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KYOTO EXPERIMENT 2019|久門剛史『らせんの練習』

2019年11月15日号

会期:2019/10/20

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

サウンド、光、立体を繊細に組み合わせて場所に介入し、時に自然現象さえ想起させる詩的なインスタレーションをつくり上げてきた久門剛史。KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで世界初演されたチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』で舞台美術と音を担当した経験を経て、自身初となる劇場作品を発表した。

観客は、バックステージの通路を通り抜けて、通常は「舞台」である空間に身を置いて鑑賞する。ゆっくりと暗闇に包まれると、前方で小さな光が瞬き始める。ガラスの球体の中で呼吸するように瞬くその光は、夜の海に浮かぶ夜光虫の群れのようだ。やがて空間を覆っていた「幕」が上がり、整然と並ぶ空っぽの椅子が現われ、観客はこの「舞台」へと反転された「客席」と対面して時空の旅人となる。客席にはスタンドライトが置かれて灯り、それは孤独な街灯を遠くから眺めているようにも見え、室内にいるのか、屋外なのかの感覚が曖昧になっていく。この知覚の攪乱は、「音」のレイヤーによってさらに増幅される。反復される電話の呼び出し音。ひぐらしの声。遠雷の響き。踏切の音。水滴の滴り。何かが落ちて壊れる音。コップに水を注ぐ音は、増幅され、激しい水流が部屋の中に侵入してきたような錯覚を与える。人工/自然、室内/屋外の境界が曖昧になり、音の遠近感が攪乱され、次第にカオティックに、暴力的になっていく音の洪水。それは、明滅するストロボ光や激しいフラッシュと相まって、知覚した刺激を情報としてうまく処理できない知覚過敏や精神病患者の世界を疑似体験しているようにも思える。一方、ピアノの鍵盤を叩いて一音ずつ確かめる「調律師」の登場は、この無秩序でカオスの氾濫した世界に、再び「秩序」を取り戻そうとする調停者の象徴だろう。

カオスの氾濫と、秩序の回復への希求がせめぎ合う世界。だが中盤では、「舞台」の床の上をスモークが覆い、たなびく雲海や、霧の立ち込める冬の澄んだ湖面を思わせる。また、「客席」から宙に浮いたカーテンは、風にはためきながら、「落ちる雨だれの音」と同期して広がる光の輪が投影されるスクリーンとなる。こうした「自然現象(の疑似的な抽出)」は、「暴力的であることと美しいことは矛盾しない」という言葉を発する。ただ、時報とともに断片的に流れる「台風の影響による道路情報」のアナウンスは、直近の台風19号の被害を直截的に連想させる点で、生々しい現実の侵入が緻密な構築世界を壊しかねない危惧を感じたが、特定の災害への言及というよりは、(無数の)自然災害の記憶へのトリガーと解するべきだろう。



[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]




[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]


ラストシーンでは、はるか高みの客席の天井から無数の紙片が落下し、舞い散る吹雪のようにも、文明の象徴としての書物の解体が暗示する人間世界の終末をも感じさせた後、再び暗闇が覆い、ガラスの球体の中で小さな光が瞬き始める。ひとつの宇宙の消滅さえ感じさせる大きな破壊の後で、原初の生命が(再び)誕生する瞬間を目撃するかのようだ。タイトルの「らせん」とは、一周した輪が閉じて完結するのではなく、少しズレながら、新たな時空上で再びループを描いていく、終わることのない反復構造を意味している。



[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]


美術・映像作家が手掛ける舞台作品、とりわけ劇場の物理的機構それ自体を俎上に載せ、(ほぼ)無人劇と音や光の緻密な構築によって、一種の「劇場批判、上演批判」と幻惑的なイリュージョンの発生の両立をはかる手法は、例えばアピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』や梅田哲也の『インターンシップ』などとも通底する。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/


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