artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
セレステ・ウレアガ/カクガワエイジ「doble mirada 2つの視点、そこから見える未来へ」
会期:2016/09/01~2016/09/04
ニューロ吉祥寺[東京都]
セレステ・ウレアガはアルゼンチン・ネウケン出身の写真家、ビジュアルアーティスト。ブエノスアイレスでスタジオ390を運営し、ロックミュージシャンのポートレートやオーディオビジュアル作品を中心に制作・発表している。彼女は2015年に来日し、東京・麹町のセルバンテス文化センターで写真展「アルゼンチンロックのポートレート」を開催した。そのとき、石黒健治の写真ワークショップ「真眼塾」を主催しているカクガワエイジと知り合い、意気投合したことが、1年後の二人展に結びついた。
吉祥寺・井之頭公園近くの会場には40点の写真が2列に並んでいた。上下2枚の写真のうちどちらかがウレアガかカクガワの写真だが、作者名は明記されていない。「愛、生、死」など漠然としたテーマ設定はあるが、写真の選択はかなり恣意的に見える。モノクロームあり、カラーあり。ウレアガのアルゼンチンの写真と、昨年の来日時に日本で撮影した写真が混じり合っており、カクガワも日本だけではなく、パリ、ロンドン、フィンランドなどでも撮影している。まさにカオス状態が出現しているのだが、それでも自ずとアルゼンチン人と日本人の写真を介したコミュニケーションのあり方の違いが浮かび上がってくるのが興味深かった。会場の最初のパートに展示された2枚の写真が象徴的だろう。「閉じたドア」(カクガワ)と「開いた目」(ウレアガ)である。それらはコミュニケーションの回路が内向きに閉じがちな日本と、底抜けに開放的なアルゼンチンの状況を明瞭に指し示している。
このような異文化交流は、継続していくことでさらなる実りを生むのではないだろうか。まったく正反対にかけ離れているからこそ、刺激的な出会いもありそうだ。次はぜひ「地球の裏側の国」アルゼンチンでも二人展を実現してほしい。
2016/09/01(木)(飯沢耕太郎)
トーマス・ルフ 展
会期:2016/08/30~2016/11/13
東京国立近代美術館[東京都]
トーマス・ルフはドイツの現代写真を代表する作家のひとり。展覧会はよく知られた「ポートレート」シリーズから始まる。人の顔を正面から撮った写真だが、みんな有名人ではないし(ルフの友人たち)、どれも無表情でつまらない。そんなどうでもいい人のポートレートを、縦2メートル以上の大きさに引き延ばして並べているからおもしろい。被写体の属性に関心が向かない分、写真そのものを意識してしまう。これらの写真は「これらは写真である」と語っているだけなのだ。だからおもしろい。初期の「室内」シリーズも「ハウス」シリーズも基本的に同じで、ごくありふれた室内や建物をまるで「見本」のように撮っている。これらが80年代の作品で、90年ごろから天体写真「星」シリーズが始まるが、これは自分で撮った写真ではなく、天文台が天体望遠鏡で撮影したネガを元にしたもの。つまり天体を撮っているのではなく、天体を撮った写真がモチーフなのだ。同様のことはその後の「ニュースペーパー・フォト」「ヌード」「jpeg」「カッシーニ」と続くシリーズにもいえそうだ。これらはそれぞれ新聞に掲載された写真、インターネットのポルノサイトから拾ったヌード画像、圧縮されモザイク状に変容したデジタル画像、人工衛星から送られた天体画像を元にした作品で、一見バラエティに富んでいるけれど、すべて写真(画像)自体をモチーフにしている点で共通している。そして見ていくうちに気づくのは、ゲルハルト・リヒターとの近似性だ。「ニュースペーパー・フォト」はリヒターの初期のフォトリアリズム絵画を思わせるし、ネット上の画像を処理して虹色の画面を創出した「基層」シリーズは、リヒターの「アブストラクト・ペインティング」シリーズを彷彿させるし、「ヌード」シリーズの《nudes yv16》などは、リヒターの《Ema》そっくりだ。これは偶然ではないはず。リヒターが絵画による「絵画」を目指し、絵画の探求から写真に接近したとするなら、ルフは写真による「写真」を目指して絵画の世界に近づいたからだ。
2016/08/29(月)(村田真)
第5回 新鋭作家展 型にハマってるワタシたち
会期:2016/07/16~2016/08/31
川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]
この新鋭作家展は公募で作家を選ぶのだが、ただ作品を審査して入選作を展示するのではなく、市民も作品づくりに参加し、一緒に展覧会をつくっていく1年がかりのプロジェクトなのだ。そのため審査もポートフォリオ、プレゼンテーション、面談と3段階に分けて慎重に行なわれる。で、今年選ばれたのが大石麻央と野原万里絵という同世代のふたり。大石は、ハトのかぶりものと黄色いTシャツを着けたハト人間のポートレートを展示。これは会期前に開かれた「着るアート体験&撮影大会」で、100人を超す市民にかぶりものと黄色いTシャツを着けてもらって撮影。これらの写真に加え、ハト人間の等身大の像も展示している。野原は高さ5メートル、幅10メートル近い大絵画2点の出品。木炭でステンシルの技法を使って描かれたモノクロ画面だ。こちらは「パンと炭で巨大壁画に挑戦」というワークショップを開催。子供たちが型紙を使って野原とともに協働制作を行なった。大石は同じマスクとTシャツを使い、野原は型紙をステンシルとして用いる点で、どちらも「型」を重視していることから、タイトルは「型にはまってるワタシたち」になったそうだ。美術館ほどの規模もコレクションもない施設だが、それだけに市民に密着した活動に磨きがかかっている。
2016/08/28(日)(村田真)
Gallery街道 オープニング展
会期:2016/08/20~21、27~28、09/03~04
Gallery街道[東京都]
尾仲浩二が東京・南新宿の青梅街道沿いのビルの3階にGallery街道をオープンしたのは1988年。壁を銀色のペンキで塗り、のちに写真集『背高あわだち草』(蒼穹舎、1991)にまとめられる「背高あわだち草」のシリーズを28回にわたって展示した。1992年にいったん閉廊するが、2007年に南阿佐ケ谷のアパートを改装して第一次Gallery街道をオープンする。こちらは中断期間を挟んで2014年まで続いた。
写真家たちが自分たちで運営する自主ギャラリーには、どうやら抗しがたい魅力があるようだ。一度メンバーになれば、仲間たちと苦労をともにしながら活動を続けていくなかで、さまざまな出会いと別れがあり、ギャラリーの生き死ににも立ち会うことができる。尾仲もまた、そんな自主ギャラリーの引力に引き寄せ取られてしまった1人と言えるだろう。
そのGallery街道が、今回、中野駅北口近くにリニューアル・オープンすることになった。メンバーは尾仲のほかに岡部文、佐藤春菜、鈴木郁子、中間麻衣、河合紳一、小松宗光、酒巻剛好、本庄佑馬、藤田進である。そのお披露目の展示は、とりあえずの顔見せ展という感じだったが、尾仲とともに第一次Gallery街道を立ち上げた藤田進や、第二次Gallery街道のメンバーだった佐藤春菜など、自主ギャラリーの展示空間を熟知しているメンバーがいるのが心強い。彼らと新人メンバーとがうまく噛み合って、活気のある意欲的な展示活動を展開していってほしい。
9月からは岡部文展(9月10~18日)を皮切りに、メンバーの写真展が次々に開催される。メンバーだけだとマンネリになりがちなので、ゲスト作家の展示もうまく挟み込んでいくといいと思う。
2016/08/28(飯沢耕太郎)
家族写真
会期:2016/08/26~2016/08/28
アトリエ劇研[京都府]
同世代の演出家と写真家、それぞれ2組が、演劇/写真/ダンスの境界を交差させて共同制作を行なう企画、『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』の2本目。「身体の展示」として展覧会も行うダンサー・振付家・演出家の倉田翠(akakilike)が、「家族写真」というフォーマットを足がかりに、写真家の前谷開と組んだ。前谷は、カプセルホテルの内部の壁に落書きしたドローイングとともに撮った全裸のセルフ・ポートレイトや、同居人の後ろ姿になりすまして撮ったポートレイト、床下の地面に掘った穴の中で行なった行為の痕跡を写真化するなど、自身の身体性を基盤としながらフィクショナルな要素を混在させた写真作品を制作している。
本作での前谷は、「家族」の一員を演じつつ、「写真家」としての外部の視線を行き来する、奇妙なポジションに身を置いている。舞台は、折り畳み式の机が運びこまれ、組み立てられるシーンから始まる。そこに集う6人の男女。机は、「マイホーム」のメタファーであり、その上でそれぞれがソロやデュオを踊る「もうひとつの舞台」でもあり、腰かける椅子やフローリングの床へと変貌する。無機質で仮設的な「ホーム」で繰り広げられるのは、同じ空間に同居しながらも、それぞれが違う次元に身を置いているかのような奇妙な「家族」の不調和なアンサンブルだ。「お父さんがもし、死んだら、皆はどないする? 今日、ライフプランナーっちゅう人のところに行ってきたんや。お父さんが死んだら、現金500万円、もらえるねんて。不思議な商品、めっちゃええやろ」という大阪弁のモノローグで、生命保険について淡々と語り続ける父親。チャイコフスキーのバレエ音楽にのせて、優雅な手足の動きを断末魔のように繰り返す母親。のたうちまわるように激しく踊りながら、盛大に血を吐く若い女性。幼い手足で一生懸命にバレエを披露する少女の姿は、張りつめた緊張感を和らげる微笑ましさを持っているが、彼らは度々動きを中断して静止ポーズを取る。少女と手を握り合う前谷は、兄の役だろうか。彼は家族の一員として舞台上で関係を結びながら、ふっと外に出ては、三脚のカメラで舞台上の出来事を撮影する。内部と外部を撹乱し、見られる客体としての身体と見る主体としての撮影者を往還するその様子は、記録撮影の写真家という「身体」が、ぬっと舞台上に侵入してきたように感じられて、出来事の不穏さをいっそう加速する。
渦中に身を置いて行為に参加しつつ、行為を記録する。フィクショナルな出来事(「家族」という単位自体がすでにフィクショナルである)を創出しつつ、そのドキュメントを同時に行なう。対象との距離感、二重性の担保、倫理性など、ダンス公演であることを超えて、「行為としての写真家」をあぶり出していた点で興味深い作品だった。
2016/08/28(高嶋慈)