artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
中村政人「明るい絶望」
会期:2015/10/10~2015/11/23
アーツ千代田3331[東京都]
今年開催された写真展の中でも、質的にも量的にも頭一つ抜けた展示といえるだろう。中村政人は、1989~93年に韓国・ソウルに留学するが、「日本からの視点しか持っていなかった自分という存在を否定」されたことでパニック状態に陥る。その「絶望の壁を乗り越えて」いくために、周辺の出来事、出会った人や事物をカメラで撮影し、フィルムを現像、プリントするようになる。その「見ることを身体化するトレーニング」としての写真撮影は、韓国滞在中だけではなく、93年に日本に帰国後も続けられ、膨大な量の写真記録が残された。今回の「明るい絶望」展には、4万点以上に及ぶというそれらの写真群から選ばれた700枚近くが展示されていた。
特にソウル時代の写真が面白い。切り口としては、赤瀬川原平らが1980年代に開始した「トマソン」→「路上観察学」の系譜に連なる仕事といえるだろう。路上で見出された違和感をともなう状況を撮影することで、社会や時代に規定されながらも、時にそれを超越していく人間の営みの奇妙さ、切実さがあぶり出されていく。「駐車禁止」のために設置されたコンクリートやドラム缶、ボウリングのピン型の表示物、「ライオン錠」、「犬と犬小屋と駐車場」など、何度も撮影を繰り返す被写体が登場し、それらの写真を「再考察」することで、何気なく見過ごしていたものへの認識が深められていくのだ。その合間にイ・ブル、チェ・ジョンファ、コー・ナッポンといった韓国人アーティストたちとの交友を写した写真が挟み込まれている。
1993年以降の東京のパートも、基本的な構造は同じだが、ソウル時代と比較すると「中村と村上展」(1992~93年)「ザ・ギンブラート」(1993年)、「新宿少年アート」(1994年)などのアートイベントの記録という側面が強まっていく。「見ることを身体化するトレーニング」のボルテージはやや低下し、中村自身もアーティストとしての活動が先行して、写真撮影に没頭する余裕がなくなっていったということではないだろうか。とはいえ、ソウルと東京で撮影された写真群は、アーティストの余技にはおさまりきらないパワーを感じさせるいい仕事だと思う。純粋に「写真作品」として再構築していくこともできるだろう。
2015/10/11(日)(飯沢耕太郎)
東京国際写真祭2015
会期:2015/10/09~2015/10/18
ART FACTORY城南島[東京都]
2年間の準備期間を経て、今年からスタートした「東京国際写真祭」。国際的な写真コンペ「東京インターナショナルフォトグラフィーコンペティション」の受賞作家7名の展示と、このイベントのために企画された「What makes us “us”─私たちの世界の領域─」展に加えて、シンポジウム、ワークショップなどが開催された。羽田空港の対岸の城南島というかなりアクセスが悪い会場だが、企画自体はしっかりと練り上げられていて、回を重ねていけば、さらに大きく展開していきそうな可能性を感じた。
特に注目すべきなのは、小高恵美がキュレーションした「What makes us “us”─私たちの世界の領域─」展である。「都市と自然」(ホンマタカシ/田附勝/アレハンドロ・チャスキエルベルグ/ルーカス・フォグリア)、「民族」(石川直樹/ナムサ・レウバ/ローラ・エルタンタウィ)、「境界」(下道基行/ノエミー・ゴーダル/リウ・ボーリン)、「コミュニティーとカルチャー」(細倉真弓/山谷佑介/マイク・ブロディ)という14名のラインナップで、他に西野壮平の東京をテーマにしたフォト・コラージュ作品が特別展示さていた。「私たちの生きるこの世界の領域について考え、新しい世界の見方と対話を生み出そうとする試み」という、展覧会の意図が、日本の若手とインターナショナルな写真家たちを組み合わせた出品作家の人選によくあらわれており、多面的な世界のあり方を、写真によって問いかけていくという志の高さを感じさせるいい展示だった。できれば、きちんとしたテキストを掲載したカタログも作ってほしかったが、それは今後の課題ということだろう。
公式サイト http://www.tipf.jp/
2015/10/09(金)(飯沢耕太郎)
オノデラユキ「Muybridge's Twist」
会期:2015/10/07~2015/11/10
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
オノデラユキの発想力と作品の構築力にはいつも驚かされる。今回ツァイト・フォト・サロンで展示された「Muybridge's Twist」は、今年4月~6月のパリ・ヨーロッパ写真美術館(MEP)での個展で、最初に発表されたシリーズだが、まずそのスケールに度肝を抜かれる。最大で304×210センチの大きさで、やや天井が低い今回の会場の壁にはおさまりきれず、上下にはみ出しているものもある。
内容的にもかなりトリッキーで、複数の写真図版(モード、建築、オブジェ等)を複写して大きく引き伸し、それらを自在に切断/コラージュしてキャンバス地に水性の糊で貼り付けてあるのだ。「Muybridge's Twist」というのは、いうまでもなく、19世紀に運動している動物や人間を連続的に連続撮影して、「動き」の瞬間のフォルムを定着しようとしたエドワード・マイブリッジにちなんだタイトルである。オノデラはマイブリッジの手法を逆転させて、動かない写真に「動き」を与えようともくろむ。その「コレオグラフィ」的な操作はかなり成功していて、奇妙に歪んだり捩じれたりした、リアルな夢のようなイメージが出現していた。写真と写真のつなぎ目に、切り取りの「当たり」の線をわざと残したり、地の部分に木炭で薄く影を入れたりする、細やかな配慮もうまく効いていたのではないかと思う。
会場にはもう一つ、2本のペットボトルを、「不意打ち」のようにあり得ない形に接続して撮影したシリーズも並んでいた。こちらは「Study for “Image la sauvette”」というタイトルが示すように、アンリ・カルティエ=ブレッソンへのオマージュだという( “Image la sauvette”は『決定的瞬間』の仏語版のタイトル)。写真史を渉猟しつつ、新たなイメージを創出していくオノデラの試みは、さらにスリリングなものになりつつある。
2015/10/08(木)(飯沢耕太郎)
そこにある、時間──ドイツ銀行コレクションの現代写真
会期:2015/09/12~2015/01/11
原美術館[東京都]
ドイツ銀行の現代美術コレクションは、「紙の作品」のコレクションとしては世界最大(6万点!)を誇る。本展は1979年から開始されたそのコレクションから、「時間」をテーマとした写真作品を厳選して構成している。「Part1 時間の露出/露出の時間」「Part2 今日とは過去である」「Part3 極限まで集中した時間」「Part4 私の夢は未来にあらず」の4部構成で、約40組、60点の作品が展示されていた。数はそれほど多くないが、多彩なアイディアを形にした、クオリティの高い作品が多い。
特徴的なのは、「現代美術」としてコレクションされた写真作品ということで、現実を再構築する、あるいは現実そのものを捏造するタイプの作品がほとんどということだ。当然ながら、ドキュメンタリー、あるいはスナップショットの文脈の仕事はまったくない。写真作品の「アート化」が、まさに1980年代以降に加速していった状況を踏まえた展示といえるだろう。
もう一つは、アジア、アフリカ、中近東、中南米などの作家の作品が目につくことだ。朱加(チュウ・ジア、中国)、曹斐(ツァオ・フェイ、同)、ヂョン・ヨンドゥ(韓国)、ダヤニータ・シン(インド)、ゾーラ・ベンセムラ(アルジェリア)、シリン・アリアバディ(イラン)、フリオ・セザール・モラレス(メキシコ)らの作品が、新鮮な眺めを生み出していた。これまでの欧米中心の写真シーンが急速に解体し、多極化していることがよくわかる。もっとも、本展はシンガポール、インド、そして日本と、アジア諸国を巡回する企画であり、そのことが作家の人選に影を落としていることは考えられる。だが、杉本博司、佐藤時啓、やなぎみわというラインナップの日本人出品作家も含めて、現在の写真表現の主流が、欧米諸国の影響圏から脱しつつあることは間違いないと思う。
2015/10/07(水)(飯沢耕太郎)
甲斐啓二郎「骨の髄」
会期:2015/09/29~2015/10/11
フットボールの起源となる球技を、イングランド中北部の街で撮影した「Shrove Tuesday」(2013年)、各地の火祭りの行事を撮影した「手負いの熊」(2014年)と、甲斐啓二郎は人間たちが身体をぶつけあう行為が、祭儀と結びついていくプロセスを、写真を通じて探り直そうとしてきた。その延長上に、今回のTOTEM POLE PHOTO GALLERYでの展示「骨の髄」も位置づけられると思う。
今回、甲斐が取材したのは、秋田県美郷町六郷の「カマクラ」(酒樽を作る青竹で打ち合う)、三重県津市の「ざるやぶり」(蕎麦の入ったざるを奪い合う)、兵庫県高砂市の曽根天満宮の「竹割り」(青竹を地面に叩き付けて割る)の三つの行事。どれも、成長が早く、青々とまっすぐに伸びて、中身が中空のため、清浄な植物とされてきた竹を使った祭礼である。竹の聖性が浄めの行為を呼び起こし、それが参加者の闘争本能に火をつけて次第にエスカレートしていく様が、これまでと同様に、余分な説明的要素をカットした写真群によって力強く提示されている。ただ、3作品とも被写体の捉え方、距離感がほぼ同じで、スタイルとして固定されてきているのがやや気になる。テーマ設定にはまったく破綻がなく、より多様な方向に広がっていく可能性を感じるが、そろそろ違ったアプローチの仕方も必要になってくるのではないだろうか。また民俗学、人類学的な知見を、作品にどこまで、どのように盛り込んでいくのか、写真とテキストとの関係についても一考の余地がありそうだ。
2015/10/06(火)(飯沢耕太郎)