artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
篠山紀信写真展 LOVEDOLL×SHINOYAMA KISHIN
会期:2017/04/29~2017/05/14
アツコバルー[東京都]
写真家、篠山紀信がラブドールをモデルに撮影した写真を見せた個展。山河や廃墟、あるいは映画館などを背景にした等身大のラブドールの写真と、それらの画像を編集した映像が展示された。
ラブドールの造形的完成度が高いことは、改めて言うまでもあるまい。その技術的達成は、ラブドールの意味を人間と人形の境界線上に押し上げた。それは人間そのものではないが、だからといって人形にすぎないわけではまったくなく、ある種の人間の生にとっては必要不可欠な存在であるという点で、限りなく人間に近い、極めて特殊な意味合いを帯びている。篠山がとらえようとしたのは、そのようなラブドールの曖昧で不確実な両義性である。
むろんラブドールは人間そのものではないから、不自然な人工性が際立って見える作品がないわけではない。身体の圧倒的な美しさに比べると、パターン化されたメイクと質の悪いランジェリーも気にならないわけではない。しかし、それらの難点を差し引いたとしても、ラブドールという人形の人間らしさを打ち消すことにはならない。これはいったい人間なのか人形なのか。
このような視覚的混乱は、おそらくは篠山の戦略的な演出に由来している。というのもラブドールのなかには人間のモデルが混在していたからだ。彼女は不自然なまでに人形らしいポーズを取っていたから、一見すると彼女が人間なのか人形なのかわかりにくい。人間が人形のように見えるし、人形が人間のように見える。私たちの視線は、人間と人形のあいだの曖昧な領域をあてどなくさまようほかないのである。
極めつけは、四肢や頭部を切断されたラブドールの作品。廃墟の中でバラバラに切断されたラブドールたちは、まるで河原温の《浴室》シリーズのようで、あたかも「密室殺人」という惨劇を連想させる。だが、それ以上に強力に醸し出されていたのは、生々しい人間性である。それらはなぜか、人間と同じようにヘアメイクを施したラブドール以上に、人間を感じさせたのだ。ベルメールの球体関節人形がそうであるように、人形の内部構造を露呈させているにもかかわらず、あるいはだからこそと言うべきか、人形の内奥から人間性がにじみ出ているのが不思議でならない。
ラブドールはいまや立体造形の最先端にとどまらず、ポスト・ヒューマンの議論を先取りした造形として評価されるべきではないか。それは、ペットと同じように、人間の「生」にとって必要不可欠な存在でありながら、ペットと違い、そもそも生命を持ち得ていないという点で、「死」とも無縁である。ペットは私たちより先に死にゆく場合が多いが、ラブドールは私たちが死んでもなお、依然として美しいまま佇んでいる。彼女たちに人間らしさや自分たち自身の生を部分的に見出すとき、ラブドールは人間の後に続く、新たな「人間」なのかもしれない。
2017/05/03(水)(福住廉)
テリ・ワイフェンバック「The May Sun」
会期:2017/04/09~2017/08/29
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
会場の入り口近くに、テリ・ワイフェンバックのデビュー写真集である『In Your Dreams』(Nazraeli Press, 1997)の図版ページが、そのまま展示されていた。この写真集を洋書屋で見て、その独特の色使いとレンズのボケの効果を活かした繊細な自然の描写にすっかり魅了され、すぐに購入したことを思い出した。以来、彼女は数々の著作を出版し、日本でもその作品を見る機会も多くなってきた。だが、今回IZU PHOTO MUSEUMでの展示を見て、そのチャーミングな作品世界の新鮮さが、まったく失われていないことに驚かされた。
今回の展覧会は、表題作の「The May Sun」と「The Politics of Flowers」の2作品を中心に構成されている。19世紀アメリカの詩人ウォレス・スティーブンスの詩句に由来するという「The May Sun」は、ワイフェンバックが2015年にIZU PHOTO MUSEUMに1ヵ月余り滞在して制作したシリーズである。美術館の周辺の森や、咲き匂う花々を撮影した写真が並ぶ。木洩れ陽の光、蜘蛛の糸や枝先に結ぶ露、不思議に心騒がせる雲の姿などを、例によって細やかな手つきで、みずみずしい画像に変容させている。ワイフェンバックの作品を見ていると、彼女にとって自然は単に観察の対象であるだけではなく、同化し、包み込まれていく心の拠り所なのではないかと思えてくる。そのソフトフォーカスの描写は、19世紀末から20世紀初頭にかけてのピクトリアリズム(絵画主義)の写真家たちの自然観に通じるところがありそうだ。
一方「The Politics of Flowers」(2005)はワイフェンバックにしては、珍しい手法で制作された作品である。2003年の最愛の母親の死をきっかけにして、彼女は19世紀にパレスチナ地方の花を押し花にして貼り付けた小冊子に興味を惹かれるようになった。そこにおさめられた花々を複写し、ピグメント・プリントという特殊な技法で、モノクロームの画像として定着している。それらはパレスチナというつねに戦渦の絶えない苦難の地の花々をベースにして、母親の記憶を重ね合わせた感動的な作品に仕上がっていた。
ほかに動画と静止画像を組み合わせた意欲的な新作《柿田川湧水》(2015)、複数の画像を横に連ねた《富士山御殿場口》(2015)も出品されている。やや意外なことに、国内の美術館で彼女の作品が本格的に展示されるのは初めてなのだという。もっと大規模な回顧展も企画されていいのではないだろうか。
2017/05/02(火)(飯沢耕太郎)
ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展
会期:2017/04/29~2017/06/25
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
ソール・ライターの日本における最初の本格的な展覧会となった本展の構成は、やや意外なものだった。ライターといえば、ニューヨークのダウンタウン、イースト・ヴィレッジの自宅の界隈を撮影した、カラー写真のスナップショットがよく知られている。一時、ほぼ忘れられた存在になっていた彼の“復活”のきっかけとなったのも、ドイツのSteidl社から刊行された写真集『Early Color』(2006)だった。
だが今回の200点あまりの展示作品には、初期のモノクローム写真やファッション写真、絵画作品、プライベートに自室で撮影されたヌード写真などが、かなりの部分を占めている。しかも、それらの作品がとてもいい。ライターは本来画家志望であり、1980年代以降写真の仕事から遠ざかったあとも、あたかも日記を綴るようにスケッチブックにドローイングを描きためていた。ボナールを思わせる詩的で生彩あふれる色彩感覚と、大胆な筆遣いによる絵の仕事は、彼の画家としての才能をまざまざと示していた。初期のモノクローム写真のナイーブな眼差しも印象に残るが、より驚きだったのはヌード写真だった。みずみずしいエロティシズムと、親密で生々しい雰囲気は、ライターのスナップ写真にはほとんど見られないものだ。彼の写真家としての「もうひとつの顔」が、そこにくっきりと浮かび上がっていた。
本展のキュレーションを担当したポリーヌ・ヴェルマール(ニューヨーク国際写真センター)の、ライターの作品と日本の浮世絵との親和性という指摘もじつに興味深い。たしかにその縦位置の構図、フラットな色面分割、何も写っていない部分(「間」)の強調、カリグラフィー(看板の文字など)への強い興味などは、浮世絵的としかいいようがない。実際にライターの蔵書には、北斎、広重、春信、歌磨、清長、写楽らの和装本、茶道や俳句の研究書、『好色一代女』、『枕草子』、『更級日記』の英訳本などもあったという。ライターが日本文化と伝統絵画の表現に強い興味を抱き続け、それを自分の写真に応用としていたことは間違いない。そのあたりについては、さらなる調査・研究が必要になってくるのではないだろうか。一回で終わるにはもったいない展示なので、さらに別な角度からの展覧会の企画を期待したいものだ。
2017/04/29(土)(飯沢耕太郎)
羽永光利一〇〇〇
会期:2017/04/28~2017/05/28
NADiff Gallery[東京都]
モノクロプリントが計200枚くらい、縦長の写真もすべて横にして展示してある。土方巽、ハイレッド・センターのハプニング、反戦デモ、ヤマギシ会、ダダカン、京大紛争、第10回東京ビエンナーレ、都知事選の秋山祐徳太子、「モナリザ展」に抗議する障害者たち、千円札裁判の赤瀬川原平、唐十郎と状況劇場など、60-70年代の肖像だ。この時代は政治も文化も一体化していたというか、陸続きだった気がする。左右がはっきりしていた比較的わかりやすい時代で、ある意味いまより戦いやすかったともいえる。これらの写真を収めた『羽永光利一〇〇〇』が一〇〇〇BUNKOから出版された。文庫版ながら千ページを超すオブジェだ。
2017/04/28(金)(村田真)
「羽永光利一〇〇〇」
会期:2017/04/28~2017/05/28
NADiff Gallery[東京都]
羽永光利(1933~99)が1960~70年代に撮影した前衛美術家や舞踏家の写真群は、当時の状況をタイムカプセルのように保存した貴重な記録であることは間違いない。今回の展覧会の冒頭に掲げられた、寺山修司と横尾忠則が新宿三丁目の末廣亭の前にいる写真を見ただけで、あの沸騰していた時空間にいきなり連れて行かれるような気がする。ハイレッド・センター、ゼロ次元、状況劇場、ダダカン(糸井貫二)、大野一雄──伝説的なアーティスト、パフォーマーたちが繰り広げるアートシーンの熱気は、今となってはこれらの写真から感じとるしかない。
羽永がこれらの稀有な瞬間を捕獲することができたのは、彼が筋金入りの報道写真家だったからではないだろうか。写真週刊誌「FOCUS」の創刊(1981)に立ち会ったという彼は、目の前の出来事に感情移入することなく、冷静かつ公平に見通す視点を備えていた。やはり同時代に前衛美術家たちを撮影していた平田実の写真と比較しても、その客観性は明らかである。展示されていた写真のなかには、反戦デモや街頭のスナップなど、美術シーンとは直接関係のない写真も含まれているが、そのことが逆に時代状況を大きく俯瞰する視点に繋がっているように見える。
今回の展示は、グラフィック・デザイナーの松本弦人が企画・発行する「一〇〇〇本シリーズ」の5冊目として『羽永光利一〇〇〇』が出版されたのに合わせたものだ。これまでに『町口覚』、『東京TDC』、『宇川直宏』、『中平卓馬』と続いてきた、文庫本、1000ページというスタイルの「一〇〇〇本シリーズ」も、巻を重ねるたびに充実したラインナップになってきた。この枠組みで、もっと見てみたい写真もたくさんある。ぜひ続編の刊行を期待したい。
2017/04/28(金)(飯沢耕太郎)