artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

知っていますか・・・ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾

会期:2015/08/04~2015/08/30

JCIIフォトサロン[東京都]

「戦後70年」ということだけではなく、8月に原爆投下直後に広島、長崎撮影された写真をあらためて見直すことには大きな意味がある。極限状況下で写真家たちによって遂行されたドキュメントがもたらす衝撃を、どんなふうに受け止め、咀嚼し、投げ返していくべきなのかを、より身近に、生々しく感じとることができるからだ。
今回JCIIフォトサロンで開催された「知っていますか・・・ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾」展には、広島を撮影した深田敏夫、松重美人、岸田貢宜、尾糠政美、川原四儀、宮武甫、佐々木雄一郎、菊池俊吉、林重男、田子恒男、長崎を撮影した山端庸介、林重男の写真、約60点が展示された。中国新聞社の写真部員だった松重、陸軍船舶司令部写真部員だった尾糠、陸軍西部軍管区報道部員だった山端など、公的な立場で撮影にあたった者もいれば、偶然カメラを手にしていた者もいる。菊池俊吉、林重男、田子恒男は、1945年10月に文部省学術会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の調査団に同行して、広島と長崎を撮影した。いずれにしても、写真家たちには、眼前の惨状を個人的な感情を抜きにして、できる限り平静に、克明に記録しようという強い意志が共有されていたと思う。
原爆の被害状況の写真の発表は、GHQの報道規制によって1952年まで封印されていた。写真家たちはその間、貴重なネガを守り続けていたのだ。そう考えると、2011年の東日本大震災や原発事故の直後に撮影された「発表できない」写真群も、いつか公開できる日が来るかもしれない。記憶をきちんと受け継いでいくことの重要性を、写真家たちの仕事から学び取るべきだろう。

2015/08/26(水)(飯沢耕太郎)

裸って何? 現代日本写真家のヌードフォト2015

会期:2015/08/25~2015/08/30

ギャラリー新宿座[東京都]

1990年代は「へアヌード」のブームなどもあり、写真におけるヌード表現はより開放的な方向へ向かうのではないかと思われた。ところが、2000年代以降のネット社会の成立とともに、逆に裸体の露出に対して、自己規制を含めた圧力が強まっているように感じる。TVや新聞などでは、おとなしいヌード写真でも発表がむずかしくなってきているし、昨年8~9月に愛知県美術館で開催された「これからの写真」展に出品された鷹野隆大の作品「おれと」が、官憲の介入で画像の一部を布で覆って展示せざるを得なくなったことも記憶に新しい。
そんな中で、写真における「裸」の意味について、あらためて考え直そうという意図で企画されたのが「「裸って何? 現代日本写真家のヌードフォト2015」展である。出展者は大坂寛、金澤正人、菅野秀明、憬(Kay)、小林伸幸、小山敦也、今道子、白鳥真太郎、杉浦則夫、鈴木英雄、高井哲朗、谷敦志、東京るまん℃、中村 、中村成一、永嶋勝美、ハヤシアキヒロ、舞山秀一、水谷充、宮川繭子、村田兼一、山田愼二、善本喜一郎の23人。過激な緊縛写真の菅野秀明や杉浦則夫から、日本広告写真家協会会長の白鳥真太郎の「芸術的なヌード」まで、まさに百花繚乱の作品が並んでいた。プリントのクオリティにこだわる大坂寛や今道子の作品と、チープなデジタル写真が同居し、最年少25歳の宮川繭子は、プライヴェートな空間でのセルフヌードを披露した。写真家たちの年齢、経歴、作風はまったくバラバラ、表現の幅も驚くほど広い。逆にいえば、ヌードというテーマに潜む奥深さ、底知れなさが、極端に引き裂かれた写真群に露呈しているといえるだろう。
このような企画は、一回限りで終わるのはもったいない。回を重ね、さらに参加者の数を増やし、海外の写真家たちにもアピールしていけば、ヌード写真の冬の時代に、新たな展望が開けてくるのではないだろうか。

2015/08/25(火)(飯沢耕太郎)

六甲山国際写真祭2015

会期:2015/08/21~2015/08/30

六甲山カンツリーハウス ROSE WALK、TENRAN CAFE、デザイン・クリエイティブセンター神戸 KIITO、Gallery TANTO TEMPO、GALLERY 4、KOBE 819 GALLERY[兵庫県]

2013年に第1回が行われた「六甲山国際写真祭」。その特徴は、海外から招いた著名なレビュワーたちによる公開ポートフォリオレビューやワークショップを重視していることであり、プロ志向の若手写真家たちに国内では得難い機会を提供している。しかし、内容が高度であることと、会場が六甲山上ということもあり、一般的な認知度は低いのが実情だ。今年は展示部門が強化され、神戸市中心部のギャラリーなど4会場でも写真展が行われた。特にデザイン・クリエイティブセンター神戸 KIITOでの展示は、林典子の「キルギスの誘拐結婚」など注目作が多く、イベントの存在を広く知らしめる効果があった。問題は同祭が今後どのような方向性を取るかである。ターゲットを絞って高度なイベントを目指すか、それとも多くの一般市民が訪れる間口の広いイベントを目指すか。筆者は前者を支持する。後者は他の地域でも代替可能であり、特に首都東京には敵わない。公開ポートフォリオレビューという強力なコンテンツを持つ「六甲山国際写真祭」は、純化路線を推し進めることでステイタスを確立すべきではなかろうか。なお、今回筆者が取材をしたのは写真展のみである。

2015/08/23(日)(小吹隆文)

BORDER

会期:2015/07/26~2015/09/13

旧名ヶ山小学校「アジア写真映像館」[新潟県]

第6回目を迎えた「大地の芸術祭」(越後妻有アートトリエンナーレ2015)の一環として、新潟県十日町市名ヶ山地区の廃校となった小学校で「アジア写真映像館」という写真展イベントが開催された。東京綜合写真専門学校がプロデュースする同企画は、前回の2013年からスタートしたのだが、今回はより規模を拡大し、田口芳正、石塚元太良、大西みつぐ、錦有人、進藤環、高橋和海、伊奈英次、比舎麿、金村修の9人が参加していた。
「波欠け(マクリダシ)」という海岸浸食現象をダイナミックな映像インスタレーションでとらえた錦、コラージュによって名ヶ山と他の地域の風景を多重化していく進藤、精密に撮影した産業廃棄物の画像を壁いっぱいに展開する伊奈、都市風景を引き伸したモノクロームプリントを雨ざらしにして放置する金村など、自然環境に恵まれた環境で、のびのびと競い合うようにしてテンションの高い展示を実現していた。「私たちを取り巻くあいまいさや、相反、矛盾といった”さかいめ”について、9人の写真家の視線を通して現在の写真として発信する」というテーマ設定の意図が、よく伝わってくる展示だった。
「アジア写真映像館」では、他に中国・北京で「三影堂攝影藝術中心」を運営する榮榮&映里が出品し、若手写真家の登竜門として、同藝術中心で2009年から毎年開催されている「三影堂攝影賞」の受賞者たちの作品を紹介していた。また同じ名ヶ山地区で、2006年から住人たちの「遺影」を撮影する「名ヶ山写真館」の活動を粘り強く続けている倉谷拓朴も、撮影と作品展示をおこなっていた。とはいえ、「大地の芸術祭」の全体としては、写真作品の比率は高いとはいえない。もう少し写真家の参加が増えてもいいのではないだろうか。

2015/08/22(土)(飯沢耕太郎)

本城直季「plastic nature」

会期:2015/07/30~2015/09/12

nap gallery[東京都]

東京・千代田区のアーツ千代田3331内のnap galleryが、同じ建物の中で移転して新装オープンした。手狭だった以前のスペースと比較すると、面積的には3~4倍になり、ゆったりとした展示を楽しめるようになったのは、とてもよかったと思う。
そのこけら落としとして開催されたのが、本城直季の新作展「plastic nature」である。この展示については、水戸芸術館現代美術センターの高橋瑞木が、リーフレットに寄せた文章で以下のように論じている。それによれば、今回の北海道と長野の森と山を撮影した新作は「明らかに彼の旧作と一線を画している」。旧作では大判カメラのアオリの機能によって、画面の一部にのみピントが合って、「ミニチュアの模型」のような感情移入しやすいイメージが生み出されていた。ところが新作では「上空から見る山林の表面だけ」がフレーミングされており、人間も写っていないので、フォーカシングのポイントがはっきりせず、「抽象的でオールオーバーな画面」が成立している。抽象化されている分、観客は具体性や指示性を欠いた画面に戸惑い、「鑑賞者自身の想像力や思考を投影することを余儀なくされる」というのだ。
この高橋の議論は、本城の新作の意図を、とても的確に代弁しているように思える。あまり付け加えることもないのだが、「鑑賞者自身の想像力や思考を投影」ということでいえば、ヘリコプターからの空撮という手法も含めて、松江泰治の「JP」シリーズと比較したい誘惑に駆られる。ボケとシャープネスという一見正反対な画面から受ける印象が、意外に似通ってくるのが興味深い。

2015/08/20(木)(飯沢耕太郎)