artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
ほろびて『ポロポロ、に』
会期:2021/10/27~2021/11/01
BUoY[東京都]
何もしなければ現状が維持されるなどということはない。ほろびて『ポロポロ、に』(作・演出:細川洋平)は気づかないほどゆっくりと、はっきりとした理由もわからないままに取り返しのつかない状況へと落ち込んでいく人々と、その先でかろうじて結ばれる連帯を描く。
『ポロポロ、に』は大まかに二つの筋が交互に語られるかたちで進んでいく。上手にテントの置かれた舞台手前の空間ではジュンパ(浅井浩介)・エスミ(齊藤由衣)の兄妹とその友人のアクニ(藤代太一)がキャンプをしている様子が、舞台奥の洗濯機が並ぶ空間ではコインランドリーに居合わせた利用者のかか(はぎわら水雨子)とふあな(高野ゆらこ)、清掃バイトのいちき(和田華子)らの会話が描かれる。途中、ジュンパとエスミの住む家にアクニとふあなが結婚の挨拶をしに訪れる場面が挿入され、ふあながジュンパたちの姉だということは明らかになるのだが、それ以上のことはわからないままに話は進んでいく。
かかたちが利用するコインランドリーでは洗濯をするたびに何かがなくなるらしく、それを知っているいちきは「他行った方がいいんじゃないですか」と言ったりもするのだが、かかもふあなもいろいろなものを失くしながら利用をやめない。かかは携帯の向こうの男の言うことに逆らえず、いちきは誰かに暴行を受けている様子だ。一方、キャンプをするジュンパたちは装備が足りず、雨のせいで薪もうまく集められない。誰だってこの状況は怖いというアクニにジュンパは「考えるのよそう」と応じる。「姉を捨てた」とアクニを責めたエスミはテントの中で自殺を図るが、そのアクニに助けられ未遂に終わる。だが、直後にアクニはエスミを暴行しようとし、ジュンパが(一度は見過ごそうとするものの)アクニを殴りそれをやめさせる。こうして、見えないところで進行していた不穏な何かが観客の前にその姿を現わしはじめる。
直後のアクニの独白によって明らかになるのは、そこがキャンプ場などではなくただの路上だという事実だ。アクニたちは現実から目を背け、路上生活のことをキャンプと呼んでいたのだ。「生きていく場所がなくなっただけ」で「誰にも助けを求めることが出来ないだけ」、「ここにいるだけ」の自分たちには「見る価値なんてないと思いますけど」とアクニは観客に語りかけるが、再びアクニを殴ったジュンパは「寝言言ってたぞ」とアクニの行為も告白もなかったことにし、現実から目を背け続けようとする。
アクニの告白が衝撃的に響くのは、観客もまた、目の前の空間をキャンプ場としてそれまで認識していたからだ。だが、もちろんそこはキャンプ場ではない。公演会場のBUoYの地下はかつて銭湯として使われていた場所で、浴室だった部分には湯船や鏡、蛇口など設備の名残がある。公演会場として使うための最低限の整備はされているものの、ほとんど廃墟と言ってもいいような空間だ。観客は目の前の廃墟を見ないふりをすることで、そこがキャンプ場であるという「嘘」をアクニと共有していたのだ。では、そこはいつからキャンプ場ではなかったのか。原理的に、観客がそれを知ることはできない。たしかにキャンプ場であったはずのそこは、気づかぬうちに路上にすり替わっている。そしてその背後には、最初から廃墟が広がっていた。
私が立つこの場所がすでに「廃墟」であるという可能性。そこには倫理的な荒廃も含まれている。あるとき、ふあなは何者かに連れ去られ、しかしジュンパたち三人はそれを見ていることしかできなかった。ジュンパたちはそのことを抱えて生きていくしかない。悪を見過ごした事実はそれ以降の生を蝕む。あるいはアクニが独白のなかで語る、この国で広く浸透していると思われる女性観。そこに拠って立つ社会は「廃墟」ではないと言えるだろうか。舞台上の人々のふるまいに近未来の、いや、それどころか現在の日本の姿が重なって見える。見て見ぬふりが降り積もり、気づけば取り返しのつかない世界がそこにある。
ジュンパたちはどこに行くこともできず、そうするうちに悲劇的な結末を迎える。一方、かかといちきもどこにも行けないでいるが、やがてふあなが二人を自宅に誘う。そこで提示されるのは、行き場のなさゆえに出会った人々による、かろうじての連帯だ。
完璧な作品ではない。例えば、女性の登場人物、特にかかについてはほとんどステレオタイプな被害者としての姿しか描かれていないように見える点には引っかかりを覚える。それがステレオタイプな加害者の存在ゆえのものであったとしても、被害者を被害者としてしか扱わないことは二次的な加害にもなりかねないからだ。加えて、ラストにおける「ケア」を担うのもまた女性であるという点も気になった。作品と作家の性別とは切り離して考えるべきだが、男女平等からは程遠い現実がある以上、どうしても男性作家が書いた戯曲だということも考えざるを得ない。なぜ女性がすべてを背負わ(され)なければならないのか、という問いはしかし、本来は現実に向けられるべきものだろう。
いわゆる社会派と呼ばれるタイプの作品のなかには、あらかじめつくり手と観客との間で共有されている問題を、改めて問題だと指摘するに留まっているものが多々ある。単なる娯楽ならばそれでもいい。だが、自分たちは社会的な問題について考えているのだという自負は、簡単に驕りへとすり替わってしまう。それもまた「廃墟」から目を背けさせる甘い毒だ。それでもふあなの言うように「どれだけ気をつけてもなくなるけど、洗わないとダメなものはダメ」であり「なくなることを覚悟しながら洗」わなければならないのだろう。もちろんそれは作家だけに課せられたタスクではない。
関連レビュー
ほろびて『あるこくはく [extra track]』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
ほろびて『コンとロール』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年02月01日号)
2021/11/01(月)(山﨑健太)
阿部航太『街は誰のもの?』
グラフィティは80年代前半ニューヨークで最初のピークを迎えたが、ニューヨークがジェントリフィケーションによって下火になるのと引き換えに、世界各地に飛び火していく。そのひとつがブラジルのサンパウロだ。この映画はサンパウロのグラフィティやスケートボードなどのストリートカルチャーを、デザイナーの阿部航太が追ったドキュメンタリー。
グラフィティを扱った映画は『WILD STYLE』や『INSIDE OUTSIDE』など、フィクション・ノンフィクションを問わず何本もあるが、違法にもかかわらず公共空間に書くことの意味を問うたり、依頼制作の合法的グラフィティ(それは「グラフィティ」ではなく「ミューラル=壁画」という人もいる)との違いについて語られることが多い。この映画も違法行為を繰り返すグラフィティライターを追いかけ、インタビューしていくなかで、タイトルにあるように、次第に街(公共空間)は誰のものなのかを問うようになっていく。ライターたちの言い分は、自分たちは無償で街を美しく飾っているのになにが悪い? ということだ。これはニューヨークでもヨーロッパの都市でも同じで、公共空間イコール自分たちの場所(だからなにやってもいい)という考えだ。実際、映画には路上で服や食べ物を売ったり、大統領に反対するデモを行なったり、地下鉄でギターをかき鳴らしたり、ホームレスが窮状を訴えたり、思いっきり街を活用している例が出てくる。
こういうのを見ると、やっぱりラテン系は騒がしいなと疎ましく思う反面、うらやましさを感じるのも事実だ。だいたい日本人は公共空間をみんなの場所(それはお上が与えてくれた場所)だから、自分勝手なことをしてはいけないし、自己表現する場所でもないと考えてしまう。だから、ゴミ拾いくらいはするけれど、街を美しくしようとか楽しくしようとか積極的に行動することはあまりない。これを国民性や文化の違いとして片づけるのではなく、表現の自由に対する自己規制や無意識の抑圧として捉えるべきではないかと思ったりもした。日本の街にグラフィティが少ないのは、必ずしも誇るべきことではないのだ。
さて、映画は後半以降グラフィティから離れてスケートボードの話に移るが、スケボーも同じストリートカルチャーではあるものの、とってつけたような蛇足感は否めない。映画としてはグラフィティだけでまとめたほうがよかったように思う。
公式サイト:https://www.machidare.com
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絵が生まれる場所──サンパウロ、ストリートから考えるまちとデザイン|阿部航太:フォーカス(2020年02月15日号)
2021/11/01(月)(村田真)
ハラサオリ『Da Dad Dada』
会期:2021/10/30~2021/10/31
草月ホール[東京都]
Dance New Air 2020->21のプログラムの一環としてハラサオリ『Da Dad Dada』が上演された。2017年にドイツで初演され、2018年には日本でも上演されたこの作品は、1960年代にミュージカルダンサーとして活躍したハラの父、原健についてのリサーチに基づくもので、ハラ自らはそれを「セルフドキュメント・パフォーマンス」と呼んでいる。
父、といってもハラは原健と一緒に暮らしたことはなく、その名前を名乗るようになったのも父と同じ「身体表現の道へ転向することを決意」して以降のことなのだという。グラフィックデザイナーを目指しながらミュージカルダンサーとなった父・原健。ハラもまた、目指していたアートディレクターではなく、ダンサーの道へと進むことになった。奇妙な符号を見せる父と娘のプロフィール。それらがハラ自身によって語られるところからこの作品は始まる。
父と娘が20年ぶりに再会した2015年のときのものだという会話の録音。いかにも親しげな、しかしその親密さが作り物めいても響く会話を背景に、ハラは舞台上の机の上で父の写真をめくり、スクリーンにはその様子を真上から捉えた映像が投影される。やがて映像は1964年に公開されたミュージカル映画『アスファルト・ガール』へと切り替わる。それは「原健が実際に歌い、踊る姿を確認できる唯一の資料」だ。『アスファルト・ガール』の動きをなぞりはじめるハラとダンサーたち。そう、冒頭のプロフィールに暗示されるように、原健のふるまいをハラがなぞるようにしてこの作品は進行していく。
再び父娘の会話。「いつまで、サオリと一緒に居られるかなあ」「結婚できてたらどうなっただろうなあ」。しかし、ハラとダンサーの動きは二人のすれ違いを示すようでもある。「地震のときどこに居た?」という娘の質問に父からの問い返しはない。かすかな不穏。それでも父は「いつでも構わないから本当に、来てな」と娘を送り出し、娘は「何かあったら電話して」と応じる。この日、ハラは父を自分のダンス公演に招待し、後日、劇場に現われた彼は「俺ァはもう死んでもいい」と涙を流して喜ぶことになる。そしてそれが最後の会話になった、とハラは語る。
暗転して再び明かりがつくと舞台上には楽屋のような箱型の装置。ハラはその中で化粧をしながら冒頭の原健のプロフィールを暗唱している。楽屋の鏡にあたる部分はマジックミラーになっており、観客はその「窓」を通してハラと向き合う格好だ。一方、スクリーンにはハラを背後から捉えた映像が映し出されている。後ろ姿と、鏡越しに左右が反転した像。ハラは父への感情を吐露しはじめる。「的外れな愛情表現も、演劇的な振る舞いも、自己中心的な話しぶりも。すべては彼が舞台で放った輝きの裏側にあったものです」。「なんで私を選んでくれなかったんだろう」。「選んで欲しかった。あなたに、愛されてみたかった」。激した感情はしかしすぐに押さえ込まれる。父には「演技と本音と建前と嘘の区別」がついていないから「いいんです」と。だからハラはあの日、「良き父親を演じきる彼に誘われて、良き娘を演じることに徹し」たのだと。
続く場面では『アスファルト・ガール』と同年の東京五輪の映像を背景にダンサーたちが動き回る。父と娘はともに東京五輪の年に33歳を迎えた。その符合は父と娘の関係を日本社会の世代間の関係へと接続するようにも思えるが、あまりにも出来すぎた偶然は強い力ですべてを父と娘の関係へと閉じようとする。
最後の場面。ハラは映像の中の父のそれと似た衣装を脱ぎ、畳んで床に置いたそれをまたぎこす。鎮魂と、父を乗り越えて先へ進むハラの決意を示すであろう行為。それはいかにも演劇めいている。父への評言は舞台上のハラ自身にも当てはまるものだ。ハラはまるで意趣返しのようにして父との関係を作品化し舞台に乗せていく。舞台の上に「演技と本音と建前と嘘の区別」はない。父への愛憎をも利用して作品をつくることと、作品を利用して父への愛憎を仮構することとは区別ができない。そうすることこそが父への復讐であり愛情であり、しかしそのプロセスは強靭な知性によって支えられている。
この作品においてハラ以外のダンサーは「舞台装置」としてクレジットされている。父がそうしたように、いや、父とは異なり明確な意志をもって、ハラは周囲のすべてを自身のための舞台へと仕立て上げ、そうしていることをあからさまに示す。呪いのような偶然も、ハラ自身の意志によって作品の内部に配置されたものだ。観客でさえも舞台を成り立たせるためのひとつの要素に過ぎないだろう。強靭な知性によってエゴイスティックであることを徹底した先で、そうして自らのエゴを肯定することを通してようやく、ハラは父のエゴを、許すことはできなくとも認めることができるのかもしれない。だがもちろん、それすらも舞台の上での出来事だ。「本当のこと」は観客はもちろん、父にも差し出されることはない。それもまた父への復讐だ。いずれにせよ、それを差し出すことはもはや叶わない。だが、舞台という「嘘」を通してのみ語ることができる、存在できる「本当のこと」はたしかにある。だから『Da Dad Dada』は上演されなければならなかった。そしてこれからも上演されるだろう。
ハラサオリ:https://www.saorihala.com/
2021/10/31(日)(山﨑健太)
語りの複数性
会期:2021/10/09~2021/12/26
東京都渋谷公園通りギャラリー[東京都]
インディペンデント・キュレーターの田中みゆきの企画による「語りの複数性」には8人の作家の作品が出展されている。作品はそれぞれに「語りの複数性」、つまり世界の捉え方の多様さを体現するもので、どれも興味深く見た。だが、私にとって個々の作品以上に面白かったのは、展示を順に観ていくことで立ち上がるトータルとしての鑑賞体験だった。建築家の中山英之によって構成された会場を進んでいくことで、鑑賞者である私のなかに世界を捉えるための複数の方法が自然とインストールされ、モードが変更されていくような感触があったのだ。
最初の部屋に展示されているのは川内倫子の写真絵本『はじまりのひ』とそれを壁面に展開したもの。この部屋には加えて、目が見える人と見えない人が一緒に『はじまりのひ』を読んだ読書会の成果物として、目が見えない4人が『はじまりのひ』を読んだ体験を言葉や立体造形などで表現したものが展示されている。展示全体の導入としての具体的な「語りの複数性」の提示だ。
次の展示空間に続く廊下部分に展示されているのは真っ白な空間で落語を演じる柳家権太楼を撮った大森克己の連続写真《心眼 柳家権太楼》。そこに写っているのは全盲の人物が主人公の『心眼』という演目を演じている姿らしいのだが、声が聞こえない写真から私がそれを知る術はない。
だが、百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》に出演しているろう者の木下知威は、対談相手である百瀬の口唇の形を頼りに、つまりは視覚を使って百瀬の言葉を「聞き取り」、自身には聞こえない口唇の動きを伴う声を発していた。やがて百瀬の発話には口唇の形は同じでありながら別の音が混ざっていき、それは聴者である私にとっては奇妙な言葉に聞こえるのだが、しかし木下は何事もないかのように会話を続ける。いや、実際に木下にとっては何事も起きていないのだ。百瀬の声がカットされるに至って彼女の言葉を私が知る術は字幕しか残されていないが、それでも二人の会話は続いていく。
続く映像作品も対話を映したものだ。山本高之《悪夢の続き》では二人一組の出演者の一方がこれまでに見た悪夢について話し、もう一方がその続きを考えてハッピーエンドにするというルールで対話が行なわれる。続きを考えるはずが相手の夢に対して別の解釈をしはじめる人、ハッピーエンドが思いつかない人、提示されたハッピーエンドに対してあからさまに納得していない顔で「なるほど」と応じる人、などなど。なかにはコンセプトをきちんと実現している対話もなくはないのだが、多くの対話には何らかの形で「うまくいかなさ」が滲み、それが微苦笑を誘う。
小島美羽の作品は小島が遺品整理や特殊清掃の仕事を通して触れてきた孤独死の現場から要素を抽出しミニチュアとして再構成したもの。あらゆるコミュニケーションには不全が潜在しているが、小島のミニチュアにはそれが凝縮されているように思えた。誰にも見られずに誰かが亡くなった孤独死の現場のミニチュアをよく見ようと覗き込むことの後ろめたさ。その行為は見過ごされた死の穴埋めにはならないが、それでも知ろうとする態度にはつながっている。
緻密な世界を覗き込む姿勢は岡﨑莉望の緻密なドローイングへの鑑賞態度に引き継がれ、岡﨑の線の運動は展示空間を泳ぐようにダイナミックに吊られた小林沙織《私の中の音の眺め》の五線譜のそれへとつながっていく。音を聴いたときに浮かんだ情景、色彩や形を描いたものだというそのドローイングを見ていく私の体には自然と、五線譜に導かれるようにして運動が生じている。音は視覚と運動へと変換される。
導かれた先には最後の作品、山崎阿弥《長時間露光の鳴る》が展示されている部屋がある。そこで聞こえてくるのはそこにある「窓から視界に入る範囲と、聞こえてくる音の源泉を録音範囲として、複数の時間と季節、天候のもとで」録音した音を編集したもの。一瞬、窓の外の街の音が聞こえてきているのかと錯覚するが、音に集中しはじめるとそれは私に見えている風景とは一致せず、むしろ窓の外の風景の方がずれているような奇妙な感覚が生じてくる。
この部屋は展示空間の突き当たりにあり、ということは、鑑賞者である私は来た道を今度は逆に辿っていくことになる。すでに作品はひと通り見終えているので真っ直ぐに出口に向かってもいいのだが、順路を逆に辿りながら見ていくことで作品が別の姿を現わすこともある。例えば、初見ではその緻密さに目が行った岡﨑莉望のドローイングが、小林沙織《私の中の音の眺め》の後に見ると線の運動としてより強く体験される、というように。「語りの複数性」ということがさまざまなレベルで体感される優れた企画と会場構成だった。
「語りの複数性」:https://inclusion-art.jp/archive/exhibition/2021/20211009-111.html
2021/10/28(木)(山﨑健太)
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN 和田ながら×やんツー『擬娩』
会期:2021/10/16~2021/10/17
京都芸術センター[京都府]
「舞台上で行なわれる行為は、すべて擬似的な再現である」という演劇の原理を忘却・隠蔽しないこと。「儀礼」という演劇の起源のひとつへと遡行すること。この2つの秀逸な交点にあるのが、『擬娩』である。「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする」という実在の習俗「擬娩」を着想源とし、演出家も含めて出産未経験の出演者たちが「妊娠・出産を身体的にシミュレートし、他者の身体に起こる変容や痛みを想像すること」が、本作のコンセプトだ。本作のもうひとつのクリティカルな核は、手垢にまみれた「感動的な出産のドラマ」を消費することを徹底して排除し、「産む性」と切り離して「妊娠・出産」という行為を極私的に想像しようとする点にある。
2019年に初演された本作は、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMNにて、出演者と舞台美術のコラボレーターを大きく入れ替えてリクリエーションされた。初演の出演者は30代の男女の俳優・ダンサー4名だったが、今回は初演の2名(うち1名は声のみの出演)に加え、公募による10代の出演者3名が新たに参加した。また、舞台美術はメディア・アーティストのやんツーが新たに担当した。筆者は初演時のレビューを執筆しているが、大きく印象が変わったリクリエーション版について、本稿では、初演との比較を行ないつつ、大幅なアップデートが見られた点とジェンダーの視点からは批評的後退と感じられた点について述べる。
出演者たちが自身の身体的特徴を列挙しながら、「個体差」のなかに次第に第二次性徴(初潮の遅さ、生理不順)が登場し、つわりの症状の多様性へと展開していく。「私のこの身体」にフォーカスしつつ、同時に匿名性を帯びる語りの並置と集積が、初演の前半部分を構成していた。一方、リクリエーション版では、出演者たちはそれぞれ、起床、着替え、朝食、通学、授業や部活、家事や仕事、帰宅、入浴、夕食、友達への電話など普段の日常生活のルーティンを同時多発的にマイムで淡々と再現していく。一周目が終わると「妊娠検査薬のシミュレーション」が挿入。「陽性反応の線が出た」出演者たちが二周目、三周目を繰り返す日常生活が次第に変容を被っていく。「つわりによる吐き気でご飯が食べられない」「階段がきつい」「部活に参加できない」「頭が重くてテスト勉強に集中できない」……。「実際にはそこに存在しないが、『ある』と仮定して振る舞う」演劇の原理に、「妊娠による体調・体形・体重・知覚の変化」というレイヤーがもうひとつ加わる、秀逸な仕掛けだ。
初演の出演者たちはプロのパフォーマーであり、嘔吐の苦しげなうめき声、膨れたお腹を抱えた歩行の困難さ、そして分娩の耐え難い痛みの表現は迫真的であった。一方、リクリエーション版の10代の出演者たちは、不快感や痛みを懸命に表現しようとするが、演技としてはぎこちなさや硬さが残る。だがその「懸命に想像しようとしているが、『リアル』に再現できない」ことのリアリティこそが、「演技としてのリアルさ」よりも『擬娩』という作品の核に迫るものだったと思う。「私に属するものであるのに、私の意思で完璧に制御できない不自由な身体の他者性」を否定せず、引きずったまま存在することこそが、「理不尽な身体的変容」としての妊娠・出産と通底するからだ。
ぎこちない身体を(文字通り)引きずる出演者たちとともに並存するのが、やんツーによる舞台美術=自動化された機械の運動だ。擬人化されたセグウェイが舞台上を徘徊し、「5人目の出演者」としてつわりや日常生活の変化を想像的に語る。ルンバが床上を旋回し、台車の上では臨月へ向かって赤い風船が次第に膨らみ、3Dプリンタが上演時間の90分をかけてゆっくりとリンゴの形を成形していく。舞台美術として効果的・多義的に作品に奥行きを与えていたのは初演の林葵衣の方だが、ドラマトゥルギーに回収されない「異物」と舞台上でどう共存するかという点から新鮮な投げかけを与えていた。
ラストシーン、初演では出演者たちは手枷をはめ、出産の国家的管理、生殖医療の高度発達や産業化、性暴力、「女性なら産むのが自然」という社会的圧力などを呪詛のように唱え続け、「管理と搾取と暴力と闘争の場」としての女性の身体をめぐる政治的力学へと一気に跳躍した。一方、リクリエーション版では、出演者たちは一列に並んで客席と相対し、「ははも ははのははも…そのまたははも はらんではるはらにはらはらしながらはるばるとつきとおか…」という言葉遊びの詩のような一節を唱和し、語感の軽やかさやリズム感も相まってポジティブな印象を残した。また、上演を通じて舞台中央にはスマホ画面を模したスクリーンが屹立し、つわりの症状緩和の検索に始まって、アドバイスのまとめサイトや出産経験を綴ったブログ、「#マタニティマーク」「#陣痛バッグ」などさまざまなハッシュタグが次々と表示され、痛みの緩和対策や便利アイテムなど妊娠・出産経験者からの膨大な助言が経験知の集合的蓄積として表示されていく。(何かに対して闘っているわけではないので「連帯」という言葉は適切ではないかもしれないが)それでもやはり経験知を共有する連帯的な場としてのネット=「現代の妊娠・出産」像を示していた。
このように何重にもアップデートされたリクリエーション版だが、最後に、ジェンダーの視点から批評的後退と感じられた2点について指摘したい。上述の「擬人化されたセグウェイ」は、「妊娠・出産から最も程遠い存在としての、性別のない機械身体」という点でポストヒューマン的な視点を切り開いたと言えるが、「女性の声」で話すことの意味や必要性がどこまで考慮されていたのか疑問が残る。「産む機械」の文字通りの実装による批判性が見えてこなかった。
また、「クライマックス」としての分娩シーンを担うのは、初演時は男優であったが、リクリエーション版では女子高校生に変更された。日常生活の再現マイムで「鼻歌を歌いながら鏡の前で楽しそうにメイクし、付き合っている彼と一緒に下校」する彼女の振る舞いは、「シスジェンダーかつヘテロセクシュアル女性であること」を強く印象づけ、出演者のなかで最も「妊娠・出産の現実的可能性が高い」人物にあえて担わせた点に疑問が残る。「他者の身体に起こったことを習俗/演劇のフレームを借りて想像的に引き受ける」ことが本作の要だが、いったん(機械を含めて)限りなく広げた想像の域を、再び「自然的性」(と想定されるもの)に閉じ込めてしまったのではないか。例えば、分娩シーンを複数人でリレー的に分担する、いっそセグウェイに演じさせてみる、などの選択肢もあったのではないかという思いが残る。
関連レビュー
したため #7『擬娩』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年01月15日号)
2021/10/17(日)(高嶋慈)