artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

新・今日の作家展2021 日常の輪郭/百瀬文

会期:2021/09/18~2021/10/10

横浜市民ギャラリー[神奈川県]

「わたしはあなたの個人的な魔女になる」。

百瀬文の映像作品《Flos Pavonis》(2021)で、遠く離れた地の知人に堕胎効果のある花を持って行こうとしたときに発せられたこの言葉を聞いたとき、自分自身のかつての経験について、まったく折り合いをつけられていなかったことがわかった。私と彼女が何を求めていたのか、そのとき、何に脅かされていたのかがわかっていなかったのだ。私が処置を提案した子が産まれ、祝福されるさまを見ていて、自己愛の強要でしかなかったかと思うと同時に、そのときに実は選択肢がなかったことを思い出す。「魔女になる」の一言がどれほどの具体的な救いであるか。船の上で堕胎手術を行なう団体の実際的な救済とはまた別に、この思想の伝播もまた救済である。

《Flos Pavonis》で女が強姦者の身体を反転させ馬乗りになり、自らの唾液でぬらした指を相手の口に押し込み、逃げる強姦者を目にした鑑賞者にとって、例えば「手籠め」という曖昧な言葉はどのような意味になりうるか。他者を圧倒的にあるいはうやむやに制したうえでの行為である。相手の自由を奪い、自己決定を無視することができる上で達するのだと提起される。そして、この地平から堕胎罪の存在を考えなくてはならないと。

本展で同時に展示された過去作《山羊を抱く/貧しき文法》(2016)。ヤギの空腹を待てば、百瀬は食紅で描いた絵をいつかヤギに食べさせることができるが、ヤギは顔をそむけ食べようとせず、百瀬との攻防が続く。百瀬がヤギを手籠めにせんとするときと、その紙を自分で食べると決めたとき。その二つの挙動が収められた作品の隣で、身体の自由を示そうとする百瀬。5年を経て、主題そのものでなく、その露悪性の経路が大きく変化したようだ。


公式サイト:https://ycag.yafjp.org/exhibition/new-artists-today-2021/

2022/05/01(日)(きりとりめでる)

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ロロ『ロマンティックコメディ』

会期:2022/04/15~2022/04/24

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

ロロ『ロマンティックコメディ』(脚本・演出:三浦直之)が5月29日(日)までの期間限定でアーカイブ配信されている(このレビューでは同作の結末に触れているので注意)。4月に上演されたばかりの本作はロロ/三浦の新境地を示す作品だ。

舞台は丘の上に建つ本屋ブレックファストブッククラブ。店主のヒカリ(森本華)とあさって(望月綾乃)はその店でかつて働いていたあさっての姉・詩歌が遺した小説の読書会を不定期に開いている。詩歌のオンラインゲーム仲間だったとなり(大場みなみ)、店の常連で詩歌とも親しかった遠足(篠崎大悟)と瞼(新名基浩)、ある事情で店を訪れる寧(大石将弘)と麦之介(亀島一徳)。彼女たちは小説の話を、詩歌の話を、そして関係があったりなかったりするさまざまな話をする。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


これまでのロロの本公演ではときに非現実的な設定も導入しつつ、舞台美術や衣装、俳優の言葉と身体によって跳躍するイメージが物語を紡いでいくタイプの作品が多かった。本作では舞台を書店のワンシチュエーションに限定し、劇中ではそれなりの時間が経過するものの基本的には淡々とした会話を通して物語は進行していく。テイストとしては本公演と並行して取り組んできた「いつ高」シリーズに近く、ロロとしての活動の幅の広さが本公演へと還元され、劇団としての成熟を見せたかたちだ。

一方、扱われているテーマは初期の作品から一貫してもいる。本作の中心にいるのは不在の詩歌であり彼女の遺した小説だが、詩歌との関係も小説との向き合い方も登場人物によってそれぞれ異なっており、詩歌や彼女の小説がひとつの像を結ぶことはない。初期の作品では主に男女間の片想いとして表現されていたこのような想像力は、本作ではより一般的な他者への思いへと拡張されている。


[撮影:伊原正美]


2021年10月に上演された前作『Every Body feat. フランケンシュタイン』でロロ/三浦は、タイトルの通りフランケンシュタイン博士と彼が生み出した怪物をモチーフに、他者の存在を自分勝手に解釈することの暴力性とその罪を描いてみせた。それは先行する作品を糧に、俳優の身体を媒介として演劇を創作すること(=怪物を創り出すこと)の暴力性と罪でもあっただろう。そう考えると、タイトルは演劇そのものを指すものとしても解釈できるだろう。フランケンシュタインは三浦自身だ。三浦は当日パンフレットに「死骸のような言葉しか書けなくなった」とさえ記していたのだった。

だが、それまでのロロのイメージを一新するダークファンタジーへの挑戦と創り手としての三浦の真摯な姿勢には感服しつつ、それでも私は『Every Body feat. フランケンシュタイン』という作品がこのタイミングで上演されたことにいまいち釈然としなかったのだ。なるほど、そこにはたしかに暴力と罪があるかもしれない。その自覚は重要だ。しかし、これまでのロロ/三浦の作品は、すでにその先を描いてはいなかっただろうか。創り手だけがそこにある思いを名指すことができると思うこともまた傲慢だ。それはいつだって受け手によって思い思いに受け取られ名づけられる。創り手であるよりも先にさまざまなカルチャーのよき受け手であった、そしていまもそうである三浦はそのことをよく知っているはずだ。


[撮影:伊原正美]


だから、『ロマンティックコメディ』の視点は受け手へと再び折り返している。小説の作者である詩歌は不在だが、読書会を通して生み出されたつぎはぎの詩歌像をヒカリやあさってが怪物と呼ぶことはないだろう。むしろ、そうして自分たちの知らなかった詩歌の一面を知ることで、ほかの人が詩歌の小説をどう読んでいたかを知ることで、彼女たちは詩歌とその小説に何度だって出会い直せるのだ。

物語の最後、偶然に店を訪れた白色(堀春菜)によって、詩歌が自身の小説をインターネット上の小説投稿サイトに投稿していたことが明らかになる。中学生の頃その読者だったという白色が店に置いてあった私家版の小説を買おうとすると、それまで求められるままに無償で詩歌の小説を譲っていたヒカリは、そのとき初めてその小説に値段をつけて売るのだった。おそらくその瞬間、ヒカリにとってはずっと詩歌の小説でしかなかったそれは独立した作品となり、同時に、ヒカリの知らない詩歌が存在していて、そのすべてを知ることが叶わないことが受け入れられたのだろう。それは少しだけ寂しく、しかしどこまでも前向きなことだ。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


7月の末には早くも次回作『ここは居心地がいいけど、もう行く』の上演が予定されている。同作は昨年完結した連作「いつ高」シリーズのキャラクターが再び登場する作品。高校演劇のフォーマットに則った60分以内の上演時間などいくつかの制約のなかでつくられてきた同シリーズだが、今回は制約を取り払ったフルサイズの新作になるという。スケールアップした「いつ高」ワールドとの再会を楽しみに待ちたい。


ロロ:http://loloweb.jp/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『四角い2つのさみしい窓』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年03月15日号)

2022/04/24(日)(山﨑健太)

藤原歌劇団「イル・カンピエッロ」

会期:2022/04/22~2022/04/24

テアトロ・ジーリオ・ショウワ[神奈川県]

神奈川県川崎市の新百合ヶ丘駅から徒歩で約5分、松田平田設計が手がけた昭和音楽大学の《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》(2006)に足を運び(室内音響は永田音響が担当)、オペラを鑑賞した。ここは初めて訪れたホールだったが、とても良い空間だった。外観のファサードは特筆すべきことがないが、内部が昔のヨーロッパの劇場の雰囲気と似ている。歌手の声がダイレクトに伝わる約1,300席というこぢんまりとしたサイズ、そして本場の伝統を踏まえた馬蹄形による客席の配置は、上階の席であっても舞台との一体感が強い(ここまではっきりとした馬蹄形は日本に少ないように思われる)。前後左右の座席の並びも余裕がある。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場や新国立劇場のオペラパレスは、全体のサイズが大き過ぎる一方、座席は窮屈だ。またエントランスの向かいに別棟としてカフェ・レストランを設置する組み合わせも効果的だろう。残念ながら、訪問時はコロナ禍のせいか休憩時間に閉まっていたが、もしここと劇場とあいだの屋外空間が使えるならば、気持ちが良い体験になるだろう。



《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》のエントランス



《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》の客席




《テアトロ・ジーリオ・ショウワ》 客席から舞台へ


さて、エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ作曲のオペラ「イル・カンピエッロ」は、初めて聴く庶民喜劇だったが、出演者の歌も巧く、素晴らしかった。1936年に初演ということは、決して革新的ではなく、音楽史に名前が刻まれにくい作品である。しかし、ガスパリーナのへんてこな発音(方言を使いこなす近代喜劇の祖、原作者のカルロ・ゴルドーニによるもの)の歌など、コミカルかつ過剰なフェッラーリの曲が楽しい。物語はヴェネツィアの「小さい広場」(タイトルはこれを意味する)とそれを囲む街並みで展開されるのだが、舞台美術のスケール感と一致していたことも興味深い。したがって、確かに、これくらいのサイズの空間だと思い出しながら、物語の世界に没入することができた。そして郷愁あふれるラストの曲「さようなら、愛しのヴェネツィア」の歌詞も気に入った。生まれ育った広場を醜い場所とは言いたくない、大好きなものこそ、美しいものといったフレーズがある。以前、筆者が上梓した景観論『美しい都市・醜い都市 現代景観論』(中公新書ラクレ、2006)とも響きあう考え方だったからだ。

2022/04/24(日)(五十嵐太郎)

居留守『不快なものに触れる』

会期:2022/04/22~2022/04/24

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

小劇場THEATRE E9 KYOTO、京都舞台芸術協会、大阪現代舞台芸術協会(DIVE)の協働事業として開催されたショーケース企画「Continue 2022」。京都と大阪の若手・中堅の3団体が上演を行なった。本稿ではそのうち、居留守『不快なものに触れる』に絞って取り上げる。

演出家・山崎恭子の個人ユニットである居留守は、小説や評論など戯曲以外のテクストの引用・コラージュをベースに、インスタレーション的な舞台美術と俳優の身体表現によって演劇を立ち上げる試みを行なってきた。本公演は、2021年3月に初演された『不快なものに触れる』のリクリエーションである。筆者は初演版を実見しているが、上演テクストと舞台美術が大きく変更された。コロナ禍が始まって数カ月後の初演版では、災害時などに身体の保温や防風・防水に用いられるエマージェンシーシートという素材で「家=シェルター」が作られ、中盤以降はパフォーマーがその中からモニター越しに発話する点が大きな特徴だった。リクリエーション版では、この「家=シェルター」をなくしてシンプルに削ぎ落とすことで、「両眼のアップを映し出すスマートフォン」という仕掛けの多義性がより鮮明に浮かび上がったと思う。

冒頭、3名のパフォーマーが登場し、三脚を組み立て、両眼の高さの位置にスマートフォンをセットする。観客に向けられた液晶画面には、3名それぞれの両眼のアップが映し出される。パフォーマーはちょうど眼の位置が重なるようにスマートフォンの後ろに立って発話するため、「両眼を隠された匿名性/凝視する眼差し」という奇妙な両義性が同居する。彼らが次々に口にするのは、美容、アンチエイジング、ダイエット、英会話アプリ、ゲームアプリで副業、不安を解消し成功に導くメンタルメソッドなど、さまざまなネット広告の謳い文句だ。「ズボラ女子の私が1カ月でマイナス20kg!」「大学生に間違われる48歳、浮気を疑う夫が続出!」「今すぐ友だち登録で無料!」……。次々と広告が表示され続けるスマートフォン画面を追うようにキョロキョロとせわしなく動く眼。それは、発話主体が曖昧であるにもかかわらず、私たちに強力に注がれる消費資本主義の監視の眼差しであり、「幸福度」「他者からの承認」を競い合うSNSの相互監視網であり、「目指すべき理想像」を演じようとする仮面的自己である。同時に、上演のメタレベルでは、この「観客を見つめ返す眼」が視線の非対称性を反転させ、私たちも監視網から逃れられない存在であることを居心地悪さとともに突きつける。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


やがて発話内容は、溢れる広告やSNSに対する反省的思考へと移る。コンプレックスを刺激し自己嫌悪をあおる広告に自分の身体を明け渡してしまい、もはや身体が自分のものだと言えないこと。自分が食べたいからそのメニューを選んだのか、SNSに投稿したいから選んだのかわからなくなり、欲望をコントロールされないようにSNSの投稿を止めたこと。自己承認欲求を満たすためにSNSに書き込むのではなく、友人たちに直接会って人生の転機を伝えたいこと。パフォーマーたちは後ずさって「監視の眼=仮面的自己」から身を引き剥がし、スマートフォンに拘束された窮屈な身体を脱しようともがき、監視と支配に対する抵抗の身振りを示すが、何度も引力圏に引き戻されてしまう。



[撮影:中谷利明]


後半、パフォーマーたちが語る姿は、スマートフォンの動画撮影を介してスクリーンに入れ子状に映し出される。主体的な意志表示のためのツールに変えようという姿勢が示される一方、観客に直に向き合って言葉を届けるのではなく、スマートフォンが介在したままであり、「映像と生身の身体のズレ、分裂、多重化」を示して両義的だ。



[撮影:中谷利明]


そして、「質問回答を操作する認知バイアス」「自分の容姿の自信に対する内閣府の調査結果」についての言説を挟み、「女の子らしさ」の枠組みを押し付ける社会構造への疑問を経て、ラストシーンでは、パフォーマーそれぞれが、他者に押し付けられたものではない、「自分にとっての幸せ」を観客に対面して語る。さまざまなテクストのコラージュを経て、自分自身の言葉を取り戻そうとする道程。語り終えたあと、最後に1台残ったスマートフォンの画面をそっと消して「見開いたままの眼を閉じさせる」パフォーマーの仕草は、「消灯」とは裏腹に、小さな希求を灯すように見えた。

2022/04/23(土)(高嶋慈)

ウィリアム・ケントリッジ演出 オペラ「魔笛」

会期:2022/04/16~2022/04/24

新国立劇場[東京都]

モーツァルトのオペラ「魔笛」(1791)は、卒業論文でとりあげた18世紀の建築家ジャン・ジャック・ルクーがフリーメーソンの入会儀式の空間を構想し、ドローイングを描いていたので、個人的に強い関心をもつ作品である。ルクーは「魔笛」から影響を受けたのではなく、両作品の元ネタだった『セトスの生涯』(1731)という物語を読んでおり、いずれにも火や水の試練の場面が登場する。筆者はヨーロッパで二回、日本では勅使川原三郎が演出し、闇と光、リング群というシンプルな舞台美術に佐東利穂子らのダンスとナレーションを加えたものや、宮本亞門によるロール・プレイング・ゲーム的な世界観に変容させたものを観劇したことがあったが、今回は手描きアニメーションで知られるウィリアム・ケントリッジのバージョンということでチケットを購入した。はたしてアーティストや建築家が舞台美術を担当することはめずらしくないが、演出にまで関わるのはどういうことなのか。彼はほかにもいくつかのオペラを演出しているが、2005年の「魔笛」は最初の大規模なオペラ作品だった。

幕が上がると、手描きアニメの映像プロジェクションを多用し、想像していた以上にケントリッジらしい世界が展開されていた。さらにカメラの構造、遠近法、エジプトや古典主義の建築、かつて新古典主義のドイツ建築家カール・フリードリヒ・シンケルが「魔笛」のためにデザインした舞台美術(特に夜の女王の登場シーン)への参照、6層に及ぶレイヤーによる奥行きなどを駆使し、視覚的にとてもにぎやかである。こうした過剰な表現や西洋美術史の引用は、ピーター・グリーナウェイの映画を想起させるだろう。ともあれ、建築系にもおすすめのオペラだった。驚かされたのは、ピアノの追加である。オペラの演出では、曲そのものを改変できないが、曲と曲のあいだに新しい要素を挿入することは可能だ。もっとも、それは会話や演技だったり、ナレーションだったりで、通常、音楽はあまり加えないはずである。だが、ケントリッジの演出では、ピアノによる別の曲も追加されていた。これは専門的な演出家だと、逆にやらない、異分野だからこその大胆な演出ではないかと思えた。



新国立劇場「魔笛」より [撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場]

2022/04/18(月)(五十嵐太郎)