artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
開館20周年記念展 ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会
会期:2023/04/19~2023/09/24
森美術館[東京都]
会場に入って最初に遭遇したのは「国語」と半立体で示された大きな文字と、ジョセフ・コスースの《1つと3つのシャベル》(1965)だった。シャベルの実物と、シャベルの写真と、英語の辞書に掲載された「シャベル」の定義が並んでいる。いずれも作家が作成したものではない。シャベルの絵だったら「美術だ」とわかりやすいだろうか。いや、美術とは、ものそのものではなく、何かを表現したものでしかなかったのだろうか。芸術はイメージのみでなく、概念そのものをこそ扱うという作品だ。なぜこれが国語と位置付けられたのか。
コンセプチュアル・アートの金字塔から入って、本展は150点以上の作品が所狭しとひしめいている。映像作品も多く、すべてを余すことなく視聴しようとしたら休憩を挟みながら1日必要なほどだ。しかしながら、その多くが収蔵作品ということもあるからか、キャプションでの作品説明が行き届いているため、例えば、スーザン・ヒラ―による映像作品《ロスト・アンド・ファウンド》(2016)を30分見続けなくてはならない、と思う人はいないはずだ。
この作品は、さまざまな消失した、あるいは失われつつある言語を話す人々の話を収録し、その声とその波形を映像にしたものである。鑑賞体験の99%以上は結果的に英語を基点とした翻訳(日本語での字幕はきっと、英語からの翻訳だろう)で把握可能になるが、キャプションにあったとおり、それは帝国主義や植民地主義が押しつぶしてきた言語の歴史と表裏一体である。こうなってくると、背後にある、いまさっき見たコスースの英語の使用が透明な媒体に思えなくなってくる。だからこの二つは「国語」になくてはならなかったのだろう。
スーザン・ヒラ―の暗室を出てすぐにあるのは、米田知子の「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズだ。例えば、フロイトの眼鏡のレンズを通してユングのテキストを見るという構図の写真であるのだが、活字にしても、それが誰にとってどう見えるのかという個人のありようが、無味乾燥な活字に意味を与える。
続くのはミヤギフトシの《オーシャン・ビュー・リゾート》(2013)。沖縄出身のある男はなぜアメリカに渡ったのか、だれをどう恋しく思っているのかを英語のモノローグで綴る。隣のイー・イランはボルネオ島のさまざまな織手と協働制作を行なっており、本展の《ダンシング・クイーン》(2019)は竹でできた巨大なタペストリーだ。そこにはABBAなど世界的な流行曲の歌詞が英語で織り込まれ、キャプションではABBAやレディ・ガガの音楽が「織手の生活へ寄り添ってきた」ものであることが示されていた(2021年のABBAのニューアルバムはマレーシアを含む世界40カ国と地域でiTunes1位を獲得した
)。イランの作品とミヤギの作品、それぞれにとって一定の意味をもつ英語という言語で受容してきた文化のあり方に、四方八方へと心が揺さぶられる。「国語」というより、コスースならイデア論を引いて「哲学」、ミヤギなら歴史を踏まえて「社会」なのではないかという疑問も確かにありつつ、「国語」とカテゴライズされることで作品が相互に反響し合っている。このように、作品が並ぶことで意味を引き出し合うキュレーションが本展の膨大な作品の並びにおいて、幾度となく現われていた。
すべてに触れることはできないが、収蔵品が多いこともあり、本展の作品の一端は森美術館のウェブサイト「コレクション」で詳細なキャプションと一緒に伺うことができる。アイ・ウェイウェイの《漢時代の壷を落とす》(1995)、ヴァンディー・ラッタナの写真作品「爆弾の池」シリーズなどなど、本展を見る機会が得られなかったという人にも、ぜひ見てほしい。
ただし、本展のなかで取り扱い上、ひとつ浮いていたと思われるのが、笹本晃の《パフォーマンス記録映像 ストレンジアトラクターズ》(2010)ではないだろうか。本作についてはいつか別稿で取り上げたいと思う。
本展は2000円で観覧可能でした。なお、土日祝は2200円だったそうです。
公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/02/index.html
2023/07/01(土)(きりとりめでる)
竹下光士「聳えると崩れるは表裏一体」
会期:2023/06/28~2023/07/10
ケンコー・トキナー・ギャラリー[東京都]
ぱっと見ただけではわかりにくいタイトルである。だが、本展の「聳えると崩れるは表裏一体」というタイトルには、作者の竹下光士の強い思いが込められている。
竹下は2016年頃から「地形写真家」を名乗って活動し始めた。風景をその地形的な成り立ち──造山、風化、侵食、氷河などの諸事象を踏まえて撮影していこうとする試みである。写真文集『槍・穂高・上高地 地学ノート──地形を知れば山の見え方が変わる』(山と渓谷社)が完成したことを期して開催された今回の写真展でも、その「地形という見方」は貫かれている。竹下は今回、約20年ぶりに北アルプスの槍ヶ岳、穂高連峰に登ったのだという。そこで浮かび上がってきたのが、「風化」というテーマだった。聳え立つ岩山と、風化によって剥落した岩の堆積を対比的に撮影・構成した今回の展示では、まさに「山の見方が変わる」ような問題提起が為されていた。
ユニークな視点だし、写真の選択、レイアウト、並べ方もうまくいっている。ただ彼の意図が、写真と短いキャプションだけで充分に伝わるかといえば、そうとはいえないだろう。「風化」の具体的なあり方を、個々の写真に沿って丁寧に読み解いていくようなテキストが必要になりそうだ。これは竹下に限らず、日本のドキュメンタリー写真全般に言えることだが、写真と言葉との関係をもう少ししっかりと考えて、展覧会を構成していくことが必要になるだろう。とはいえ、竹下の「地形写真家」としての営みには、大きな可能性を感じる。いい鉱脈を発見したのだから、今後さらに先に進んでいってほしい。
公式サイト:https://www.kenko-tokina.co.jp/gallery/schedule/post_10.html
2023/07/01(土)(飯沢耕太郎)
オサム・ジェームス・中川「Witness Trees」
会期:2023/05/17~2023/07/01
PGI[東京都]
日本とアメリカの両方に出自を持ち、滞米45年になるというオサム・ジェームス・中川は、つねに自らのアイデンティティを問い直す作品を発表し続けてきた。2014年にPGIで展示され、同名の写真集も刊行された「GAMA CAVES」は、彼の妻にとって故郷でもある沖縄の、太平洋戦争末期に住人たちが避難し、多くの死者を出した洞窟にカメラを向けた写真群だった。今回の「Witness Trees」は、第二次世界大戦中に日系人が強制収容されていたキャンプの跡地、19ヶ所を訪れて撮影した写真を集成したシリーズである。
中川が目を留めたのは、マンザナー、アマチ、ハート・マウンテンなどの収容所跡地に生えている樹木である。それらはまさに、70年前に日系人にふりかかった出来事の目撃者(Witness)といえるだろう。樹を中心に、周囲の状況を丁寧に取り込んだ画面構成が、すべての写真に貫かれている。中川はさらに、写真のプリントにも徹底してこだわった。画像を複写し、それをさらにデジタル・データ化するというプロセスを踏んだだけでなく、ネガ画像とポジ画像を重ね合わせてソラリゼーション(画像反転)のような効果を生み出している。そうやって形成されたプリントは「過去と現在、ポジとネガ、アナログとデジタル」とが結びついた、「記憶の重み」を備えているように見えてくる。本作は、中川がこれまで写真家として積み上げてきた作品世界の到達点といえそうな、静謐だがパワフルな写真シリーズとして成立していた。
公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8670
関連レビュー
オサム・ジェームス・中川、タイラジュン「UNDERFOOT」|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年05月15日号)
2023/06/29(木)(飯沢耕太郎)
新山清「松山にて」
会期:2023/06/16~2023/06/28
Alt_Medium[東京都]
新山清が1969年に亡くなってからすでに半世紀以上が過ぎた。普通なら、その仕事は忘れられてしまうか、あるいは逆に固定された価値づけの範囲におさまってしまうかのどちらかだろう。だが面白いことに、新山の場合にはそのどちらにも当てはまらず、若い世代の写真家やギャラリストによって、新たな「発見」や「発掘」が続き、写真展や写真集の形で写真作品が更新され続けている。今回のAlt_Mediumの個展でも、彼の「松山時代」にスポットを当てることで、新鮮な切り口のアプローチを見ることができた。
新山清は戦前に理化学研究所に勤めていたが、敗戦後の1946年に、身辺の整理を終えて故郷の松山に戻り、1952年まで当地で過ごした。今回の展示作品は、すべてその時期に撮影されたものである。新山といって思い浮かべるのは、被写体を端正かつ厳密なプリントで定着した、造形的な意識の強い写真群である。それらは「サブジェクティブ・フォトグラフィ」を提唱したオットー・シュタイネルトにも認められたのだった。だが、今回展示された「松山時代」の写真は、どちらかといえば身辺の人物や事物をのびやかに撮影したスナップ写真が多い。むろん、彼の被写体をしっかりと捉えきったカメラワーク、卓抜な画面構成の能力は、そこでも充分に発揮されているのだが、写真を撮ること、そしてそのことを通じて新たな視点を見出したことへの歓びが、ストレートに表明されているような作品が目についた。
子息の新山洋一氏による丹念で網羅的な作品保存の営みのおかげで、新山清の作品世界が、つねに開かれた状態にあるのは、とても素晴らしいことだと思う。彼の写真には、まだまだ未知の可能性が潜んでいるのではないだろうか。
公式サイト:https://altmedium.jp/post/715092972510773248/新山清-写真展松山にて
関連レビュー
新山清「VINTAGE」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年02月15日号)
2023/06/28(水)(飯沢耕太郎)
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語
会期:2023/06/16~2023/09/24
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
本橋成一とロベール・ドアノーの二人展が開催されると聞いたときには、どちらかと言えば危惧感のほうが大きかった。1940年、東京・東中野生まれの本橋と、1912年、パリ郊外・ジャンティイ生まれのドアノーでは、世代も育ってきた環境も時代背景もまったく違っていて、二人の写真がどんな風に融合するのか想像がつかなかったのだ。
ところが、本展を見るなかで、その作品世界の「交差」が意外なほどにうまく成立していることに驚かされた。本展の出品作は「第1章 原点」「第2章 劇場と幕間」「第3章 街・劇場・広場」「第4章 人々の物語」「第5章 新たな物語へ」の5部構成になっている。それらを見ると、例えば炭坑夫(第1章)、サーカス(第2章)、市場(第3章)、家族(第4章)など、二人の写真家に共通するモチーフが、たびたび現われてくることに気がつく。第5章だけが、やや異なる世界を志向しているように見えるが、本橋とドアノーの被写体の選択の幅がかなり重なり合っていることがよくわかった。
だが、何よりも「交差」を強く感じるのは、ドアノーの孫にあたるクレモンティーヌ・ドルディルが本展のカタログに寄稿したエッセイ(「それでも人生は続く」)で指摘するように、「二人に共通しているのは、人々の仕事の現場と道具の中とにともに身を置いて撮影している」ということだろう。そのような、被写体に寄り添い、いわば彼らと「ともに」シャッターを切るような姿勢こそ、本橋とドアノーの写真が時代と場所を超えた共感を呼び寄せるゆえんなのではないだろうか。
このような、二人の写真家同士の思いがけない組み合わせを求めていくことは、東京都写真美術館の今後の展示活動の、ひとつの方向性を示唆しているようにも思える。本橋とドアノーのようなカップリングは、もっとほかにもありそうだ。
公式サイト:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4534.html
2023/06/25(日)(飯沢耕太郎)