artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

若だんさんと御いんきょさん『すなの』

会期:2022/03/05~2022/03/06

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲3部作『棒になった男』(1969)から毎年1本ずつ選び、同じひとつの戯曲を3人の演出家がそれぞれ手がける演出違いの3本を連続上演するシリーズを、3年間にわたり企画してきた「若だんさんと御いんきょさん」。これまでは30代の演出家を招聘してきたが、今年は現役作家の戯曲をお題に、20代の若手演出家3名を迎えて一新した。上演される戯曲は、コトリ会議の山本正典による短編『すなの』。ある午後、リビングで、テーブルに置かれた「砂がいつまで経っても落ちきらない不思議な砂時計」をめぐって夫婦が交わす会話劇だ。

「気づくと砂がいつのまにか上に上がっていて落ちきらない」と言う妻。「砂がピンクいからかな」と言う夫。だが砂時計のガラスも透明ではなく緑色をしており、「本当の砂の色」は「緑ひくピンク」か「ピンクひく緑」かで2人の意見は食い違う。砂の色を確かめようとして前のめりになった夫は、浮いたお尻の下に「幸せの丸いの」があると言う。そして「幸せの丸いのはピコピコはねてすぐにどこかに行ってしまう」とも。コーヒーを淹れに席を立った夫が突然つぶやく、「どこにもいかない」という意味深げな台詞。聞き返す妻に、「どこにもいかない砂」と言い直す夫。夫は、コーヒーを淹れる際に転がり落ちた「幸せの丸いの」を、「見つからないけど探す」。やがて会話は、お湯を沸かす機械が「電気ポット」か「ケトル」かで再び言い争いになり、「ケトルって何語? フランス語?」と言う妻に対し、夫は突然「ごめん」と謝り、「行きたかったな、フランス」とつぶやく。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」という会話を最後に、砂が落ちる「すーーーー」という音だけが静かに響き続け、「真っ白い木の額縁に入った妻の写真」がテーブルの上にあることをト書きが告げる。

要所要所で夫の台詞は不穏さを暗示するが、2人のあいだに具体的に何があったのかは明示されず、会話の「余白」からどう解釈するかは演出家に委ねられている。この戯曲を演出する最大のポイントは、「砂時計」を舞台上にどのように存在させるかという点にある。3つの演出作品は、上演順に「砂時計」の実体化が進む一方、「砂が落ちきらない砂時計」が何を指すメタファーなのかをめぐって解像度が上がっていく構成が興味深かった。

1本目の木屋町アリー(劇団散り花)による演出は、舞台正面の壁いっぱいに「落ちる砂」の映像を投影。またト書きのナレーションを、舞台奥の暗がりに身を置く3人目の人物に語らせる。ストレートな演出だが、焦点が曖昧で未消化感が残った。2本目の葉兜ハルカ(でめきん/旦煙草吸)による演出では、「幸せの丸いの」を異化するような「白い立方体」が舞台上に散らばる。それは妻の手で捏ねられ、砂時計の形に実体化する。ラストシーンでは、白い立方体を積み上げて長方形のフレームを形づくり、その中に妻の顔が収まることで「遺影」が示唆される。



木屋町アリー演出『すなの』



葉兜ハルカ演出『すなの』


そして3本目の泉宗良(うさぎの喘ギ)による演出では、テーブルの上に実物の「砂時計」が出現した。泉演出が衝撃的なのは、「妻」役の俳優がマイクに向かって「すーーーー」という細い息の音を出し続ける点だ(「妻」の台詞はスピーカーから出力され、録音音声と会話する夫の様子は「不在感」を強調する)。「砂時計」とは字義通りには「不可逆的な時間の流れ」であり、夫の意味深げな台詞や「テーブル上の妻の写真=遺影」の示唆は、「砂時計=妻の命の時間」を暗示するだろう。「妻」がマイクに吹きかけ続ける「息」の音は、命の持続を示す「呼吸」そのものであり、その規則正しくもか細い音は、人工呼吸器から漏れる息の音をも思わせる。そして「砂時計をひっくり返す」夫の介入は、「妻の命の砂が落ちきるのを止めたい」という叶わぬ願望だ。だが、夫は「妻」の方を見ず、誰もいない不在の空間に向かって話し続ける。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」というラストシーンの会話を冒頭と終盤で反復し、「妻」が舞台上から去った終盤では、同じ台詞が夫の一人言のように響く仕掛けは、すべてが夫の回想であることを示唆する。円環状に始めと終わりがつながる、出口のない閉じた時間。そのトラウマ的時間の「不在の中心」こそ、砂時計すなわち「妻の身体」の代替物にほかならないことを、幕切れのスポットライトは鮮やかに示す。それは同時に、「演劇とは表象の代行制度である」ことをメタレベルで宣言する。

このように戯曲の要請を鮮やかにクリアしてみせた泉演出だが、「砂時計=妻の身体」のメタファーには別の問題が浮上する。それは、女性の身体を物象化し、オブジェクトとして一方的に眺め、所有する視線にほかならない。「真ん中でくびれを描く砂時計の曲線のライン」は、まさに女性のボディラインのメタファーとして召喚されているのだ。「砂時計=妻」のメタファーを戯曲から読み解いて用いるのであれば、妻を喪った夫の切ない回想を超えて、そうしたジェンダーに対する視線の構造の暴力性を批評し、戯曲が内包する問題を内破していれば、泉演出の意義と射程はより深まったのではないか。



泉宗良演出『すなの』


関連レビュー

若だんさんと御いんきょさん『棒になった男』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年03月15日号)
若だんさんと御いんきょさん『鞄』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
若だんさんと御いんきょさん『時の崖』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2022/03/06(日)(高嶋慈)

鳥公園『昼の街を歩く』

会期:2022/02/27~2022/03/06

PARA[東京都]

2019年の『終わりにする、一人と一人が丘』を最後に西尾佳織が作・演出・主宰を兼ねる体制を終え、和田ながら(したため) 、蜂巣もも(グループ・野原)、三浦雨林(隣屋)の三人の演出家をアソシエイトアーティストとして迎えた鳥公園。体制変更の直後からワークショップや読書会など劇団としての活動は旺盛に展開していたものの、新型コロナウイルス感染症の影響もあり、首都圏での公演は今回が初めてとなった。

鳥公園として初の蜂巣演出作品でもある本作は被差別部落問題に関するリサーチからスタートしたもの。当初は蜂巣の希望で「リサーチから戯曲を書く西尾の劇作のプロセスに、演出家として帯同」し「様々な土地でのフィールドワークから創作を始める予定」だったプロジェクトだが「新型コロナウイルスの蔓延により計画変更を余儀なくされ、今回は書籍やオンラインでのリサーチが主と」なり、2020年12月に森下スタジオで実施された10日間のワークインプログレス(非公開)を経て今回の公演が実現した。


[撮影:三浦雨林]


戯曲からひとまず物語のみを抽出するならば『昼の街を歩く』は次のような話である。同棲中の清太郎(松本一歩)と絹子(大道朋奈)。絹子からどうやら妊娠したらしいと聞いた清太郎は一晩のあいだ失踪してしまう。帰ってきた清太郎に絹子は「昨日、なにしてた?」と問うが、謝罪ばかりで答えは得られない。清太郎は「言ってないことがある」と絹子を大阪の実家に誘い、その週末、大学で東京に出て以来の実家へと戻る。そこには姉の初美(伊藤彩里)がひとりで暮らしている。初美には、子供を堕ろし、パートナーと別れた過去があるらしい。初美は絹子を喫茶店に誘い、家のことなどを話す。帰りの新幹線で今回の帰省を振り返る清太郎と絹子。絹子に生理が来て妊娠は勘違いだったことが明らかになる。


[撮影:三浦雨林]


筋としてはシンプルだが、戯曲は帰りの新幹線の場面からはじまり、複数の時間が行きつ戻りつしながら徐々に全体像が明らかになっていく構成となっている。これまでのほとんどの西尾戯曲に組み込まれていたような非現実的な場面はなく、基本的には(現実でもありそうなという意味で)リアルな設定でのリアルな会話のみで進行していくという点で、劇作家としての西尾の新たな(個人的には意外とも思える)展開を見た。

「被差別部落問題を扱った作品」として見るならば、この戯曲は社会的な問題を個人の問題へと矮小化してしまっているようにも思える。だがこの戯曲はむしろ、被差別部落問題について考えることからスタートして、個人対個人の関係が家族、地域、社会のなかでいかに(不)可能かということを描こうとしたのだと考えるべきなのだろう。それらは別々の問題でありながら互いに絡み合い、ときに身動きが取れないほどに個人を雁字搦めにしてしまう。西尾戯曲は食事、繁茂する多肉植物、隣人との関係などのディテールを通してそのさまを描き出し、描くことによって解きほぐそうともするのだが、それについては戯曲を読んでいただきたい。ここでは蜂巣演出が何をしていたかを見ていこう。


[撮影:三浦雨林]


会場のPARAは民家をそのまま使ったイベントスペース。受付を済ませた観客は玄関を入らず、縁側と塀との間のささやかな庭で開演を待つ。時間になると雨戸が開けられ、庭から縁側越しに見える和室には、体の正面をこちらに向けた状態で横たわり積み重なる清太郎と絹子の姿がある。隣あって立つ二人がそのまま横倒しになったようなかたちだ。奇妙な状況だが、二人はどうやら新幹線の座席に並んで座っているらしい。そういえば、奥のテレビの画面には車窓の風景が映っている。やがて絹子がトイレに立つと入れ違いに初美がやってきて「半端なことして」と清太郎に苦言を呈す。 時系列的には初美の苦言は前日の実家での出来事であり、ここではそれを清太郎が回想している(と戯曲では読める)のだが、蜂巣演出では清太郎が寝そべっているところに初美がごく普通に登場することで、あたかも初美の声で清太郎が目を覚ました、とでもいうように、ここまで非現実的な体勢で交わされてきた清太郎と絹子の会話の方に夢のような手触りが与えられることになる。戯曲上では新幹線の現在から実家での出来事を回想する場面が、蜂巣演出では同時に、実家での現在から未来を夢想する場面としても成立しているのだ。過去と同じように、未来もまた現在の裡にある。個人と家との関係を描いたこの作品において、このことはとりわけ重要であると思われる。


[撮影:三浦雨林]


ここまで観ると観客は家の中へと招き入れられ、清太郎が寝そべるまさにその和室で続く場面を鑑賞する。その場面の終わり、夜中に大きな地震が起き、しかし清太郎は同棲する絹子に声をかけることなく、離れて住む姉に電話をかけながら2階への階段を上がっていってしまう。その姿は絹子のいる家と初美のいる家とが交わることを忌避するかのようだ。絹子とともに取り残された観客は清太郎を追い、家のさらに内部、2階へと上がり込むことになる。だが、たどり着いた2階は窓が開け放たれ予想外に明るい。そうして踏み込むことでしか開けない未来もあるのだとでもいうように。

本作のクリエイションは今後も継続され、2023年度には八王子のいちょうホールでの再演が予告されている。今回の蜂巣演出は「家」という空間を巧みに使い観客にその磁場を体感させるものだったが、ホールでの上演はどのようなものになるのだろうか。今後の展開も楽しみに待ちたい。


[撮影:三浦雨林]


[撮影:三浦雨林]



鳥公園:https://www.bird-park.com/
『昼の街を歩く』戯曲:https://birdpark.stores.jp/items/621034c01dca324ba5b2bae0

関連レビュー

鳥公園「鳥公園のアタマの中」展|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年04月01日号)

2022/03/06(日)(山﨑健太)

キュンチョメ『女たちの黙示録』

会期:2022/02/19~2022/02/27

※配布型作品

シアターコモンズ'22の演目のひとつであるキュンチョメ『女たちの黙示録』は「キュンチョメが異なる立場や背景を持つ女性たちの声に耳を澄ませ、そこから生み出された予言」が鑑賞者に送り届けられる配布型の作品。観客は郵送あるいはシアターコモンズ会場での受け取りを指定し、受け取った作品を自宅などさまざまな場所で「鑑賞」することになる。なお、本作は3月末まで鑑賞可能だが、以下では内容に触れているため注意されたい。

郵送方式を選択すると、やがて黒い段ボール箱が送られてくる。箱を開けると中には銀のリボンで口を閉じられた濃紺の袋。2月中旬という季節柄、バレンタインのプレゼントを連想しつつ袋を開けるとフォーチュンクッキーが7つ入っていた。ひとつ割ってみると中の紙片には電話番号が記されている。電話をかけるとコール音の後、女声を思わせる合成音声が物語を語り出す。

私が最初に聞いた物語は「女たちの黙示録その13 宇宙介護支援センター」と題されていた。「人生の最後を宇宙で過ごしてみませんか」とはじまるこの物語では、宇宙で余生を過ごそうとする富裕層の老人と、その世話をするために宇宙放射線で命を削って働く貧困層の姿が描かれる。宇宙には介護士たちを弔うための天使像が建てられ、やがてそれらの天使像が降り注ぎ地球は滅亡することになる。

「黙示録」のタイトルの通り、語られるのはいずれも「終わりの物語」となっているのだが、「女たちの」という冠にふさわしいのは「その3 クジラと呼ばれた女」だろう。ロシアではヤギ、フランスではウサギ、ポーランドではウシ等々、世界各国で侮蔑の意味を込めて動物の名で呼ばれてきた女たちは本物の動物となり去っていき、そして世界は滅びることになる。

抑圧され発することのできなかった声が体内で石となり人を殺す「その4 声が石になるとき」、人工知能が世界の終わりをもたらす「その7 完璧な宗教」と「その23 0.0001秒のいたずら」、眠りを求める地球が人間を排除しようとする「その17 不眠症の地球」、実験用マウスと人間の立場が逆転する「その26 ネズミの演説」。電話をかける私はそのたびに異なる世界へと接続し、異なる声が語る異なる世界の終わりの物語を聞く。物語の終わりとともに通話は途絶し、「プー、プー」という終話音はまるで電話の向こうの世界が消滅してしまったかのような寒々しさを感じさせる。

ところで、この黙示録はなぜフォーチュンクッキーの形式で届けられたのだろうか。「黙示録」的なものを有する宗教の多くにおいて、そこで描かれる世界の終わりは唯一絶対のものとしてあるだろう。あるいは、実際に世界が終わることがあるならば、その終わり方は結果としてひとつに収斂するのかもしれない。だが、まだ終わっていないこの世界において、そのあり得る終焉はひとつではない。複数形の黙示録は、宗教の権威性を担保するための唯一の真実、逃れられぬ未来としてではなく、あり得る終わりを回避するための、外れるべき予言として届けられているのだ。

ランダムに封入された(と思しき)予言はランダムに開封され、電話を通して個々の鑑賞者の耳に届く。ごく個人的な体験となる予言の聴取はしかし、いつかどこかでほかの誰かと共有される体験でもあるだろう。予言に無限のバリエーションがあるとは思えず、ならば同じ番号の予言を共有する誰かがいるはずだからだ。一方、ランダムな数字の並びは、私には知ることのできない世界の終わりがあることも告げている。そこには誰にも知ることのできない世界の終わり、欠番の予言さえも含まれているかもしれない。

『女たちの黙示録』の意義はむしろ、このようなかたちで起動する想像力の方にこそあるように思われる。フォーチュンクッキーが入っていた袋には「これは終わりの物語です。同時に、はじまりでもあります。」と記されたタグが付されていた。語られる世界の終わりは多様だが、いずれも現代社会の問題をほとんどあからさまに映した寓話となっており、そこに託されているものは明らかだ。私という個人が抱え、あるいは関わることができる問題は現代社会で起きているさまざまな問題のごく一部に過ぎない。だが、その問題を共有する誰かはきっとどこかにいる。そしてまた、目の前にいる誰かは私とは別の問題を抱えているだろう。それを知ること、そのような想像力を起動させること、そして何より、予言を語る者の声に耳を傾けること。それこそが世界の終わりを回避するための第一歩となるはずなのだ。


キュンチョメ『女たちの黙示録』:https://theatercommons.tokyo/program/kyun-chome/

2022/02/20(日)(山﨑健太)

ほろびて『苗をうえる』

会期:2022/02/16~2022/02/23

下北沢OFF・OFFシアター[東京都]

なるべくならば人を傷つけずに生きていきたい。だがそんなことは不可能だ。それでも「生きていく以上、人を傷つけてしまうことは仕方がない」と開き直ることはしたくない。自分が人を傷つける可能性に誠実に向き合い生きていくことは、どのように可能だろうか。

家を分断する境界線に人を操るコントローラー。ほろびての作品は現実世界にひとつだけSF的な設定を導入するところから始まることが多い。だがそれは決して非現実的な物語を意味するものではなく、むしろ、現実のある側面に具体的なかたちが与えられ可視化されたものとしてある。

『苗をうえる』(作・演出:細川洋平)は卒業を間近に控えた高校生・鞘子(辻凪子)の左手がある朝、刃物になってしまうところから物語が始まる。それでも何事もなかったかのように高校に行こうとする鞘子に母・間々(和田瑠子)は絶対に家から出ないよう言い置いて介護の仕事へと出かけていく。仕方なく鞘子がひとり留守番をしていると母の恋人である青伊知(阿部輝)が金の無心にやってくるが、鞘子は左手の刃物で誤って青伊知を傷つけてしまう。一方、間々が介護に通う家には認知症のまどか(三森麻美)とその孫・宇L(藤代太一)が暮らしている。平均的な大人よりも大きいくらいの体を持つ宇Lはまだ小学5年生なのだが、どうやら学校には行っておらず、まどかとともに日々を過ごしているらしい。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


さて、鞘子は青伊知やコンビニの店員、そして宇Lをうっかり傷つけてはしまうものの、この物語のなかではそれ以上の大事には至らない。事件を起こすのは青伊知であり宇Lの方だ。金に困った青伊知はたまたま出会ったまどかから金のありかを聞き出し、家に忍び込む。だが、金を盗み出そうとしたところを宇Lに見つかった青伊知はそれでも金を返そうとせず、激昂した宇Lは青伊知の腕の骨を折ってしまう。ところが、青伊知を自分の夫だと思い込んでいるまどかは宇Lを「悪魔!」と罵り、平手打ちをくらわせるのだった。鞘子は偶然その場に居合わせ一連の出来事を目撃する。


[撮影:渡邊綾人]


この物語において「悪」はどこにあるのだろうか。もちろん、金を盗もうとした青伊知は「悪」いのだが、青伊知はまどかの前で半ば独白のように「俺、、、まともに働けない」「俺、健康に見える?」とこぼしていた。青伊知が働くことに何らかの困難を抱える人間なのであれば、鞘子の「働いてください」という言葉も青伊知には辛く響いただろう。鞘子は知らず知らず青伊知を傷つけていたことになる。しかし、金をせびる青伊知の存在が間々と鞘子の生活を脅かすこともまた事実なのだ。

一方、間々は鞘子が生まれたことをきっかけに更生したと語るが、母子家庭の生活は厳しく、鞘子は大学の費用を自分で工面しなければならない。宇Lもまた、かつては庇護者だったはずのまどかの存在に縛りつけられているといえるだろう。では誰が「悪」いのか。「悪」が存在するとすればそれは社会的な支援の不十分さのはずだが、家族として結びついた人々が悪意なく互いを損なってしまう現状がここにはある。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


登場人物のなかでは鞘子と宇Lだけが自分が他人を傷つける力を持っているのだということを自覚している。左手が刃物になってしまった鞘子は言うまでもないが、宇Lもまた、容易に他人を傷つけてしまう恵まれすぎた体格の持ち主だ。しかも、宇Lのなかには生まれてくるときに死んでしまった双子の兄弟・宇Rがいて、極度の乱暴者だという彼が表に出てこないように努力をしているらしい。一方、大人たちもまた、誰もが誰かを傷つけているが、それは鞘子と宇Lのように身体的な力によるものではない。社会に組み込まれた大人たちはより複雑な、ときに自覚のないかたちで他人を損なっている。

この物語は、鞘子が刃物となった左手とともに、それでも社会に出て生きていくことを間々に宣言する場面で終わる。一連の出来事を経て、鞘子は刃物の左手を持つことの意味を受け入れる。冒頭の場面で鞘子は、間々に指摘されながらも自身の左手が刃物になっていることになかなか気づけなかった。自分の存在が他人を傷つける可能性を直視することは難しい。だからこそ、自身の左手に宿る刃物を、自らの手が無垢ではないことを受け入れ前を向こうとする鞘子の強さは胸を打つ。


[撮影:渡邊綾人]


芸術の道を志す鞘子の姿には、『苗をうえる』のつくり手である細川たちの姿も反映されているだろう。宇Rの名前がウランに由来するものだということを考えれば、この物語で描かれている「他人を傷つける可能性」が人間に限定されたものでないことも明らかだ。芸術やあらゆる技術もまた、つねに誰かを傷つける可能性を孕んでいる。それは避けられない、一回一回誠実に向き合っていくことしかない問題なのだ。苗を育てるという鞘子の宣言には、それでもその手で未来を紡ぐのだという意志が込められている。舞台の手前に目を向ければ、そこに植えられたいくつもの植物は、白い紙を切ることでかたちづくられたものだった。刃物の使い道は人を傷つけることだけではない。


ほろびて:https://horobite.com/


関連レビュー

ほろびて『ポロポロ、に』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)
ほろびて『あるこくはく [extra track]』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
ほろびて『コンとロール』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年02月01日号)

2022/02/19(土)(山﨑健太)

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』

会期:2022/02/11~2022/02/27

こまばアゴラ劇場[東京都]

世界が大きな問題に覆われるとき、個々人が抱える個別の問題は存在しないことにされてしまう。大事の前の小事? だがそうまでして守られるべき世界とは何なのだろうか。お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』(作・演出:得地弘基)は個人と世界の対立を、あるいは「世界」と「世界」の対立を描き出す。そうして描き出される世界のあり方は、あまりに現実に似ている。

2021年11月にワーク・イン・プログレスが上演された本作。今回の本公演では上演台本をブラッシュアップしたうえで配役を一新、一部の登場人物はダブルキャストで演じられ、基本の筋は同一ながらワーク・イン・プログレスとは大きく異なる印象の作品に仕上がっていた。私が観劇したのはBキャストだが、以下では演じた俳優の名前を「役名(Aキャスト/Bキャスト)」のかたちで記載していく。


[撮影:三浦雨林]


作品の冒頭、『ハムレット』をベースに「《吸血鬼》、《人狼》、《幽霊》、《人造人間》、そして《人間》」という「五つの病を寓意化した種族」が生きる世界を描いたこの物語は「一つの架空の症例」であり「一つの箱庭」であること、そして「『現実』もまた箱庭の一つ」であることが宣言される。美術家・中谷優希による舞台美術はこの宣言に呼応するものだ。舞台の左右と奥の三方を囲む半透明のカーテン。その外側は俳優や小道具の待機場所になっていて、俳優はカーテンの間を通って舞台中央の演技空間へと出入りする。舞台正面上部にも同じ半透明の布が文字幕のように吊るされ、プロセニアムアーチのような正面を形成している。そこは病室であり診察室であり、そして同時に劇場でもある。舞台中央には点滴が吊るされているが、その先につながれているはずの患者の姿はなく、チューブの先からは液体が滴っているのみ。患者は回復したのか、あるいは、つながれているのはこの世界だということだろうか。


[撮影:三浦雨林]


物語の前半では王子ハムレット(高橋ルネ)が叔父であり自らの主治医でもあるクローディアス(永瀬安美/黒木龍世)を疑い、彼が犯した犯罪を暴こうとする。大まかには原作に沿った筋立てだが、本作では亡くなっているのは父王ではなく母ガートルード(宇都有里紗/緒沢麻友)であり、クローディアスは彼女の主治医でもあった。城には幽霊(当然ガートルードの幽霊である)の噂が流れ、街では吸血鬼の城と呼ばれているらしい。近辺には人狼の森なる場所もある。

やがて、レアティーズ(海津忠/橋本清)が実は人狼であること、ホレイショー(大関愛)がクローディアスによって造られた人造人間であることなどが明らかになり、ホレイショーとクローディアスは国王に遣わされた国家警察特任捜査官フォーティンブラス(宇都/緒沢)によって罪人として捕らえられてしまう。このとき、さらに衝撃の事実として、父王とガートルードが吸血鬼であり、血のつながらない叔父であるクローディアスは彼らの治療をしていたのだということが明かされる。つまり、ハムレットその人もまた吸血鬼だったのだ。そうして世界は転覆する。

疫病が蔓延した街はフォーティンブラスらによって南北に分断され、境界には壁が建設される。健康でないものは南側へ送られ、観客はカーテンの向こう側へとひとりずつ消えていく登場人物たちを見送ることになる。だが、カーテンの向こうは現実だったはずでは? 見送る観客のいる「こちら側」はいったいどこにあるのだろうか。


[撮影:三浦雨林]


こうして、物語の後半では吸血鬼、人狼、人造人間、そして幽霊は健やかでない者として一緒くたにまとめられ、それぞれが抱えていたはずの問題は後景に退いてしまう。それどころか、吸血鬼は存在しないということが国によって「決定」され、国にとって都合の悪いその存在は隠蔽されることになる。物語の冒頭には、例えば「ひとつは、吸血鬼。太陽を憎み、人の生き血を吸う、夜の王さまです」といった具合で、それぞれの種族の紹介が置かれていた。五つの種族の紹介は「そして、人間。わたしたち、あなたたち、のような、普通の人々です」と締め括られる。ところが物語の終盤では、すべての種族が「わたしたち、あなたたち、のような、普通の人々です」と紹介されるのだ。この言葉が持つ意味は両義的だ。性質によってむやみ人を分かつことは差別につながりかねないが、違いに目を向けないことで問題自体がないことにされることもままあることだからだ。

すべてが済んだ最後の場面。原作とは異なり、この作品においては唯一の健やかなる者だったオフィーリア(新田佑梨)が診察を受けている。彼女はカーテンの向こうに誰かの叫びを聞いた気がするが、飲み忘れていた薬を飲むと叫び声はもう聞こえない。だが、遠く響く声に耳を塞ぐことが果たして治療の名に値するだろうか。しかしそうして彼女の世界の平穏は保たれているのだ。


[撮影:三浦雨林]


これまで、演劇を使って思考実験を突き詰めるような作品を上演してきたお布団/得地だが、本作では確固たる物語の力を示してみせた。だがその分、本作では思考実験的な側面がやや控えめだった点は物足りなくもある。次作ではさらなる進化を見たい。


お布団:https://offton.wixsite.com/offton
お布団Twitter:https://twitter.com/engeki_offton


関連レビュー

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月15日号)

2022/02/12(土)(山﨑健太)