artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』

会期:2022/02/03~2022/02/17

シアタークリエ[東京都]

ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲をさまざまな演出家が上演するKERA CROSSのver.4として『SLAPSTICKS』が上演された。同作はNYLON100℃ 2nd SESSIONとして1993年に初演された作品。これまでに鈴木裕美が『フローズン・ビーチ』を、生瀬勝久が『グッドバイ』を、河原雅彦が『カメレオンズ・リップ』をとベテランが演出を担当してきたこのシリーズだが、今作では若手を起用しロロの三浦直之が演出を担った。ロロの旺盛な活動と並行して、海野つなみのマンガを原作とした朗読劇『逃げるは恥だが役に立つ』の脚本・演出や松本壮史監督の映画『サマーフィルムにのって』の脚本など活動の幅を広げている三浦だが、自分以外の劇作家の戯曲の演出を手がけるのは今回が初となる。

かつて「チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートンの三大喜劇王を全員ワキに廻した」こともある喜劇俳優ロスコー・アーバックル(金田哲)。ある事件をきっかけに映画界から排斥されてしまった彼の映画のリバイバル上映を企画するビリー(小西遼生)は、配給会社で働くデニー(元木聖也)に当時の思い出を語りはじめる。時は1939年から1920年へ。喜劇俳優を目指す若き日のビリー(木村達成)はマック・セネット(マギー)のスタジオで助監督として働いていた。ある夜、ビリーがスタジオで独りフィルムを編集していると憧れの女優メーベル・ノーマンド(壮一帆)が現われる。恋仲だったセネットのスタジオを去って以来、高まる人気とは裏腹に彼女の出演作への評価は低調だ。精神的に不安定な状態にある彼女はその日もコカインをキメているようで──。人々を笑顔にするサイレント・コメディ。しかしその裏には過酷な現実がある。つくり手たちは体を張り、心をすり減らしている。


[写真提供:東宝演劇部]


着ぐるみ的なスーツを着てファッティ(デブくん)ことアーバックルを演じた金田が出色。2003年再演版では古田新太が喜怒哀楽もあらわにひとりの人間としてのアーバックルを演じていたのに対し、金田版アーバックルは飄々とすっとぼけた演技を貫き、現実でもサイレント・コメディの世界を生きているかのような人物として造形されていた。いかにも喜劇俳優然としたメイクの施された顔とハリボテの体も非現実感を強調する。シリアスな場面でも軽やかさを失わないアーバックルだが、だからこそそこには哀愁が寄り添う。時折見せる軽快な動きも楽しい。桜井玲香はビリーの初恋の人・アリスという振り幅の大きい役を巧みに演じ、ベテランのマギーはサイレント・コメディの空気感を牽引して頼もしい。喜劇俳優というハマり役を得たロロ俳優陣(亀島一徳、篠崎大悟、島田桃子、望月綾乃、森本華)も大舞台で生き生きとして見えた。


[写真提供:東宝演劇部]


[写真提供:東宝演劇部]


映画業界の光と影。フィクションと現実のギャップは歪みを生む。劇中でその極点として描かれているのが女優ヴァージニア・ラップ(黒沢ともよ)の死だ。彼女はアーバックルの主催するパーティーで何者かに暴行され、その4日後に亡くなってしまう。容疑者として逮捕されたアーバックルは裁判で無罪を勝ち取るものの人気は地に落ち、映画業界からはほとんど追放状態となる。

釈放され、「酒だって飲む、クスリもやる、人も殴る。だけどね、映画を創れなくなるようなヘマはしない」「映画が創れなくなるなら、死んだ方がマシです」と語るアーバックルの映画への思いには胸を打たれる。一方で、それでも他者を踏みつけにするアーティストがいくらでもいる現実を知ってしまっている現在の私に、その言葉は虚しくも響くのだった。


[写真提供:東宝演劇部]


リバイバル上映によって/戯曲に書かれることによって/戯曲が上演されることによって再び光があてられるアーバックルとは対照的なのがラップの存在だ。この戯曲において彼女はアーバックルに「仕事の相談」を持ちかけ、そして何者かに殺されるためだけに登場させられている。ラップは被害者であるにもかかわらず彼女自身に落ち度があったかのような中傷を受け、しかしもちろん反論の機会が与えられることはない。ラップは被害者としても死者としても、そして登場人物としても言葉を奪われている。

三浦の演出はそのことを告発するものだ。死者となり物語から退場させられたラップは幽霊のような存在としてその後もしばしば舞台上に登場する。誰にも言葉を聞いてもらえないままに舞台を彷徨うラップ。戯曲には存在しないラストシーンでもラップは独り舞台に現われ、改めて何事かを語るが、ここでも彼女に声は与えられない。言葉を奪われそれでも何かを語ろうとする彼女の顔がスクリーンに大写しになり、そして舞台は幕となる。

声を奪われたラップの存在は、この戯曲においてあまりに多くのネガティブなイメージを背負わされた女たちを代表するものでもあるだろう。性的に消費され、首の骨を折り、薬物中毒となり、嘘を吐き、自ら命を絶つ女たち。それらの幾分かは時代背景を反映したものでもあるだろうが、男たちに与えられた役割との差は歴然だ。彼女たちもまた声を奪われた存在だ。

だが、三浦のやり方はいささかマッチポンプめいても見える。あるいはこれが純然たるフィクションであればこのようなやり方も(それが最善だとも思えないが)あり得たかもしれない。しかしこの戯曲は史実に基づいて書かれたものであり、ラップは現実に存在した人間だということを忘れるわけにはいかない。セカンドレイプがあったこと自体もまた史実だとはいえ、劇中で行なわれるセカンドレイプと現実におけるそれとの間にいかほどの違いがあるだろうか。戯曲が上演されるたび、ラップの尊厳は傷つけられる。女たちの声が奪われていることを指摘するだけではラップへのセカンドレイプは購えない。

声を奪われた彼女たちを演じる生身の人間である俳優もまた、舞台上で自らの言葉を発することは許されていない。だから、問いは観客である私の側へ、現実の側へと投げかけられる。お前はどうするのかと。


KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』:https://www.tohostage.com/slapsticks/
ロロ:http://loloweb.jp/

2022/02/03(木)(山﨑健太)

地域の課題を考えるプラットフォーム 成果発表「仕事と働くことを演じる」(演出:村川拓也)

会期:2022/01/30

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

本職の介助労働者が、その日の観客から募った「被介助者」役を相手に、日々の重度身体障害者介助の仕事を実演する『ツァイトゲーバー』(2011)。日中韓の3カ国から参加した3人の介助者が同様に出演する『インディペンデント リビング』(2017)。この形式を踏襲した『Pamilya』(2020)では、フィリピンから来日して老人ホームで働く外国人介護士が出演し、介護を担当した高齢女性への想いや自身の人生を語ることで、個人的・歴史的射程が広がるとともに、「外国人労働者に依存する介護現場」「シングルマザー」といった社会的課題を浮かび上がらせた。さらに、『事件』(2021)では、「スーパー」という消費空間を舞台に、従業員、管理する店長、買い物客の行為を(当事者ではなく)俳優がマイムで再現。マニュアル通りの機械化された動作の空虚な反復を通して、消費資本主義社会と組織の中で抑圧された身体によって「快適」に保たれた日常の不気味さが提示された。これらの作品群に通底するのは、「日常生活を支えるものであるにもかかわらず、社会的/個人の意識内において透明化された労働」をまさに観客の目の前に差し出す点である。

ロームシアター京都の事業「地域の課題を考えるプラットフォーム」の一環として開催された本公演も、こうした村川拓也のドキュメンタリー的手法の系譜に連なるものだ。本公演は、「ワークショップ参加者が実際に経験した仕事」を元につくられた演劇作品である。「ワークショップ成果発表」と銘打たれているが、これまで培った手法の新たな展開を示す、完成度の高い作品に仕上がっていた。

スピーカー、パイプ椅子、スタンドマイクのみが登場する、ほぼ素舞台に近い、何もない空間。5名のワークショップ参加者が順番に登場し、普段の(あるいは過去に経験した)労働をマイムで淡々と再現する。具体的な仕事名は告げられないが、接客の言葉や同僚との会話、動作の節々から、カフェの店員、おせち製造工場の従業員、別の工場の従業員、図書館の司書、ごみ収集作業員であることがわかる。点描を重ねていくことで、規律化された労働者の身体(と俳優との同質性)、外国人技能実習生、そして労働とジェンダーの問題が重層的に浮かび上がっていく。


[撮影:金サジ(umiak)]


カフェや工場では、「スピーカー」から流れる注文の合図や現場監督の指示に、機械のようにただ従う身体が提示される。それは同時に、「不在の演出家の声」に動かされる俳優の身体への批評でもある。また、「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「クレームゼロ!」といった文句や会社のモットーを、誰もいない空間に向かって復唱し続ける姿は、規律化された労働の異様さを強調する。注文の合図や指示の声は次第に間髪を入れずに響き続け、その速度に追いつけない労働者の身体はバグを起こしたように機能不全に陥ってしまう。一方、組み立てラインや箱詰め作業といった、身に染みついた動作の再現は流れるように滑らかで、無対象で抽象化された動きはダンスを見ているようでもある。


[撮影:金サジ(umiak)]


おせち製造工場で主題化されるのは、「日本人の快適な生活」が外国人技能実習生に支えられている構造だ。(姿の見えない)同僚との会話から、複数の国の出身者がいることや残業問題が示唆される。従業員の周りを取り巻く「見えない外国人労働者」は、まさに私たちの意識の問題でもある。一方、休憩時間の挿話は、「国籍」という個を捨象する枠組みから「個人」への眼差しの移行を示し、示唆的だ。出演者は休憩中、隣席の外国人労働者に「あなたの、くには、どこですか?」と尋ねるが、日本語が通じない(メタレベルでは「答えてもらえない」)。だが、退勤の際、失礼な質問を謝り、「あなたの名前は?」と聞き直すことで、個人としての関係を結べるようになる。

また、労働とジェンダーの関係に焦点を当てるのが、図書館司書が読み聞かせる「絵本」の内容である。「お父さんの仕事」と「お母さんの仕事」の2冊の絵本は、ジェンダー化された労働を如実に示す。「お父さん」は、家では「パパ」「お父ちゃん」と呼ばれるが、仕事中は「現場監督」「係長」「工場長」「配達員」などと呼ばれ、公/私の明確な境界と「社会的地位の高さ」を示す。一方、「お母さん」が従事するのは、家事や育児、保育士、ウェイトレスやスーパーのレジ係などパートタイムや低賃金の労働である。


[撮影:金サジ(umiak)]


終盤、ごみ収集車に乗り込んだ作業員は、市街地を離れ、一面の雪景色を目撃する。娘のためにスマホで写真を撮り、「きれいやなあ」とつぶやく。つかのま出現した銀世界は、一瞬後、暗転に飲み込まれた。徹底してドライな本作だけに、余韻と抒情性を残した終わり方は鮮烈な印象を与えた。

ただ、労働とジェンダーの問題の扱い方には疑問も残る。上述の「読み聞かせ絵本」の選択は確信犯的だが、一方、ワークショップの募集要項には「有償の仕事であること」という条件が書かれ、実際の再現も賃金・雇用労働に限られていた。家事や育児といった家庭内での再生産労働もまた、男性中心主義社会では「見えない労働」である。障害者介助や老人介護、外国人労働者、スーパーの店員、ごみ収集作業員など「生の持続を支えているにもかかわらず、社会的にも私たちの意識内でも透明化された労働」を扱ってきた村川だが、「再生産労働という不可視化された労働」への言及があれば、その射程と批評的意義はより深まるのではないか。

関連レビュー

村川拓也『事件』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年06月15日号)
村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年03月15日号)
村川拓也『インディペンデント リビング』|山﨑健太:artscapeレビュー(2017年12月15日号)
村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚:artscapeレビュー(2013年03月01日号)

2022/01/30(日)(高嶋慈)

笠木泉『モスクワの海』

会期:2022/01/15~2022/01/22(※戯曲無料公開期間)

笠木泉が主宰する演劇ユニット・スヌーヌーの2作目として昨年末に上演された『モスクワの海』が第66回岸田國士戯曲賞の最終候補作品にノミネートされた。遊園地再生事業団、「劇団、本谷有希子」、ミクニヤナイハラプロジェクト、はえぎわなどの演劇作品や冨永昌敬監督、中村義洋監督らの映画作品で俳優として活躍する笠木は劇作家としても活動しており、2017年に脚本家・鈴木謙一らのユニットであるラストソングスに提供した『家の鍵』は第6回せんだい短編戯曲賞にも最終候補作品としてノミネートされている。アラビア語でツバメを意味する名を持つスヌーヌーでは笠木自身が演出も手がけ、2018年に踊り子ありのひとり芝居としてvol.1『ドードー』を上演。『モスクワの海』は当初は2020年12月にvol.2として上演を予定をしていたもののコロナ禍の影響で延期となり、2021年12月、1年越しでの上演が実現した。実は私はその上演については観ることが叶わなかったのだが、公演は好評を博し、その後、2022年1月15日から22日までの1週間、希望者にpdfファイルを配布するかたちで戯曲が公開された。本稿は(上演の記録写真こそ掲載されてはいるが)その戯曲のレビューとなる。


[撮影:明田川志保]


主な舞台は川を挟んで「東京の隣」にある街。「急行が止まるし、南武線も走っているから、人はそこそこいるけど、ごった返すかというと、そうでもない」駅から徒歩5分の住宅街にある「二階建ての、古くて、ちいさな一軒家」。そこに住む女1(高木珠里)はあるとき庭でふいに立ち上がれなくなってしまう。たまたま通りがかった女2(踊り子あり)は「手を、貸しましょうか」と申し出るが女1は「大丈夫です!」と頑なで──。

拒絶された女2は一度は立ち去るものの戻り、改めて手を差し伸べ、しかしその手を借りず自力で立ち上がった女1が家の中に戻るのを手伝い、彼女を病院へ連れて行くためのタクシーを呼ぼうと通りへ出る。劇中の時間で起きるのはたったこれだけ、10分程度の出来事だ。


[撮影:明田川志保]


見ず知らずの人に助けの手を差し伸べるのは案外難しい。ふいに声をかけられた側も警戒する。二人の間には門扉の柵という物理的な障壁もある。「見えているのに、助けられない」。だがそれでも女2は文字通りの障壁を乗り越え、少しだけ女1の側に踏み込む。女1の拒絶を思えばそれは余計なお世話だったのかもしれないが、そうして足を踏み入れた家の中の様子から女2は少しだけ女1のことを知ることになる。パン、せんべい、バナナの皮、割り箸が刺さったまま干からびたサトウのごはん、そこだけがきれいに拭かれた仏壇、民生委員の電話番号が書かれたメモ、溜まった郵便物。それは女1の人生のごくごく一部でしかないが、その一部ですら、加藤伸子という彼女の名前と90歳という年齢すら、女2が踏み込まなければ知り得なかったものだ。それは観客にとっても同じことだ。舞台上にはほとんど何もなく、伸子を演じる高木は90歳ではない。想像力には限界がある。


[撮影:明田川志保]


ところで、伸子には息子がいる。息子を演じる松竹生は最初から舞台上にはいるのだが、ときおり伸子と言葉を交わしたりはするものの、どういう人物なのかはなかなかはっきりしない。やがてわかってくるのは、それがフジオという名の彼女の息子であり、しかし長年引きこもっていた彼はいまはもうその家にはいないということだ。(基本的には)母親である彼女にだけ見えている息子の姿は、女2が伸子の方に一歩を踏み出そうとしたその一瞬だけ女2にも見えるようになり、彼女は少しだけフジオと言葉を交わす。

フジオはなぜいなくなったのか。53歳のある日、フジオは突然、バイトの面接のために新宿に向かう。「きょうは、気分がいい」からと家を出たフジオは結局、新宿に行くことはできなかった。川の近くの公園でフジオが思い出すのは同級生と、そこで通り魔事件を起こし自ら命を絶った、何年も引きこもっていたという自分と同い年の犯人のことだ(それは実際に起きた事件である)。「みんな、忘れてしまっただろうか」。

渡り鳥の声が「来週汚染水が放出されるよ」と告げる。高校生のフジオはまだ学校に通っていたらしい。フジオはそのときから借りっぱなしになっていたレコードや雑誌をかつての同級生に返そうとする。それはチェルノブイリ原発事故の年のものだ。そういえば、伸子が立てなくなったのは、どこか遠くで「どーん!」という音がした直後のことだった。ひとりの人間がふいに立てなくなることと歴史的な大事故。遠い両者はしかしどこかでつながっている。


[撮影:明田川志保]


[撮影:明田川志保]


バイトの面接に行けず、橋の上から川面を眺めていたフジオは、やがてそこから落ちてしまう。「彼は、確かにいろいろあるけどさ、ちょっとふらっとしただけなんだ。薬をちょっとだけ飲みすぎて、ふらっとしただけなんだ。今、今だけなんだ! この瞬間、そうなってしまっただけなんだ!(略)だから、これは、事故なんだよ」。渡り鳥たちの声は悲しくも優しい。集まった鳥たちは落下するフジオを助け、そして彼もまた鳥たちとともに飛び立っていく。その後に描かれる久しぶりの帰宅の場面は、現実か、それとも伸子の空想だろうか。

もしかしたらフジオは救われなかったのかもしれない。だが、伸子の「その瞬間」には女2がいた。遠い悲劇に直接できることはなくとも、想像の及ばないことがあろうとも、そばにいるというそれだけのことで救われる何かがあり、そこからはじまる何かもある。この戯曲はそのことをささやかに、しかし力強く肯定しようとするものだ。


[撮影:明田川志保]



スヌーヌー『モスクワの海』:https://snuunuumoscow.amebaownd.com/
スヌーヌーTwitter:https://twitter.com/snuunuu

2022/01/20(木)(山﨑健太)

モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』

会期:2022/01/08~2022/01/30

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』は、ミュージカル『ビリー・エリオット』に感動した大学生・凛太郎(名村辰)が俳優になることを思い立ち、劇団に入り、しかし舞台には立てないままコロナ禍が訪れ、そしてそのまま劇団が解散するまでの物語だ。ともすればナルシスティックな演劇愛や自己憐憫に陥りかねないモチーフだが、この作品で描かれるそれらは苦く、だからこそ胸を打つ。

同タイトルの映画(ただし邦題は『リトル・ダンサー』)に基づくミュージカル『ビリー・エリオット』で炭鉱の町に住む主人公の少年・ビリーは偶然出会ったバレエの先生に才能を見出され、やがてロンドンの名門バレエ学校へと進むことになる。冒頭の劇団オーディションの場面で、凛太郎は自分がいかにビリーの姿に感動し俳優を目指すことになったのかを語るが、そこは劇団員たったの5名、オーディションへの応募者も凛太郎のほかにいないような劇団だった。ビリーと違い、凛太郎はその才能を見出されたわけでも、名門に進んだわけでもない。劇団で作・演出を担当する能見(津村知与支)の戯曲は「難解」で劇団員たちにも意味がわからないと言われる代物で、方向性について意見の対立があったりもする。観客からも基本的には拍手がもらえないと劇団員自らが言うようなその劇団の稽古は、傍から見れば馬鹿馬鹿しくもあるのだが、入団した凛太郎はそれでも楽しそうに日々を過ごす。

だが、劇団員の加恵(生越千晴)が事務所に所属するために公演には出られないと言い出したあたりから雲行きは怪しくなる。能見も「何書いてるかわかんない」「何をやってるんでしょうか! 我々は!」と言い出し、凛太郎は大学で加恵の代役を探してくると申し出るが公演は延期に。そしてコロナ禍がやってくる。公演の予定もなく、稽古で集まることもない宙ぶらりんの時間。だがそれでも時間は過ぎていき、それぞれの置かれた状況は変化していく。

凛太郎にはアルコール依存症の父(西條義将)がいた。かつて凛太郎に暴力を振るっていた父は、母子と別居して後はひとりで居酒屋を切り盛りし、アルコールとも距離を取っているように見えた。だが、コロナ禍で店を閉めざるを得なくなり、代わりに得た補助金で再び酒浸りになった父はまたしても凛太郎に暴力を振るってしまう。「ビリーの父親は炭鉱夫で、怖い人で……ビリーのバレエにも大反対で……だけど、最後にはビリーを応援して(略)きっと、ビリーに胸を打たれたのは……彼が父親を変えたから」という凛太郎の慟哭は二重に苦い。父を変えられなかったという現実は、演劇に取り組む現在の凛太郎の存在意義をも揺るがすからだ。「そうか……ここは途中の場所……僕にとって東京は、ここにいる限り、まだ途中なんだと、言ってのけていい場所」。気づいてしまえばそのままでいることもまた苦しい。凛太郎は劇団をやめようと思うと能見に伝える。

その頃、劇団員たちもそれぞれに劇団を続けることが困難になっていた。長年の同棲生活を続けてきた長井(古山憲太郎)と山路(伊東沙保)。山路は長井を「演劇の道を歩く同志であり、理解者」でもあると思っており、だからこそ浮気にも耐え、ときに経済的な援助もしてきた。だが、コロナ禍でリモートでの家庭教師によって多くの収入を得、その仕事に演劇以上のやりがいを見出しはじめた長井は、「ケジメを」と言って結婚ではなく別れを切り出す。さらに、長井のスマホを覗いた山路は、長井が劇団員の久保(成田亜佑美)とコロナ禍に入って毎日のようにメッセージをやりとりしていたことに気づく。それは浮気ではないようなのだが、幼馴染の久保を「面倒見て、引っ張ってきた」と自負する山路は二人のふるまいに耐えられない。一方、久保は久保で俳優になるという夢も初恋の人も、いろいろなものを山路に先に取られてきたと感じており、彼女のことを嫌いだと思いながらも付き合いを続けてきたのだった。加恵は恋人のいる韓国に行くことが決まり、能見の実家の厚意で使わせてもらっていた稽古場もコロナ禍の影響でアパートにすることになったのだという。もはや劇団は続けられない。

コロナ禍さえなければ楽しい時間は続いただろうか。だが、表出した問題の多くはコロナ禍以前からくすぶっていたものだ。コロナ禍がなくとも、遅かれ早かれ似たような結末が訪れたのではないだろうか。そしてその結末は、実のところコロナ禍以前から囚われていた宙ぶらりんの時間からの解放でもある。だからこそ現実はより苦く、彼ら自身もどこかでそのことを知っている。

能見は、最後に自分たちを題材にした芝居をこの稽古場で上演したいと言い出し、そして場面は冒頭のオーディションへと戻る。結末を知りながら、彼らは苦さを噛みしめるようにして自分たちの物語を演じはじめる。


モダンスイマーズ:http://www.modernswimmers.com/

2022/01/13(木)(山﨑健太)

矢﨑悠悟×北村成美「リバイバル・リバイバル・サバイバル」

会期:2022/01/07~2022/01/08

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

ダンス作品の本質は、振付に宿るのか、ダンサーの身体にあるのか。あるいは、両者の微妙な配分の上に成り立っているのか。ダンス作品が、時代やジェンダーなどさまざまな差異を超えて手渡されるとき、作品の「継承」には、単なる型の反復に留まらない、どのような批評的創造性が宿るのか。そのとき「コンテンポラリー・ダンス」は、「新しさ」の消費でもポストヒストリカルな地平の「何でもあり」でもなく、どのように普遍性を持ちうるのか。時代を経た「再演」は、新たな「同時代性」をどのように照射しうるのか。本公演は、こうした問いを喚起する機会となった。

「リバイバル・リバイバル・サバイバル」と名づけられた本公演では、矢﨑悠悟(元ヤザキタケシ)と北村成美という関西のコンテンポラリー・ダンス界を代表する2人の振付家が、互いのソロ代表作を交換して踊るとともに、初のデュオとなる新作の3本が上演された。主催のNPO法人DANCE BOXは約10年前に「Revival/ヤザキタケシ」と「Revival/北村成美」を企画し、ソロ代表作や新作を振付家自身と複数のほかのダンサーがそれぞれ踊る試みを上演している。同じソロ代表作が対象となる本公演はその延長上にあるとともに、「ジェンダーの交換」がひとつのポイントとして前景化する。両作とも「ネクタイにスーツ姿の男の悲哀」「赤いパンツを履いたお尻を挑発的に突き出す」という記号的なジェンダー性の強い作品だからだ。

1本目は、矢﨑悠悟振付の『不条理の天使』(1995年初演)を北村成美が踊る。アルチュール・アッシュがしわがれ声で歌う妖艶なシャンソンに乗せて、パントマイムを交えたコミカルなダンスが展開される。拳銃を模した指先は、勢い余って鼻の穴に突っ込んでしまう。オフィスで華麗なブラインドタッチをキメながら、片手でランチを食べ、タバコを吸う仕草は、貪欲に指にむしゃぶりつく欲望を露にする。ランチ後のデスクワークでは、睡魔に負けて椅子から崩れ落ちる無残な姿をさらす。「ハードボイルドな男の世界」を演じきれない滑稽さが、顔の表情を極端に歪める誇張とともに示される。つねに大股開きの両脚も、男性性を強調する。中盤、上着を脱ぎ、椅子=拘束装置から離れて展開されるムーブメントは、彼につかのま許された自由な内面世界だろうか。だが、再び上着を羽織り、椅子の上に縛られた身体へと戻ってしまう。

この振付を北村が踊ることで、「構築された男性性」をなぞっているという奇妙なズレが増幅され、パロディーとしての批評性が生まれる。椅子に上ってロープをかけ、道化的に歪めた顔をさらす首吊りの幕切れは、つねに強い男性性を演じるよう強要する社会の暴力性を浮上させる。それは、「規範的な男性性」を規定する座である椅子が、自らを疲弊させ死に追いやる処刑台となるアイロニーだ。


[撮影:岩本順平]



[撮影:岩本順平]


2本目は、北村成美振付の『i.d.』(2000年初演)を矢﨑悠悟が踊る。冒頭、赤いパンツを履いたお尻が客席に挑発的に突き出される。上半身は黒い布(まくり上げたスカート)で覆われ、暗闇とほぼ同化しているため、不可解な物体が闇に蠢いている印象だ。身体の断片化と、「シルエットの映像/自身の影」と同期/非同期的に踊る仕掛けにより、「identity」の問いと「independent(自立)」への希求が示される。背後の壁面に投影されるシルエットの映像は、生身の身体を凌駕する巨大さで屹立し、自己の理想像とも抑圧的な幻影のメタファーともとれる。このシルエットの映像=虚構は「生身の身体の影」に取って代わられるが、照明の操作により、3つに分裂したり、再び巨大化し、「私」と完全には一致しない。だが、決意を秘めたようにゆっくり一歩ずつ踏み出すラストシーンでは、生身の身体が黒いシルエットと化し、幻影でも虚構でもない「私自身」を力強く示す。矢﨑は、沸き上がるエネルギーを叩きつける「動」と内に強さを秘めた「静」によって、作品の輪郭をくっきりと描いてみせた。


[撮影:岩本順平]



[撮影:岩本順平]


そして矢﨑と北村が共演する3本目『ランランラン』では、トレーニングウェアの2人が舞台上をジョギングし、後ろ向きに走ったり、蛇行したりと走り方に変化を付けていくなかから、次第にムーブメントが生まれていく。ぐっと内に力を込めて放出する北村と、流水のように軽やかな矢﨑の対照性。やがて互いの特徴的な動きが共有され、断片の連なりがひとつながりのムーブメントを形成していく。ユニゾン、そしてコンタクトを介したデュオへの展開を経て、ラストは再びジョギングに戻っていく。飾らない関西弁の会話のなかにダンスの個人史の語りも交えることで、2人の走る軌跡はそれぞれのダンス史の軌跡のメタファーとなるとともに、「走り続ける」決意が示された。異なる方向を向き、交差し、時に蛇行や後ろ向きになりながらも、道は続いていくのだ。


[撮影:岩本順平]



[撮影:岩本順平]


2022/01/08(土)(高嶋慈)