artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

金川晋吾『いなくなっていない父』

発行所:晶文社

発行日:2023/04/25

本書の著者・金川晋吾(1981-)は、いまから7年前に写真集『father』(青幻舎、2016)を刊行した。同書は、著者が子どものころから失踪を繰り返してきたという父親を被写体とした作品であり、刊行後さまざまなメディアで取り上げられるなど、大きな反響をよんだ。しかしその父親も、金川がこの作品を撮りはじめた2008年と2009年に一度ずつ失踪したきりで、それ以後は一度も失踪していないという。本書『いなくなっていない父』は、『father』の後日譚に相当するここ数年の記録であるとともに、『father』で定着してしまった「失踪を繰り返す父」というイメージを、作家みずから払拭することを試みたエセーである。

かつて、わたしが『father』を読んだときに何より驚かされたのは、当の写真に続く長大な「日記」の存在だった★1。そこでは、作家がこの作品を撮りはじめるにいたった理由が独白的に語られるのではなく、父親の蒸発、借金、転居、そして兄や弁護士との会話をはじめとする撮影中の出来事が克明に記述されていた。わたしがそこで得た直観は、これを文字通りの、つまり撮影の日々からそのまま垂れ流された日記として読むべきではない、というものだった。この写真集の一部をなす「日記」は、単なる作品解題でもなければ、その詩的なパラフレーズでもない、ひとつのすぐれた散文作品である。果たして『father』の刊行後、この作家の例外的な文才は、文芸誌などのさまざまな媒体で発揮されることとなった。

その筆力は、本書『いなくなっていない父』においても遺憾なく発揮されている。著者は、とくに奇をてらったことを書いているわけではまったくない。むしろ本書は、家族をめぐって、あるいはかつての『father』という作品をめぐって、おのれが経験したこと、あるいはそこで考えたことを、ただ淡々と記録しているといった風情の散文である。だから、本書を一読したときの印象は、『father』のそれと同じく「日記」に近い。にもかかわらず本書が強い印象を残すのは、文章による観察と記録の水準が、一般的なそれと比べて著しく際立っているからだろう。

本書は、写真家が作品を通していちど定着させたイメージ(=「失踪を繰り返す父」)を、文章によって払拭する(=「いなくなっていない父」)という試みとしても、きわめて興味深い。芸術作品──とりわけ写真作品──というのは、往々にして対象の生をひとつのかたちに固定しがちである。むろん、これを回避するために、同じ被写体を数年、数十年のスパンで継続的に撮影する写真家もいる(A1, A2, A3…)。これに対して本書は、かつてのイメージ(A1)を新たなイメージ(A2, A3…)によって更新するのではなく、それとまったくオーダーを異にする文章(B)によって複層化しようとする稀有な試みである。すくなくとも本書は、写真家の単なる余技とみなされるべきではなく、みずからの作品に対して明確に「修復的な」(イヴ・セジウィック)アプローチをとった、ほとんど類例のない営みと見るべきであろう。

★1──『father』における「日記」の重要性については、かつて次の雑誌に寄せた短文でもふれたことがある。『IMA』Vol.20(特集:写真家と言葉)、2017年、72頁。

2023/07/24(月)(星野太)

田中大輔「淵を歩いて」

会期:2023/07/22~2023/08/13

金柑画廊[東京都]

田中大輔の新作を見て、牛腸茂雄の「幼年の『時間(とき)』」を思い起こした。牛腸は生前の最後の写真集となった『見慣れた街の中で』(1981)を刊行後、以前から撮り続けてきた「子ども」の写真をまとめようとしていたが、未完に終わり、遺作として『日本カメラ』(1983年6月号)に6点の作品のみが掲載された。牛腸が「子どもの『時間』体験は、『いのち』そのものだから、その拡がりや脹らみや深さにおいて、目を見張るものがある」と書き残しているのと同じような感触を、田中の「子ども」の写真にも感じたのだ。

だが、牛腸の連作が「子ども」のポートレート(ほとんどがカメラと正対した)であるのに対して、田中は風景や事物の写真をそのあいだに挟み込んでいる。つまり、牛腸は自分と「子ども」たちとの一対一の関係を写真に刻みつけているが、田中の視線の幅はもっと大きく、彼自身を含む社会的現実をも写真に取り込もうとしているのだろう。

もうひとつ、注目すべきことは、本作が田中にとっては初めてのモノクローム作品であるということだ。田中は2016年に第15回写真「1_WALL」でグランプリを受賞しているが、受賞作も含めて、繊細に色味をコントロールしたカラー写真で作品を発表してきた。その田中がモノクロームを使い始めたのは、「子ども」と彼らを取り巻く環境をシンプルに、構造化して捉えるのには、そちらのほうがいいと判断したためではないだろうか。その試みは、とてもうまくいっていた。まさに「拡がりや脹らみや深さ」を備えた写真シリーズが、形をとりつつある。


公式サイト:https://kinkangallery.com/exhibitions/3091/

2023/07/23(日)(飯沢耕太郎)

大橋仁『はじめて あった』

発行所:青幻舎

発行日:2023/04/10

デビュー作の『目のまえのつづき』(青幻舎、1999)から24年、「奇書」というべき大作『そこにすわろうとおもう』(赤々舎、2012)から10年余り、大橋仁の新作写真集『はじめて あった』が出た。

冒頭の波と空のカットから、いかにも彼らしい息継ぎの長いシークエンスの写真が続く。女性との性愛の場面、「パンティの森」と昆虫のクローズアップ、やがて母親と義理の父(『目のまえのつづき』の主要登場人物)が現われ、その生と死が、過去作も含めて綴られていく。さらに、渋滞中の車の中のドライバーたちを執拗に写したカットが続き、打ち寄せる波の写真で締めくくられる。

こうしてみると、大橋がいつでも「私は自分の中のはじめてに会いにいく」という姿勢を貫いて、被写体と接してきたことがよくわかる。「目のまえ」に走馬灯のようにあらわれては消えていく「私という幻私という現実」は、カメラを向けることによって、はじめて手応えのある確固たる存在としてかたちを成し、それらを連ねていくことで、確信を持ってそれらが「はじめて あった」と言い切ることができるようになる。そのような、彼自身の写真家としての基本姿勢を、大橋は本作を編むなかであらためて確認していったのではないだろうか。この「母の死とパンティと昆虫」の写真集には、なにかを吹っ切ったような、突き抜けた明るさが感じられる写真が並んでいた。

関連レビュー

大橋仁『そこにすわろうとおもう』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年01月15日号)

2023/07/19(水)(飯沢耕太郎)

伊奈英次 作品展「国の鎮め ─ヤスクニ─」

会期:2023/07/04~2023/07/30

JCIIフォトサロン[東京都]

伊奈英次は全国各地の天皇陵を撮影した写真集『Emperor of Japan』(Nazraeli Press)を2008年に、靖国神社に蠢く群像を中心にカメラを向けた『YASUKUNI』(Far East Publishing)を2015年に刊行している。彼自身、長く関心を寄せてきた日本の天皇制のあり方を、「形」と「中身」の両面から問い直す意欲作といえるだろう。今回のJCIIフォトサロンの個展では、後者の拡大版ともいえる写真群58点を展示していた。

東京・九段の靖国神社はかなり特異な空間といえる。「英霊」を祀ったその場所は、右翼、天皇制信奉者、軍装マニアなどの聖地であり、異様な熱気が渦巻いている。伊奈は「靖国戦友会」「昭和天皇崇敬会」「軍装会」といった集団の構成員、あるいは「元自衛官と軍歌歌手」「異議申し立てのパフォーマー」といった奇妙なバイアスがかかった人物たちにカメラを向ける。その視点は全面肯定でも、逆にネガティブな違和感を強く打ち出すものでもない。彼らの滑稽さ、グロテスクさを暴き立てることなく、まずはしっかりと受け止め、絶妙な距離感を保って視線を投げ返している。結果として本作は客観性と主観性とがせめぎ合った、希有な人間=集団ドキュメントとして成立した。

伊奈がこのシリーズを撮影した1993-2005年頃と比較すると、現在では靖国神社側の規制が強まり、旧日本軍兵士や軍装マニアのパレードのような行事も行なわれなくなっているという。その意味では、本作はバブル崩壊後の平成時代という、特定の時期の空気感を色濃く体現したシリーズともいえるだろう。現在ではプライヴァシー保護の問題などもあり、人間=集団ドキュメントそのものが、撮りにくくなってきている。本作のような、現代の「社会的人間」のあり方を、写真を通じて探求する試みをもっと見てみたいのだが。


公式サイト:https://www.jcii-cameramuseum.jp/photosalon/2023/05/22/33356/

関連レビュー

伊奈英次『YASUKUNI』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年10月15日号)

2023/07/16(日)(飯沢耕太郎)

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川口翼「心臓」

会期:2023/07/06~2023/07/30

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

川口翼は2022年度の第二回ふげん社写真賞のグランプリ受賞者。この度、審査員の一人でもある町口覚の造本設計による写真集『心臓』(ふげん社)が完成し、そのお披露目も兼ねた写真展が開催された。じつは筆者もまた審査を担当したのだが、昨年の応募作と今回の写真集、写真展の作品とのあいだの落差に、いい意味で驚きを禁じえなかった。

「回転のよすが」というタイトルだった応募作は、表現意欲にあふれる大作だったが、なにもかも詰め込もうとして、なにを言いたいのか伝わってこないもどかしさがあった。また、森山大道や鈴木清のような、彼が強い影響を受けた作家たちの表現を、「スタイル」として取り込むことに精一杯で、肝心の彼自身の写真の方向性が見えにくくなっていた。それが、1年をかけた写真集の制作過程で、削ぎ落としの作業を進めたことで、すっきりとした内容に仕上がった。また、色調がマゼンタに傾く壊れたカメラで撮影したという、ややノスタルジックな雰囲気のモノクロームのパートと、新たに撮影したカラー写真のパートとがうまく絡み合って、過去と現在と未来が、「集合的記憶」として提示される、より膨らみのある作品世界ができあがってきていた。赤い縁をつけた大小の写真をちりばめた写真展のインスタレーションも、とてもうまくいっていたのではないだろうか。

川口は写真集の表紙裏に掲載したテキストで「僕には、写真を何かを表現するためのツールや手段に貶めたくないという青臭い志がある」と書いている。「写真は写真として始まり、写真に化け、何事も語らぬまま一切の形容を拒否し続け、写真として終わって欲しい」というのだ。このような、1999年生まれの若者としてはやや古風なほどの「志」が、今後の彼の写真家としての活動のなかで、そのまま維持されていくのか、それとも少しずつ変わっていくのかはわからない。だが今回の展示と写真集が、「日本写真」の系譜に連なる、新たな世代の表現者の誕生を告げるものとなったことは間違いないだろう。


公式サイト:https://fugensha.jp/events/230706kawaguchi/

関連レビュー

川口翼「夏の終わりの日」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年09月15日号)
川口翼「THE NEGATIVE〜ネ我より月面〜」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年04月01日号)

2023/07/15(土)(飯沢耕太郎)