2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

村上仁一『地下鉄日記』

発行所:roshin books

発行日:2020年

村上仁一(むらかみ・まさかず)は、2008年から写真関係の出版社に勤めるようになり、地下鉄を利用するようになった。この写真集は、その通勤の途中で撮られたモノクロームのスナップ写真を中心にまとめたものである。とはいえ、地下鉄以外の写真もかなり含まれていて、いわば「地下鉄通勤者の心象風景」というべき写真集になっている。

地下鉄の写真といえば、ウォーカー・エヴァンズが1938〜1941年にニューヨークの地下鉄の乗客を隠し撮りし、のちに写真集『Many Are Called』(1966)としてまとめたシリーズを思い出す。荒木経惟も1963〜70年に地下鉄の乗客を撮っていて、写真集『SUBWAY LOVE』(IBCパブリッシング、2005)を出版している。彼らの関心が、地下鉄の車内の乗客のどこか虚な、「無意識の」表情に向けられているのに対して、村上がこの『地下鉄日記』で引き出そうとしているのは、むしろ彼自身の内なる感情であるように見える。あとがきにあたる文章で、「いつからか私は、そんな浮き沈みのある自分の精神状態に向けてシャッターを切るようになっていった」と書いているのは、そのことを言おうとしているのではないだろうか。

その「自分の精神状態」の基調となっているのは、「深い憤り」である。といっても、何か特定の対象に向かうものではなく、脈絡のない、漠然とした、不安や哀しみと混じり合った感情の塊というべきものだ。そんな鬱屈感は、ストレスの多い現代社会に生きる誰もが抱え込んでいるものだが、いざ表現しようとすると、なかなかうまくいかないことが多い。たまたま村上は、編集者であるとともに、かつて第16回写真『ひとつぼ展』(2000)や、第5回ビジュアルアーツフォトアワード(2007)でグランプリを受賞したこともある、優れた資質を備えた写真家でもあったがゆえに、それをとても的確に引き出すことができたということだろう。

写真集のページをめくっていくと、どこか身に覚えがある光景が、次々に目の前にあらわれてきて、自分も地下鉄に乗って移動しているような気分に誘い込まれていく。

関連レビュー

村上仁一「雲隠れ温泉行」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年09月15日号)

村上仁一『雲隠れ温泉行』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年07月15日号)

2020/05/11(月)(飯沢耕太郎)

没後50年・三島由紀夫へのオマージュ展 人形作家・写真家 石塚公昭「椿説 男の死」

会期:2020/05/07~2020/06/07(会期延長)

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

石塚公昭は人形作家として活動しながら、写真作品を発表している。自作の人形を背景となる風景に嵌め込んだり、合成したりして、彼自身の文学的イマジネーションから発想した場面を構築していく。このところ、日本画や浮世絵を思わせる「影のない画像」を手漉き和紙にプリントしたシリーズを集中して制作してきた。今回のふげん社での個展では、没後50年ということで、三島由紀夫をテーマにした作品をまとめて発表した。

三島由紀夫は1970年に自死する前に、死の場面を自ら演じて篠山紀信に撮影させていた。それらは『男の死』と題して薔薇十字社から刊行予定だったが、『血と薔薇』に発表した《聖セバスチャンの殉教》など数点を除いては、結局未刊のままに終わった。今回の石塚の「椿説 男の死」は、その三島の意思を石塚なりに受け継ごうとした試みに思える。『からっ風野郎』、『黒蜥蜴』、『昭和残俠伝・唐獅子牡丹』など、三島のオブセッションを石塚なりに味つけ、膨らませて、画面の細部にまで気を配って構成している。新作の、三島が死の前年に演出した『椿説弓張月』に登場する武藤太を聖セバスチャンになぞらえた作品など、むしろ三島の発想をさらに拡張する試みもある。石塚がこれまで20年以上にわたって手がけてきた「作家・文士」シリーズの集大成といえる展示だった。

石塚によれば、既存の作家や画家だけでなく、肖像画や写真が残っていない架空の人物にまでテーマを広げていく構想もあるようだ。中国唐代の奇僧「寒山拾得」をもとに制作するとも話していた。それも面白いのではないだろうか。より自由にイマジネーションを広げていくことで、彼のユニークな作品世界が次の段階に進んでいくのではないかという予感がある。

関連レビュー

石塚公昭「ピクトリアリズム展Ⅲ」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年06月15日号)

深川の人形作家 石塚公昭の世界|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年06月15日号)

石塚公昭「ピクトリアリズムII」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年06月15日号)

2020/05/09(土)(飯沢耕太郎)

日本初期写真史 関東編 幕末明治を撮る

会期:2020/03/03~2020/05/24

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

新型コロナウイルス感染症の拡大によって、多くのギャラリー、美術館での展示が休止になっている。本展も、現時点では再開のめどが立っていない(*本稿執筆後、2020/12/1〜2021/1/24に会期を変更して開催することが発表された)。いくつかの展覧会では、実際に展示を観ることができない観客のために、オンラインによるライブ映像を配信し始めた。本展でも、学芸員の三井圭司による展示解説を東京都写真美術館のホームページから見ることができるので、それをもとにしてその内容を紹介したい。

東京都写真美術館では、2007年の「夜明け前 知られざる日本写真開拓史 関東編」を皮切りに日本の初期写真を展示する連続展を開催してきた。2017年にその「総集編」展が開催され、同企画は一応完結するが、その後も調査が進められ、今回の「日本初期写真史 関東編 幕末明治を撮る」の開催に至った。

三章構成で、第一章「初期写真抄史」では、ヨーロッパで発明されたダゲレオタイプ、カロタイプ、湿板写真の日本への移入の過程、遣欧使節団団員たちのポートレート撮影などが辿られる。昨年の水害で大きな被害を受けた川崎市市民ミュージアム所蔵の、1851~52年頃にハーベイ・ロバート・マークスがサンフランシスコで撮影した漂流船員のポートレート(日本人が写された最初の写真)が、無事展示できたのはとてもよかった。

第二章「関東の写真家」では、風景・風俗写真を手彩色のアルバム仕立てにした「横浜写真」をはじめとして、明治以降の関東一円での写真普及の状況について概観する。第三章「初期写真に見る関東」は、主に明治期以降の写真を扱うが、その目玉になるのは、オーストリア人写真家、ライムント・フォン・シュティルフリートが横須賀製鉄所(造船所)を視察に訪れた明治天皇一行を隠し撮りした《天皇陛下と御一行》(1872)である。1873年の公式撮影前に天皇を撮影した貴重な記録写真だが、オーストリア公使によって頒布を差し止められたので、写真印画はほとんど残っていない。明治大学図書館所蔵のこの写真の実物を見ることができる機会がなくなったのは、とても残念だ。

全体的に、日本の写真の発祥の地となる関東地方を舞台にした写真術の広がりを丁寧に追跡し、貴重な写真とテキストで跡づけた充実した内容の展覧会になっている。三井圭司のライブ配信による解説もよくまとまっているが、やはり写真に近づいてじっくりと細部を見たいという気持ちが強くなってしまう。ライブ配信では、もう少し作品そのものを見せる時間を、長くとったほうがいいのではないだろうか。

関連レビュー

総合開館20周年記念 夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 総集編|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2017年06月01日号)

総合開館20周年記念 夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 総集編|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年04月15日号)

夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 四国・九州・沖縄編|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年04月15日号)

夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史II 中部・近畿・中国地方編|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年04月15日号)

2020/04/30(木)(飯沢耕太郎)

隔離式濃厚接触室

会期:2020/04/30~無期限に延長

「1人ずつしかアクセスできないウェブページ」を会場とするオンライン展覧会。会期は、「4月30日の24時間」限定(ただし、いったん「会期終了」後、「無期限」に変更されている)。本展では、企画者であるアーティストの布施琳太郎と、詩人の水沢なおの作品が展示されている。

美術でも舞台芸術でも、コロナ禍で発表の場が奪われたことの代替手段として「オンライン公開」「バーチャルツアー」「無観客での配信」「Zoomを活用した演劇」などさまざまな試みが行われている。本企画がそれらと一線を画する点は、「オンライン=アクセスの平等性とシェアの思想」を無批判に是とする態度に対する批評的距離である。他人との「濃厚接触」を避け、「ソーシャルディスタンス」を適切に保つため、ひとりずつなどの「入場制限」が課される。そうした現実空間における物理的制約を、「アクセスの平等性が保証されている」はずのオンライン空間に戦略的に持ち込み、反転させること。そこでは、私の「鑑賞の自由」は、見知らぬ誰かの「排除」「鑑賞の不自由」と表裏一体である。あるいは、私の「鑑賞の自由」を阻害する入室者がいても、互いに匿名的存在であり、「排除された誰か」の姿もその数もうかがい知ることはできない。制約と不可視性に根ざした本展の意義は、「社会的隔離」を「ネットによるつながり」によって回復し癒すのではなく、むしろ「分断」を生むという屈折した回路によって「ネットと公共性」の議論を喚起しつつ、「(無数の)他者の排除によって成り立つ自由」という倫理的課題を突きつける点にある。

筆者は4月30日、会場URLを何十回とクリックしてアクセスを試みたが、その都度「他の鑑賞者が展覧会を鑑賞しているため、アクセスできませんでした」というエラーメッセージが表示され、見られなかった。だが、「見られなかった」こともまた、本展のコンセプトに鑑みると、それもまたひとつの鑑賞体験と言えるのではないか。ここで比較対象として想起されるのは、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域内で、2015年3月11日から開催されている「Don't Follow the Wind」展である。現実空間/オンラインという差異はあるものの、放射能汚染/コロナ禍という外的要因によって、「展覧会」の鑑賞のあり方そのものが変容を被ること。物理的制限を課されつつ、想像のなかで体験すること。そこには、「展示内容」だけでなく、「実際にアクセスできた鑑賞者とできなかった鑑賞者とのあいだに生まれる分断」「共有の不可能性」、そして「私の占有と引き換えに排除された(無数の、不可視の)他者について想像すること」も含まれている。

(追記:会期が「無期限」に延長後の5月3日に、アクセス成功。詳述は控えるが、「オンライン=共有」を徹底して拒む仕掛けにより、「鑑賞体験の一回性・個別性」「隔離と監視」についての問いが、凍結した世界とともに展開[転回]する。死にうっかり触れたような感触を、水沢の詩が、対極の性殖へとじっとり湿らせていく)


公式サイト:https://rintarofuse.com/covid19.html

2020/04/30(木)(高嶋慈)

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』

発行所:大福書林

発行日:2020/1/15

本書は、1990年代に台頭した若い女性写真家を中心に、「写真ブーム」を引き起こした潮流──写真評論家の飯沢耕太郎が「女の子写真」と名付けた潮流──を対象とし、代表的写真家のひとりである長島有里枝が、性差を自明なものとするカテゴリー化とそれが内包するジェンダーの不均衡な権力構造の再生産について、徹底した批判的検証を加えるものである。長島は武蔵大学大学院人文科学研究科社会学専攻に社会人枠で4年間通い、修士論文に加筆修正したものが本書である。

章立ては主に時系列順で構成され、「女の子写真」のパイオニア的存在とされる長島の1993年のデビュー、95年のヒロミックス登場を経て、90年代後半にかけて「突然」ブームが出現したのではなく、その「前史」にあたる90年代初頭に、若手女性写真家の台頭がすでに見られたことを掘り起こす作業から始まる。具体的には、1990年と91年に、初めて2年連続で女性写真家が木村伊兵衛写真賞受賞を果たしたことだ。長島は、「ブーム」を時代的な連続性の下で捉え直す視座に立ちつつ、受賞の選評、雑誌や新聞の(大半が男性による)言説を検証し、露骨なジェンダーバイアスや性差別的な眼差しの偏向、論理的破綻を暴いていく。

男性論客による「女の子写真」の言説に対する批判は、ヒロミックスについての言説を分析した4章が中核となる。そこでは、ヒロミックス特集を組んだ『スタジオ・ボイス』1996年3月号の扉に掲げられたマニフェスト「僕らはヒロミックスが好きだ。」がきわめて象徴的なように、「僕ら」=異性愛の男性の視点から、自らの欲望に奉仕するものとして一方的に語り、言説によって飼い慣らそうとする植民地的暴力が糾弾される。飯沢の論調に顕著な「自己中心的」「軽やか」「技術的な未熟さ」といった語り口は、一方でそれを「男性写真家にはない魅力」として称賛しつつ、実質的にはホモソーシャルな連帯とその背後にあるミソジニーの強化にすぎない。また、「女の子写真=技術的未熟さ」の前提とされる「コンパクトカメラなど機材の簡易軽量化」「カメラ機能付き携帯電話の普及」といった言説にも、長島は検証を加える。例えば、長島自身はデビュー当時から一眼レフカメラを使用しており、アンソロジー写真集『シャッター&ラヴ Girls are dancin’ on in Tokyo』(INFAS、1996)に紹介された写真家16名のうちコンパクトカメラで撮影した作品を掲載しているのは2、3名にすぎないこと、また若手写真家登場のピークが97、8年であるのに対し、「携帯電話・PHSの普及率が人口の50%を超えたのは2000年末」という総務省のデータを対置させる。

「未熟で傷つきやすく、(機械にも)弱い『女の子』は、安全で魅力的な庇護の対象であり、支配・所有が可能である」。男性論客たちの言葉遣いの端々には、性差に加え年齢差がはらむ権力関係の隠蔽、自己防衛、覇権争い、父権的構造が、巧妙に埋め込まれている。それらは(恐らく)無自覚だからこそ、より深刻である。またその最大の弊害は、女性写真家の表現が同世代の多くの女性の共感を呼び、「自分にもできる」というエンパワーメントを与えた面を取りこぼしてしまうことにある。

本書を通して長島は、ジェンダー・スタディーズ、とりわけジュディス・バトラーを参照し、身体的性差を唯一の基準とする二元的なジェンダー区分の自明さに疑義を呈する立場から、「女の子写真」というカテゴリー化の自明性と飯沢が論拠とする「女性原理」を切り崩していく。その先に賭けられているのは、「女の子写真」として不当に他者化・周縁化された語りを主体的にどう取り戻すかという企てだ。長島は、同時代的潮流として第三波フェミニズムに着目し、「ガーリーフォト」として記述し直すことを試みている。

本書の問題提起の射程は、90年代日本における女性写真家をめぐる言説だけにとどまらない。それは、写真界のみならず日本社会の男性中心主義が、「若い女性」をいかに抑圧/消費しているかの証左であり、「表現/語りの主体とジェンダー」という広範な問い、とりわけ「強固な二元論的性差を無批判に受け入れて自明の根拠とする語りは、表現されたものの解釈をいかに狭め、歪め、見損ね、見落としてしまうか」を冷静に告発している。

2020/04/24(金)(高嶋慈)

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