2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

新聞家『フードコート』(東京公演)

会期:2019/09/21~2019/12/01

TABULAE[東京都]

新聞家『フードコート』(東京公演)には2回観劇パスとフリーパスの2種類のチケットしかない。観客は基本的に2回以上の上演に立ち会うことを前提に観劇に臨むことになる。

公演期間は9月21日から12月1日までのおよそ2か月半にわたり、季節は秋から冬へと移りゆく。会場となるTABULAEは曳舟の住宅街にある民家を改装した小さなギャラリーで、通りに面した側は全面がガラス戸になっている。だから、昼の回と夜の回とでも上演は随分とその印象を変える。

複数回の観劇を前提とした長い公演期間は、演劇の上演が本来的に持つ一回性を、観客に寄せて言い換えるならば、演劇を観ることが極めて個人的で一度きりの体験であることを思い出させ際立たせるためのデザインだろう。「同じ作品」を観たとしても同じ観劇体験は存在しない。

空間(美術:山川陸)も体験が個人的なものであるよう配慮されている。観客は受付でいくつかの植物の名前を提示され、選んだ植物が置いてある近くに座る。公演期間は長いので、あるものは育って形を変え、あるものは枯れてしまうかもしれない。植物の種類と置いてある場所は回によって違っていて、私が二回目に訪れた際には一度目にはなかった植物が仲間入りしていた。15人も入ればいっぱいになってしまう空間ではどこに座るかによって見えるものも見え方も随分と違っていて、観客の多寡やどのような人がそこに座っているかによってもそのあり方は変わるだろう。

私にとって興味深かったのは、私がこれまでの新聞家の公演において要請され実践してきた態度のようなものが、二度目の観劇がある/であるということで「緩んでしまった」と感じられたことだ。新聞家・村社祐太朗の書くテクストは容易には意味がとり難く、上演において観客は俳優が訥々と語る言葉に極度に集中することになる。それは言葉以外の要素が極度に切り詰められているがゆえのことでもあるのだが、そのようにして集中してなお、語られる言葉の意味を十全に理解することは難しい。しかし、あらかじめ予定されている二度目の観劇は私に油断を許す。

失われた緊張は二度目でも取り戻されることはなかった。上演が始まると(おそらくは彼らの思惑通りに)自然と前回のことが思い出され、いや、正直に言えば私は積極的にその記憶を反芻しさえしていたのだった。そのときの私はすでに『フードコート』の戯曲を読んでいて、記憶のなかのそれを呼び出しつつ目の前の風景を眺める私の営為は俳優のそれにも近づいている。

ところで、二度目の観劇の際には、私にとって一度目の観劇の際と同じテクストの同じ俳優(吉田舞雪)による上演のあとに、新たな俳優(花井瑠奈)による新たなテクストの上演が加わっていた。『フードコート』では公演期間の初めからさらなる出演者が募集されていて、応募に応じて新たなパートが追加される可能性があることも予告されていた。だが、それがいつ上演されるのかは(そもそも応募があったのかどうかも)観客には知らされなかった。

作品の変化に対して期待はあっても明確な準備をしていなかった私は、半ばぼんやりとしたままそれを受け取ることになる。追加された部分の冒頭、「収まることにどの子も協力的じゃない」と聞こえた「どの子」は戯曲には「どの弧」と書かれていて、私はそこですでにつまづいていた。

何かを簡単にわかってしまうのではなく、真摯にそれに向き合い続ける、というのが新聞家に一貫した姿勢であって、上演における体験の個人的な部分、抽象概念としての「作品」以外の部分を際立たせる試みもその一環だろう。だが、私個人の観劇体験を構成するさまざまな要素に対しても真摯に向き合いつつ、同じ程度に「作品」に対しても集中し続けることは少なくとも私にとっては難しく、例えばよぎる猫の姿に気はそらされるのであった。それはぜんぜん嫌ではないのだけれど。


公式サイト:https://sinbunka.com/

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2019/09/21(土)(山﨑健太)

うさぎストライプ『ゴールデンバット』

会期:2019/09/07~2019/09/08

城崎国際アートセンター スタジオ1[兵庫県]

本作は『バージン・ブルース』で平成30年度 希望の大地の戯曲「北海道戯曲賞」大賞を受賞した大池容子の作・演出によるひとり芝居。舞台は昭和歌謡アイドル・梅原純子の単独ライブ、の代わりに急遽開催された未亡人アイドル・憂井おびるのトークアンド歌謡ショーという体裁で始まる。語られるのは、彼女が池袋西口広場で見た「マイクと、ラジカセ持って、ひっくり返したビールケースの上に」立つ「着物着て、白髪交じりの、ボッサボサの髪をそのまま下ろし」た「パッと見、七十歳ぐらいの、太ったお婆さん」海原瑛子の半生。西口広場に立つ瑛子はラジカセの電源を入れると、渡辺真知子「かもめが翔んだ日」をおもむろに歌い出すのであった。

[撮影:三浦雨林]

ところで、舞台上で歌っているのは誰だろうか。物語上、西口公園で歌うのは瑛子なのだが、舞台には一応のところ歌謡ショーのためのものらしきセットが置かれており、ならばやはり瑛子の話を枕におびるが歌い出したと見るのが妥当なのかもしれない。いずれにせよ、そこで歌っているのが菊池佳南という俳優であることは間違いない。このようにして、おびる/瑛子/菊池の姿は分かち難く重なり合う。

かつておびるは地下アイドル「月から来たうさぎ・中島ウサ子」として活動していた。なかなか芽の出ない彼女だったが、たまたま見かけた瑛子の姿からインスピレーションを得たマネージャーの提案により、昭和歌謡アイドル・梅原純子として巻き直しを図り、地下アイドルとしてはそこそこの人気を得るようになっていく。おびる=純子の物語にはすでに瑛子の人生が編み込まれている。

では、かつて歌手になることを夢見て上京してきた瑛子は、いわば純子の「失敗した未来」なのだろうか。瑛子を指す「キチガイババア」という言葉に覗くのは自らの先行きへの恐れだろうか。そういえば、瑛子が上京する間際、その未来を先取りするかのように、彼女の妹・華もまた、(おそらくは男との関係が原因で)ぶくぶくに太り引きこもってしまっていたのだった。不吉な一致。ならば、瑛子から純子へと手渡された錆びついた東京オリンピック記念硬貨は繰り返す呪いとなるしかない。ラストの『イエスタデイ・ワンス・モア』は限りなく苦く響く。瑛子はもう、輝かしい未来を信じていた過去に戻ることはできない。純子は迫り来るタイムリミットを予感している。

だが、華はやがてたくましい母の顔を手に入れる。瑛子もまた、「なりふり構わず歌にしがみつく」純子の姿を見て「大切なことを思い出」し、還暦を迎えてもなお「日本中を明るくする」ために歌い続けようと決意を新たにする。合わせ鏡のようにして二人が互いのなかに見たのは、過去への後悔や未来への絶望ではなく、それでも生きる強かさだったのではないか。『イエスタデイ・ワンス・モア』はたしかに苦い。だが、過去を振り返ることで再び踏み出せる一歩もある。最後に浮かび上がるのは瑛子の歌の原風景だ。

[撮影:三浦雨林]


うさぎストライプ:https://usagistripe.com/
第0回豊岡演劇祭:https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/

2019/09/08(山﨑健太)

ホエイ『或るめぐらの話』

会期:2019/09/07~2019/09/08

城崎国際アートセンター スタジオ1[兵庫県]

『或るめぐらの話』は津軽の方言詩人・高木恭造の長編詩をもとにした山田百次によるひとり芝居(テキスト:高木恭造/方言詩集まるめろ『方言による三つの物語』より)。山田扮する黒井全一が問わず語りに語るのは「酒に女にと、さんざん遊んできた一人の男が、メチルアルコールのせいで目が見えなくなってしまいます。悲嘆に暮れて自殺しようとするが、お坊さんに命を救われます。そこから自分の人生を考え直し、やがて希望を見い出す。」(当日パンフレットより)と山田自身がまとめるようにいたってシンプルな物語だ。

[写真:三浦雨林]

今回はホエイ名義での上演となったが、この作品は2008年、30歳のときに青森から東京に出てきた山田がその頃から上演し続けているものだという。2014年にホエイが結成されるかなり前から上演されており、しかもテキスト自体は高木の詩をもとにした作品ではあるのだが、いま見ると、山田の作・演出による一連のホエイ作品のエッセンスがすでに凝縮された作品となっていることがわかる。

ホエイの作品の多くは見過ごされてきた/見過ごされているもの、周縁に置かれたものを描き、それが見過ごされるプロセスも含めて可視化することを試みている。本作にもまた、二つの「周縁的」なモチーフが登場する。「津軽」と「めぐら」がそれだ。

青森には「この長編詩を一人芝居にして上演してる方が数人いまして、それを観て自分もやりたいと思って始め」たと語る山田だが、しかし上演し始めたのは上京した頃からなのだという。つまり、全編が津軽弁で上演されるこの作品は多くの場合、津軽弁を十全には解さない観客を前に上演されてきたことになる。青森のアイデンティティと東京の孤独。今回の豊岡演劇祭での上演では同祭が国際演劇祭となることを意識してか英語字幕が付されていたため、英語を経由して物語のほぼすべてを把握することができたが、私の体感では津軽弁を聞くだけで理解できるのは全体の6、7割だろうと思われる。私にとっての津軽弁は日本語でありながら英語より遠い。観客にとっての距離を可視化する字幕という装置はむしろ、(津軽弁を解さないが英語を解する)日本人観客にとってこそ有効に機能するものかもしれない。

一方、主人公が「めぐら」であることは「見え(てい)ないもの」というホエイ作品に通底するモチーフにつながっている。ラストシーン、花見に赴いた全一は美しい風景と楽しげな人々が「みな見えるど」と小躍りしてみせる。生きることの喜びを取り戻す力強い場面だが、「めあき」であるところの私はそこで問われることになる。私には「見え(てい)ないもの」を見ることができるだろうか。「見え(てい)ないもの」が見えるようになったとき、それを喜びとすることができるだろうか。

[写真:三浦雨林]

ホエイ:https://whey-theater.tumblr.com/
第0回豊岡演劇祭:https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/


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2019/09/08(山﨑健太)

柿喰う客『御披楽喜』

会期:2019/09/07~2019/09/08

出石永楽館[兵庫県]

天才彫刻家・蛇ノ目梯の十三回忌。最後のゼミ生13人が集ったそこで明かされたのは、彼が莫大な遺産と遺言状を遺していたという事実だ。なぜいまさら。蛇ノ目の望みは長生きならぬ「長死に」。彼の作品がその死後も世界に影響を与え続けること。遺産は蛇ノ目と彼の功績としてのゼミ生たちの作品を展示する美術館を建てるためのものだった。

[撮影:igaki photo studio]

殺人事件でも起きそうな、極めてミステリ的設定だ(実際、蛇ノ目は殺されているのだが、それは前作『美少年』の話であって今作には関係がない)。引き込まれる導入部に続いて、ゼミ生たちがここに至るまでの過去が語られる──のだが、物語らしきものは結末に至ってなお、ほとんど何をも開示しない。なんせ60分しかない上演時間に13人、蛇ノ目を加えれば14人もの登場人物それぞれのエピソードが詰め込まれているのだ。各々のキャラは立ちすぎるほどに立っているが、そこに物語の入り込む余地はほとんど残されていない。

たとえば東京都庁の前で全裸で放尿する女。現代のマリアを自称し想像妊娠する女。知的障害を持ち、塗り絵以外に何もできないがその塗り絵には9000ドルの値がつく男。才能を持ちながら貧困で餓死する男。アート業界に顔がきくことを買われて広告代理店に就職する男。そして原発マネーで建てられる美術館。エトセトラエトセトラ。PC(ポリティカル・コレクトネス)などクソ食らえと言わんばかりの悪意とアイロニー。

[撮影:igaki photo studio]

[撮影:igaki photo studio]

ところで、一部のジャンプ漫画、たとえばある時期からの久保帯人『BLEACH』や吾峠呼世晴『鬼滅の刃』は、「敵」も含めて登場する人物一人ひとりの過去に強くフォーカスをあて、それぞれのエピソードを開示する。これによってそれぞれのキャラクターは作品を貫く物語にのみ奉仕するわけではない人物として独立性を獲得しているようにも思えるが、結果として主筋は遅延され、いつまでも完結しない(などということはもちろんないのだが)。というよりも主筋こそがむしろ、無数のキャラクターを存在させるために利用されている気配すらある。奇妙な反転。

ゼミ生のほとんどは芸術家としては大成しない。蛇ノ目の「物語」に寄生することで辛うじて彼らは「存在」することができる。だから物語は終われない。本作のタイトルでもあるおひらきとはつまり空虚さの開示でしかない。ひとりを除く登場人物には「閉じる」を意味する名前が与えられている。破局を避けるために内に篭り続けること。空虚の高速回転。だが劇場の扉が開けば芝居はおしまいにならざるを得ない。

翻って現代の芸術はどうか。一糸乱れぬ演技とそれとは裏腹の濃いキャラクターで舞台に立つ俳優たちは、空虚を空虚として、しかし同時にエンターテイメントとしても提示してみせた。作・演出の中屋敷法仁のアイロニカルな視線と悪意はそのまま、現代の芸術と作家たちにも向けられている。


柿喰う客:https://kaki-kuu-kyaku.com/
第0回豊岡演劇祭:
https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/

2019/09/07(山﨑健太)

青年団『東京ノート・インターナショナルバージョン』

会期:2019/09/06~2019/09/08

城崎国際アートセンター ホール[兵庫県]

第0回豊岡演劇祭のオープニング演目として青年団『東京ノート・インターナショナルバージョン』が上演された。『東京ノート』は1995年に岸田國士戯曲賞を受賞し、その後も日本のみならず世界中で上演されてきた平田オリザの代表作。これまでにも台湾、タイ、フィリピンのそれぞれで現地の劇作家・俳優・スタッフとともに『台北ノート』『バンコクノート』『マニラノート』と題された現地版が制作されている。「インターナショナルバージョン」にはこの3カ国に加え日本、韓国、アメリカ、ウズベクスタンの俳優が出演しており、七つの言語でセリフが発せられる上演となった。

[写真:igaki photo studio]

近未来の東京にある美術館のロビーを舞台に、そこを行き来する人々の人間模様を描いた『東京ノート』。「インターナショナルバージョン」では登場人物の配置と戯曲の大筋はそのままに、2034年の東京を想定し、登場人物のバックグラウンドが多様化している。オリジナルは日本人同士の立場や考え方の違い、あるいはそれらへの無自覚を描き出すものだったが、「インターナショナルバージョン」では「国」も異なる人々とのやりとりがそこに加わる。例えば、平和維持軍に参加することにしたというフィリピン人・マニー(マンジン・ファルダス)に対し、たまたま居合わせた無関係の日本人・橋爪(前原瑞樹)が「Not to war.」と声を上げる場面は、オリジナルにも存在した日本人同士のそれ以上に緊張感を孕んだものに私には感じられた。橋爪が声を上げられたのは同行者である在日韓国人・寺西(鄭亜美)がフィリピン語を解したからなのだが、複数の言語が交わされ、誰が何語を解するかわからないという状況は、また別種の緊張を不意打ちのようにその場にもたらすことになる。

[写真:igaki photo studio]

ところで、「インターナショナルバージョン」には新たに追加された(=オリジナルには存在しなかった)登場人物がひとりいる。学校の課題で「英語で二十人と話さなきゃいけない」という中学生(井垣ゆう)だ。明らかに日本人である登場人物にさえ「日本人の方ですか」と律儀に確認を取り、そのたびに「はい」「じゃあ、いいです」と繰り返されるやりとりは笑いを誘い、地元の中学生のキャストへの抜擢と相まって平田流の「サービス」とも感じられるが、しかし彼女の存在は2034年の日本の状況を鋭く抉り出す。いちいち確認しなければわからない程度には、日本にいる人々のバックグラウンドが多様化しているのだ。

もちろんこれは作中の2034年に、あるいは人種・国籍に限られる話ではない。たとえば「オリジナルの登場人物は日本人のみ」というのも、作中に国籍への言及がない以上、実は私の思い込みにすぎない。『インターナショナルバージョン』にはロシア系日本人と在日韓国人の登場人物がいる。「日本人の方ですか」という不躾にも感じられた(というのは、実際のところある人が英語を話すかどうかと何人であるかはもちろん関係がないからだ)唐突な問いかけは、しかし翻って私のなかにも確実にある「偏見」を突くことになった。この「インターナショナルバージョン」は2020年2月に東京・吉祥寺シアターでも上演される予定だ。


青年団:http://www.seinendan.org/
第0回豊岡芸術祭:https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/

2019/09/07(山﨑健太)

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