artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
ヴィヴィアン・サッセン「PIKIN SLEE」/「LEXICON」
会期:2014/10/04~2014/11/30
G/P galley、G/P+g3/ gallery[東京都]
ヴィヴィアン・サッセンは1972年、オランダ・アムステルダム出身の写真家。主にファッション写真の領域で活動してきたのだが、今回、東京・恵比寿のG/P galleyと東雲のG/P+g3/ galleryで同時期に開催された個展を見て、なかなかユニークな作風の写真作家であることがわかった。
「PIKIN SLEE」は南米のスリナムで、「LEXICON」はアフリカ各地で撮影した写真が並んでいるが、むろん単純なドキュメンタリーではない。被写体は人物、風景、オブジェなど多岐にわたるが、日常的な場面に目を向けつつ、微かなズレを鋭敏にキャッチしている。両方のシリーズとも、あからさまにエスニックな要素やコロニアリズムの残滓に目を向けているわけではない。だが、巧みな切り取りと画面構成によって、苛酷な生の状況を浮かび上がらせているのだ。たとえば「LEXICON」には棺や墓場のイメージが頻出するが、死体を正面から撮影することはなく、暗示的にそれを想像させるように観客を導いていく。
サッセンはいま資生堂化粧品の広報誌『花椿』の表紙撮影を担当している。日本の少女たちをモデルとする表紙は、それはそれでとても面白いのだが、「PIKIN SLEE」や「LEXICON」を見ていると、この手法で日本のフォークロア(祭礼や儀式など)を撮影したらどうなるのだろうかと考えてしまう。もし実現したら、日本の若い写真家たちにとっても刺激的な作品になるのではないだろうか。なお、展覧会にあわせて写真集『LEXICON』(G/P galley+アートビートパブリッシャーズ)が刊行されている。
「PIKIN SLEE」 2014年10月4日〜11月30日 G/P galley
「LEXICON」 2014年10月4日〜11月29日 G/P+g3/ gallery
2014/10/08(水)(飯沢耕太郎)
立木義浩「迷路」
会期:2014/10/03~2014/11/03
Bギャラリー[東京都]
1937年生まれの立木義浩の同世代の写真家たち、たとえば淺井愼平や操上和美には、ある共通性がある。彼らのメイングラウンドは広告や雑誌の仕事なのだが、それとは別に切れ味のいいスナップショットをずっと撮り続けていることだ。これは一つには、日々の仕事の中ですり減ってしまう写真家としての感性に磨きをかける「眼の鍛錬」ということだろう。だがそれだけではなく、この世代の写真家たちにとっては、カメラを携えて街に出て、眼前の光景をスナップするという行為そのものが目的化しているようにも思う。より若い世代の写真家なら、そうやって得られたスナップショットを、再構築して作品化することを考えそうだが、彼らは多くの場合そうしない。街で採集されたイメージは、そのまま惜しげもなくまき散らされる。今回、新宿・Bギャラリーで展示された立木の「迷路」もまさにそんな作品だった。
会場に並んでいる40点の写真を見ると、とても健やかでポジティブな「見ること」の歓びがあふれているのがわかる。テーマ的にはかなり多彩な場面なのだが、立木が常に関心を抱いているのは、人のふるまい(多くは無意識的な)なのではないだろうか。それこそ、スナップショットの醍醐味というべきで、街中で捉えられた断片的な身振りの集積が、現実世界に対する肯定的なメッセージとして伝わってくる。以前から、立木の写真は何を撮っても「美しく」見えてくる所があったが、その傾向は70歳代を迎えてさらに強まっているようだ。
なお、展覧会に合わせて同ギャラリーから5分冊の写真集『Yoshihiro Tatsuki 1~5』が発売されている。
2014/10/07(火)(飯沢耕太郎)
小島一郎──北へ、北から
会期:2014/08/03~2014/12/25
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
青森県出身の写真家、小島一郎(1924-1964)の回顧展。津軽平野などで撮影されたモノクロ写真を中心に、小島の活動の全貌に迫った好企画である。
小島が盛んに撮影していたのは、津軽や下北の風土。戦後の高度経済成長期にあって、牛や馬とともに畑を耕し、強烈な風雪に耐えながら道を行く、野良着姿の百姓たちの写真が多い。構成写真のような類もなくはないが、それにしても農機具を構成的にみなした作品だ。いずれにしても、過酷な自然を体感させる写真ではある。だが、それらはたんに言語上の理解を超えて、まさに肉体に訴えかける写真だと言える。風に運ばれて口に飛び込んできた微細な砂粒を思わず噛み締めてしまった時に感じるような、ざらついた舌触りを感じさせるのだ。
興味深いのは、そのように素晴らしい小島の写真が、津軽や下北の風土を被写体にしながら、同時に、その風土に大きく規定されていたという点である。名取洋之助にその才覚を見出された小島は、家族とともに東京に拠点を移す。しかし、東京滞在中の写真の大半は中庸と言うほかなく、小島の視線と東京という街が決して交わらなかった事実が浮き彫りになっている。東京には津軽平野を吹き荒ぶ「風」も、百姓たちが掘り起こす「土」も、見つけることはできなかったのだ。ビルとスモッグの向こうに輝く太陽をとらえた写真は、遠い青森に望郷の念を届けるかのような哀切に満ちている。
やがて小島は青森に帰る。だが、それは必ずしも限界や撤退を意味するわけではない。写真や美術をはじめとする表現文化やそれらに携わる私たち自身は、そもそも本来的にその土地の風土に根づいているのであり、それらから切り離された「美術」や普遍的な美という近代的な観念こそ、大いなるフィクションなのだ。それが証拠に、本展を訪れた日は台風18号が接近しており、激しい風雨が同館の建物全体を打ちつけていた。そうしたなかで小島一郎の写真を見ると、そこに写し出された過酷な風土が、より勢いよく、より強力に、より輪郭を際立たせて、こちらに伝わってくる。美術館という近代的な文化装置が社会から隔絶された中立的な美の神殿などではまったくないことを、小島の写真は教えているのである。
2014/10/05(日)(福住廉)
原芳市「光あるうちに」
会期:2014/09/27~2014/11/03
POETIC SPACE[東京都]
原芳市の『光あるうちに』は2011年に蒼穹舎から刊行された写真集。写真集と同時期に東京・新宿のサードディストリクトギャラリーで開催された個展を見て、この写真家の作品世界が新たな高みに達したと感じたことをよく覚えている。1970年代以降の「私写真」の流れを受け継ぎつつ、よりその陰翳を濃くして、生(性)と死とのコントラストを強めた原の写真の世界が、この頃からすとんと腑に落ちるようになったのだ。その後の彼が『常世の虫』(蒼穹舎、2013年)、『天使見た街』(Place M、2013年)と力作の写真集を次々に刊行しながら、旧作の「ストリッパーもの」も精力的に発表してきたことには、本欄でもたびたび触れてきた通りである。
今回のPOETIC SPACEでの展覧会には、写真集に使用された写真に未発表の1点を加えた17点が並んでいた。その意味では、それほど新鮮味のある展示ではないが、どちらかといえば若い写真家たちにスポットを当ててきたギャラリーでの企画展であることは注目してよい。つまり、原の仕事がこれまでの自主運営ギャラリーを中心とした展示から、大きく広がりつつあることのあらわれといえる。実際に、写真展の会期中にはスイスのギャラリーからの問い合わせがあったそうで、次はヨーロッパやアメリカでの本格的な展覧会につながっていくのではないだろうか。
会場で、1978年に自費出版した原の最初の写真集『風媒花』を購入することができた。被写体に向ける眼差しのあり方は、この頃からほとんど変わっていないのだが、じわじわと眼に食い込んでくる浸透力は確実に増している。こうなると、もっと大きな会場で、1970年代以来の彼の作品をまとめて見たくなってくる。
2014/10/03(金)(飯沢耕太郎)
ホンマタカシ「NINE SWIMMING POOLS AND A BROKEN I PHONE」
会期:2014/09/30~2014/10/30
POST[東京都]
アメリカの現代美術アーティスト、エド・ルシェの『NINE SWIMMING POOLS』は1968年に刊行されたアートブックである。例によって、クールな視線でアメリカ西海岸の9つのプールを撮影して、小ぶりな写真集にまとめている。ホンマタカシは、そのルシェのコンセプトをそのまま引用して、まったく同じテーマ、大きさ、レイアウトで写真集を制作した。会場には200部限定で刊行されたその写真集『NINE SWIMMING POOLS AND A BROKEN I PHONE』の印刷原稿がそのまま並んでいた。
こういう引用/編集系の作品には、まさにホンマの本領が発揮されていて、実にうまくまとめている。単純な引き写しというわけではなく、ルシェの写真には写っていない人物の姿があらわれてきたり、子供用のビニールプールを撮影したり、水没して壊れたiPhoneをさりげなく画面に取り込んだりして、しっかりとホンマタカシの作品として成立させているのだ。そういわれてみれば、エド・ルシェとホンマの被写体への視線の向け方、作品化のプロセスには重なり合う所が多いのではないだろうか。オマージュの捧げ方にまったく無理がなく、自然体に見えるのはそのためだろう。
ホンマはこれから先も、同じコンセプトで何冊か写真集をつくる予定だという。もちろん、それぞれクオリティが高く、読者、観客を楽しませてくれる本になることは間違いないだろうが、引用/編集系の作品は、やはり何か大きな仕事への助走であってほしい。
2014/10/03(金)(飯沢耕太郎)