと彼女はこう答える。「仏壇の線香がたちぎれでございます」。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]


もともとは上方落語で演じられていた『たちぎれ線香』の舞台となる花街は、上方では船場、東京では本所あるいは日本橋に設定されているという。今回のlibido:版ではかつて松戸にあった平潟遊郭に舞台をローカライズ。のみならず、芝居の導入として枕がわりに流れる映像にもせんぱく工舎周辺のさまざまな松戸情報が盛り込まれ、松戸での上演ということを強く意識させる演出となっていた。

せんぱく工舎は地元の人々の憩いの場となっており、『たちぎれ線香』の親密な客席の雰囲気も、libido:という団体が場所や地域に受け入れられているからこそだろう。娯楽として完成されている古典落語の演目をベースにしつつ地元の要素を入れ込んだ作品を上演するという選択も場所の性格に馴染んだものだ。「地元ネタ」には松戸駅からせんぱく工舎に至るまでに通りかかる場所も含まれており、松戸の外から訪れた私も興味深く聴いた。


[撮影:畠山美樹]


落語原作のひとり芝居らしく、大橋のひとり複数役は見どころのひとつ。元社員寮の一室という狭い空間をしかし巧みに活かし、観客を飽きさせない。照明による場面転換も効いている。悲恋にアイロニカルな結末をつける原作のサゲ(オチ)に対し自分たちなりのサゲを提示しようとする意欲にも好感をもった。

落語を現在形の演劇として立ち上げるためと思われる工夫のなかには効果的なものもあれば首を傾げたものもあり、全体としてはまだまだブラッシュアップの余地があるようにも思われたが、それが比較的容易なのもひとり芝居の強みだろう。俳優にとっては自分だけの武器ができることも大きい。俳優自身が企画を持ち込み、演出家と一対一で作品をつくる「libido:F」シリーズは、俳優・演出家双方にとって自らの役割や創作の方法を見直す契機となるはずだ。

『最後の喫煙者』は12月10日(金)から、『たちぎれ線香』は17日(金)から26日(日)までの各週末に上演される。詳しいスケジュールは公式サイトで確認を。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]



libido::https://www.tac-libido.com

2021/11/30(火)[2021/05/30鑑賞](山﨑健太)

「わが町」アクセス 徘徊演劇『よみちにひはくれない』

会期:2021/11/27~2021/11/28

岡山市表町・京橋地区[岡山県]

「老いと演劇」をテーマに「OiBokkeShi」を主宰する劇作家・演出家であり、介護福祉士の菅原直樹が演出する市街上演作品。「徘徊演劇」と銘打たれているように、「街を徘徊する認知症の病妻を探す老人」という設定の下、商店街や河畔を俳優とともに移動しながら観劇する。「OiBokkeShi」の「看板俳優」である95歳の岡田忠雄は、自身も実際に認知症の妻を在宅で介護する当事者でもある。また、本作は、NPO法人アートファームが企画・主催し、2023年秋にオープン予定の岡山芸術創造劇場のプレ事業「わが町」シリーズの一環として実施。建設予定地に隣接する商店街での上演は、街と劇場の距離を架橋する試みであると言える。地域の協力をあおぎ、商店街の路上に加え、実店舗の内部も上演場所となった。さらに、演劇へのアクセシビリティは「バリアフリー上演」としても整備され、手話通訳者の同伴や盲導犬を連れた観客の受け入れなどの観劇サポートも充実していた。



公演風景


「老い、介護、認知症」と「市街劇」を掛け合わせた形態として、「徘徊演劇」というキャッチフレーズは新奇な期待を抱かせる。だが、本作を見終えて感じたのは、「徘徊」の内実が、「20年ぶりに岡山に帰郷した主人公が街を彷徨う自分探しの物語」にすり替わってしまったという失望感だった。物語は、帰郷した30代男性の「神崎」が、子供の頃に可愛がってくれた高齢男性と偶然再会するシーンから始まる。「認知症で行方不明になった老妻を捜してくれ」と頼まれた「神崎」が、商店街の中をひとり探し歩くうちに、父親との確執や好きだった幼馴染の病死といった「彼の過去」が次第に明らかになっていく展開だ。「かつて父の営む店舗があった」空き地で語られるのは、病に倒れた後、以前にも増して暴力を振るうようになった父から逃げるように上京した経緯だ。「幼馴染の実家」の洋品店に立ち寄ると、彼女が癌ですでに亡くなったことを告げられる。河畔で泣き崩れる「神崎」の前に立ち現われる、幼馴染と父親の霊。上京してミュージシャンとして成功する夢も叶えられず、失職中でおまけに自分の浮気が原因で離婚調停中という「仕事も家庭もダメな男、神崎」だが、ラストシーンで高齢男性に再会して「病妻への深い愛情」を知り、現状を叱咤され、過去の確執とも決別して(商店街の店舗の)「外」へと一歩踏み出す……というストーリーだった。



公演風景


このように、本作における「徘徊」とは、「夢も愛情も人生の道も見失った傷心の男が、帰郷すなわち自分の原点に立ち返り、『男としての先輩』である高齢男性に諭され、再び希望と道を見出だす」まで街を彷徨う道のりに変貌してしまっていた。また、「父との確執」が軸になる一方、圧倒的な「母の不在」が影を落とす。だが、「母」はドラマに巧妙に埋め込まれている。「公園で遊んでいたら幼馴染が蜂に襲われ、大声で大人に助けを呼んだ」という彼の子供時代のエピソードに留意したい。「あなたは、自分が思っている以上に優しくて頼れる人だよ」と語る幼馴染(の霊)こそ、「ダメな自分」を全肯定して自信を与え、優しく見守り、無償の愛を注いでくれる「母」の代替なのだ。本作で実質的に描かれるのは、男の自己慰撫の物語に過ぎず、「認知症による徘徊」は、主人公が街を彷徨うための「口実」でしかない。

だが、「老い、介護、認知症」と「パフォーミングアーツ」の交差には、もっと豊かな領域が広がっているのではないか。こうした交差領域にある試みとして、重度身体障害者や認知症高齢者の介護士が普段の介護労働を実演する村川拓也の演劇作品や、老人ホームの入所者とダンスを踊り言語化する砂連尾理、「老いと踊り」を生産的な批評の場に載せるダンスドラマトゥルクの中島那奈子などが挙げられる。菅原の「OiBokkeShi」の特異性は、「看板俳優」自身が老老介護の当事者である点だが、「実生活に近い高齢男性役」としての出演にとどまる点に限界を抱えていた。だが、例えば、実体験をドキュメンタリー演劇として取り込む手法も考えられるのではないか。

また、「徘徊演劇」の真のポテンシャルは、「現実の市街地の風景の上に、『演劇』という虚の世界を上書きする」市街劇の構造と、「今ここにある現実とは別の『現実』を生きている認知症者の知覚世界」を重ね合わせるメタ的な手法にあると言える。本作の後半では、「認知症で街を徘徊中の病妻」がすでに死亡しており、彼女を捜す高齢男性自身もじつは認知症を患っていることが明かされる。「病妻がまだ生きている世界」に暮らす彼の知覚世界を共有し、「実在しない彼女」の姿を求めて街を彷徨う私たちは、「演劇」の世界に身を置いているのか、「認知症者の知覚世界」をともに生きているのか。そこでは、両者の弁別や現実/虚構の不確かな境界が瓦解すると同時に、「他者を人格ある個人として尊重し、否定ではなく寄り添う」というケアの原理もまた浮上する。さらには、「男性とケア」というアクチュアルな問題をジェンダーの視点とともに主題化し、男性中心主義的な価値観や性別役割分業の問い直しへ結び付けることもなされるべきではないか。

2021/11/28(日)(高嶋慈)

はなもとゆか×マツキモエ『DAISY』

会期:2021/11/18~2021/11/20

京都芸術センター[京都府]

女性としての生きづらさや社会的抑圧を、ダンサブルな楽曲にのせてポップに昇華するダンスデュオ、はなもとゆか×マツキモエ。前作『VENUS』では、全編にわたり安室奈美恵の楽曲が流れ続ける多幸感に満ちた世界で、生殖や世間的圧力のメタファーであるピンポン球=卵が飛び交うなか、「ラケットで球を打ち返す」身振りが脅迫的に反復され、恋バナや合コンについて語るモノローグと、依存から自立への意志を示すダンスが展開された。

主題も構成も『VENUS』の続編と言える本作においても、はなもとゆかが実体験を元にモノローグを語りながら踊る。「愛されたい」一方、社会の要請する型にはめられた「女性らしさ」の強固さというジレンマは、本作でよりエグみを増した。「私、このたび、入、入……入会しました!」とはじける笑顔で語り出すはなもと。婚活サービスに「入会」後、容姿を唯一の基準とする一方的な査定の視線にさらされる。お見合い写真撮影で要求される、型通りの髪型や服装(白かパステルカラーのワンピース)、「控えめな」笑顔。それは「原色が好きで、Tシャツ、パンツ、ポニーテール、リュックにスニーカー、これが私です」と語るはなもと自身とは程遠い。また、会うことになった「42歳の美容外科医」の言葉は、外見や体型への批判的なコメントばかりであり、「女性を一方的に容姿で品評してよい」ルッキズムの典型だ。「こんなことを言われてまだ頑張らないといけないの?」と言い終えてからのソロは、「終始後ろ向きで観客に表情を見せない」仕掛けが効いていた。バレエをベースとした躍動感あふれるソロダンスだが、「一番自分らしいダンス」を踊る喜びを、誰かに見せるためではない笑顔で踊っているのか? それとも、抵抗として表情を硬く封印しているのか? と想像させる。



[撮影:shinz]


また、デュオの強度も増した。はなもとと男性ダンサーは、床を転がりながら密着度の高いコンタクトを繰り出し、次々と体勢を変化させていく。挑発的なアイコンタクトも交えながら、エロティックかつ動物的でしなやかな運動が惹きつける。また、(後述するように)「ドラァグクイーンの登場」が本作のひとつのポイントだが、終盤では、舞台奥にカツラやヒールを脱ぎ捨てたドラァグクイーンが後ろ向きに立ち、手前ではヌーディーな下着姿のマツキモエが硬質かつ高速のダンスを精密機械のような精巧さで繰り出す。直接的なコンタクトもなく、身体の向きも正反対だが、何かを探り、たぐるようにくねらせる腕の動きが共鳴する。そのデュオは、「力強さ=美」であり、「ただ私のために踊る。それがあなたと共鳴する」と雄弁に語っていた。



[撮影:shinz]


最後に、「ドラァグクイーン」に関して、前作からの発展的展開と今後の展望について述べたい。前作『VENUS』では、ダンサーたちと直接交わることなく、一段高い壇上に神のような超越的な存在が君臨し、見守っているのか支配しているのか不明なまま、不気味な存在感を放っていた。一方、本作では、この超越的な存在が「ドラァグクイーン」として明確に実体化され、ダンサーたちと同じ地平に降臨し、トランスジェンダーの女性歌手の楽曲でリップシンクを披露し、力強いメッセージを放つ。舞踏をやっていたという彼/彼女は、「ただ美しくなりたかった。美に性別は関係ない。精神の発露が絶対的な美となり、他人に何を言われても揺るがないその美しさが他人から言葉を奪う。それを認めようとしない世間に、私とあなたで抵抗と祝福を贈りましょう」と宣言する。だが、その傍らでは、はなもと、マツキ、もうひとりの男性ダンサーがスクワットやストレッチ、腕立て伏せやシャドウボクシングなど「美しく引き締まったカラダを作るためのエクササイズ」に従事し続け、「痩せたカラダ=美」という画一的な外見至上主義に囚われているように見えてしまう。

また、前作よりクリアな姿で降臨したドラァグクイーン=超越者と、特にはなもととの関係性が曖昧な点も気になった。直接交わらない両者は、いまはまだ別次元に身を置いているようだ。だが、自虐的なモノローグを繰り出しながらパワフルに踊るはなもとは、すでに力強さに満ち、美しい。美容外科医のつまらないルッキズムにまみれた女性蔑視など吹き飛ばすほどの説得力がダンスにすでに備わっているのだ。超越者=ドラァグクイーンとはなもと自身の関係性が今後どう交差するのか? 内在する神としてはなもと自身と一体化するのか? 期待したい。



[撮影:shinz]


関連レビュー

はなもとゆか×マツキモエ『VENUS』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年12月15日号)

2021/11/19(金)(高嶋慈)

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス

会期:2021/11/12~2021/11/14

アトリエ春風舎[東京都]

お布団の長期制作プロジェクト「CCS/SC」が、2022年2月に予定している本公演に先がけて1st expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレスを上演した。

Crowds continuum shift / Suicidal characterのイニシャルをとった「CCS/SC」は「『病:制御不可能な/望まない/望まれない性質』というテーマについて考え、創作」するためのプロジェクト。お布団のメンバー(作・演出の得地弘基、俳優の緒沢麻友、音響の櫻内憧海)に加え、プロジェクトに賛同して集まった劇作家、演出家、俳優、制作、美術家など総勢38名もの「研究員」が参加している。2019年12月に研究員の募集が行なわれ、当初は2020年4月からの2年間をかけて「複数人で考えて、複数の作品を作っていく」ことを掲げてスタートしたが、コロナ禍の影響もあってか今回のワーク・イン・プログレスが初めて公開での活動となった。

お布団の作品はこれまでそのほぼすべてが古典作品の翻案であり、本作では『ハムレット』が物語のベースとなっている。そこにさらに「《吸血鬼》、《人狼》、《幽霊》、《人造人間》、そして《人間》」という「五つの病を寓意化した種族」を設定として導入。さまざまな噂や疑惑が渦巻く世界で王子/ハムレット(宇都有里紗)が周囲の人間の「正体」を暴こうとする筋立ては、例えば人狼ゲームのような犯人当てゲームを思わせる。


[撮影:三浦雨林]


登場人物にはそれぞれ院長/クローディアス(永瀬安美)、医師/ホレイショー(谷川清夏)、娘/オフィーリア(大関愛)、兄/レアティーズ(黒木龍世)、幽霊/ガートルード(大関、谷川)と『ハムレット』に由来する名前が割り当てられているのだが、幽霊の名が先王ではなくハムレットの母であるガートルードになっていることからもわかるように、いくつかの設定は原作からずらされている。その最たるものがオフィーリアだろう。原作では狂気に陥った末に水死してしまうオフィーリアだが、本作ではほとんど唯一、一貫して「正気」の側にいる人間として描かれているのだ。


[撮影:三浦雨林]


本作のキャッチコピーに「治ると治す、病と健康の境界を巡る『現代』への箱庭治療」とあることからもわかるように、ここでは「狂気」=病と「正気」=健康、そしてその境界の問い直しが目指されている(本作にはもうひとつ大きな反転も用意されているのだが、本公演も控えているのでここではそれについては触れない)。また、モチーフである「病を寓意化した種族」が五つあり、しかもそこに《人間》までもが含まれているのは、病と健康という二項対立を脱臼し、複数の視点からそれらを捉え直そうという意図によるものだろう。「病」を名指すことそれ自体もまた、治癒を目的にそれが「病」であることを確定するという点において両義的な行為だ。

だが、今回のワーク・イン・プログレスでは、この「五つの種族」という設定については設定のままに終わってしまっているような印象を受けた。それぞれの種族についての設定は単に個人の性質として回収されてしまい、それらを並べることによって新たな視点が立ち上がるということもなかったように思う。あるいはもちろん、そのように物語や作品、ひいては社会に「望まれない性質」だからこそ病と呼ばれるのだということかもしれないが……。


[撮影:三浦雨林]


[撮影:三浦雨林]

また、今回はワーク・イン・プログレスということもあってかプロジェクトからの参加メンバーが少数に限定されており、これまでのお布団の作品との差異がさほど感じられなかったのも少々残念だった。永瀬以外の俳優陣については得地の作・演出作品への出演は初めてであり、これまでのお布団作品とは異なる演技体が持ち込まれているという新味はあった。しかし、出自も活動するフィールドもバラバラな俳優たちの演技はほかの俳優の演技とも得地の台本の言葉とも十全には噛み合っていないように感じられたのだった。

今回、俳優以外の「研究員」からは美術家の中谷優希が参加し美術を担当。ビジュアル面のクオリティの向上に一役買っていた一方、中谷は自身の作品でも「病」や「ケア」と関連するテーマを扱っており、その意味では本作にもより深くコミットする余地が残されているようにも思われた。せっかく多様な「研究員」を抱えるプロジェクトなのだから、そのようなかたちで互いの思考が影響を与え合う様子を見たい気もする。

「NOW LOADING.../PLAY START」とはじまり「SAVEを完了しました」と終わる本作は、ひとまずは紛れもないバッドエンドを迎えている。だが、初回のプレイは言わばチュートリアル、あるいはテストプレイの段階だろう。次のプレイ、つまりは2022年2月の本公演でベターエンドに到達するための「別ルート」をプロジェクトは見出せるだろうか。


[撮影:三浦雨林]



お布団 CCS/SC:https://offton.wixsite.com/ccssc
お布団:https://offton.wixsite.com/offton
お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス:http://www.komaba-agora.com/play/12846


関連レビュー

青年団若手自主企画vol.84 櫻内企画『マッチ売りの少女』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年11月15日号)
青年団リンク キュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年02月01日号)

2021/11/14(日)(山﨑健太)

阿佐ヶ谷スパイダース『老いと建築』

会期:2021/11/07~2021/11/15

吉祥寺シアター[東京都]

『老いと建築』(作・演出:長塚圭史)はもともと、2020年12月から2021年5月にかけて開催された「謳う建築」展からの依頼を受けた長塚が、建築家・能作文徳の自宅兼事務所である「西大井のあな」という建築物から受けたインスピレーションをもとに立ち上げた科白からスタートしたものだという。描かれるのは変わりゆく「家」とそこで生きる人々の姿だ。

夫(中村まこと)を亡くし、二人の子が独立した後、3階建て中庭付きの大きな家にひとり住み続けている「わたし」(村岡希美)。足を悪くしてからは長女の仁子(志甫まゆ子)が時折様子を見に通い、週に2回はヘルパーの朝岡(森一生)も来ている。仁子の息子の基督(坂本慶介)も金をせびりがてらちょくちょく顔を出しているらしい。長男の一郎(富岡晃一郎)は母の今後のことを仁子と相談するが、そこには年の離れた恋人であるりぼん(木村美月)とともにその家に住みたいという思惑もあるようだ。使っていない上階の整理を手伝うために訪れていた仁子の娘の喜子(藤間爽子)は母と祖母の不仲の原因が父と祖母との関係にあると疑っていて──。


[撮影:宮本雅通]


ひとり過ごす時間の長い「わたし」はさまざまなことを思い出し、現実と記憶は混濁する。そこにないはずのものを見ることもしばしばだ。家の建築に携わった建築家(伊達暁)はまるで家の化身のように「わたし」の前に姿を現わし、ときに話し相手にさえなっている。大きな机が設られたリビングダイニングのような空間(美術:片平圭衣子)に現在と過去、あるいは記憶が重なり合う。それらはどれも舞台上にある現在という意味では観客にとって同等であり、そうして観客は「わたし」と世界を共有する。

一郎は母がボケてきているのではないかと疑っていて、ある意味でそれは正しいのかもしれないが、しかし母の家=舞台上に入り込んだ一郎たちもそこから逃れることはできない。過去と現在が入り混じるのみならず、1階と2階が重なり合い、部屋同士はばらばらになり、「家」だったはずの空間自体もまた奇妙に歪んでいく。だがその歪みは突如として現われたのではない。気づかなかったり見て見ぬふりをしていたり、それはいつからかそこにあったものだ。

「わたし」は夫と不倫していた今津美智子(李千鶴)のことを不意に思い出す。それは記憶から消し去り、なかったことにしていた過去だ。不倫が露見し今津と別れてすぐに他界してしまった夫。やがて画家だった夫のアトリエは改装され、その部屋には留学生が住むようになる。仁子が好きだった父のアトリエはなくなってしまった。そうして「家」のかたちは変わっていく。

あるいは仁子との関係もそうだ。基督が生まれる直前、仁子の夫である英二(長塚圭史)によるDVを疑った「わたし」は二人を別れさせようとする。だが仁子はそれを拒絶。一計を案じた「わたし」は英二と「わたし」が関係を持ったと仁子に思い込ませ、二人を別れさせることに成功する。しかしそれは仁子と「わたし」との関係に取り返しのつかない溝を生む結果となる。


[撮影:宮本雅通]


DVにせよ性的な関係にせよ、本当にそれがあったのかどうかは当人たちにしかわからない。気持ちについてはなおさらだ。英二の横暴も「わたし」の選択も、傍から見れば歪んだものだろう。しかしそれもまた「家」のかたちだ。

老いた「わたし」の住む家にはあちこちに手すりが取り付けられ、美意識の高い「わたし」はそれに我慢がならない。理想の「家」はもはやない。それでも、やはりそこは「わたし」の「家」なのだ。

中庭をつくると外観的には要塞のようなつくりになると言う建築家に「わたし」は応じる。「要塞、いい響きじゃない。家は家族を守るものなんですから。(中略)いつでも家族を守れる城。中には穏やかな空気が流れるといい」。「わたし」が望んだ「穏やかな空気」は「家族を守る」というもうひとつの思いと引き換えになってしまった。「わたし」が理想の家を語る最後の場面はだからこそ苦く、しかしそこには「わたし」の強さも滲む。


[撮影:宮本雅通]


それぞれが身勝手にふるまう家族たちの物語はともすればギスギスとした重たいものになりそうなものだが、登場人物たちは「わたし」を筆頭にみなどこかチャーミングで憎めない(長塚演じる英二だけは本物のDV夫にしか見えないが……)。そう言えば、この作品は独りテーブルにつく「わたし」に紙吹雪が降り注ぐ、まるでクライマックスのような場面からはじまったのだった。舞台上の出来事が「わたし」の記憶が溢れ出した走馬灯のようなものなのだとしたら、そのチャーミングさこそが、彼女の愛情の証なのかもしれない。


[撮影:宮本雅通]



阿佐ヶ谷スパイダース:https://asagayaspiders.com

2021/11/08(月)(山﨑健太)