artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
渡辺眸「1968 新宿」
会期:2014/08/26~2014/09/08
新宿ニコンサロン[東京都]
筆者は1973年に東京に出てきたので、1960年代末のあの伝説的な新宿の状況は直接経験していない。それでも、 月堂、ピット・イン、国際反戦デー、紅テント、フォークゲリラといった、当時新宿にまつわりついていた文化的な記号の群れは、間接的に目にしたり耳にしたりして、憧れの気持ちを抱いていた。それゆえ、僕と同世代はもちろんだが、より若い世代の観客にとっても、渡辺眸の今回の展示は、まず被写体となった1968~69年の新宿と、そこにうごめく異形の人物たちへの関心が先に立つのではないだろうか。
だがそれだけではなく、このシリーズには、渡辺の写真家としての初心、被写体に対する独特の距離感を保った接し方がいきいきとあらわれている。渡辺は当時通っていた東京綜合写真専門学校で、カメラの距離計を1メートルに固定してスナップ撮影するという実習があり、それをきっかけにして新宿に通いはじめたのだという。だが、会場に展示された45点の写真を見ると、1メートルという至近距離には特にこだわらず、融通無碍に被写体との距離を詰めたり伸ばしたりしていることがわかる。結果的に、このシリーズには、新宿という奇妙な狂いを含み込んだ磁場が発するエネルギーの高まりが、くっきりと写り込むことになった。時代と写真家の感受性とが幸福に一致した、ごく稀なケースといえるのではないだろうか。
なお、展覧会の開催にあわせて、街から舎から同名の写真集が刊行されている。また同展は10月23日~29日に大阪ニコンサロンに巡回する。
2014/09/01(月)(飯沢耕太郎)
牛腸茂雄「〈わたし〉という他者」
会期:2014/08/29~2014/10/26
新潟市美術館[新潟県]
荒木経惟展にあわせる形で、新潟市美術館の常設展示の会場では、同館が所蔵する牛腸茂雄の作品展が開催されていた。昨年(2013年)は牛腸の没後30年ということで、展覧会や写真集の刊行が相次いだことは記憶に新しい。今回の展示も、彼の写真の仕事を新たな世代へと受け継いでいこうとする意欲的な試みといえそうだ。
桑沢デザイン研究所時代の初期作品、最初の写真集となった『日々』(1971年)、最後まで取り組んでいた未完のシリーズ「幼年の〈時間〉」(1980年代)などに、友人たちと試作した映像作品、インクブロットやマーブリングの手法による写真以外の作品も加えて、「〈わたし〉という他者を問い続けた牛腸の制作の多面性」に迫ろうとしている。写真家=アーティストとしての成長のプロセスがくっきりと浮かび上がる展示は、なかなか見応えがあった。
だが今回の展覧会の白眉といえるのは、1982年に東京・新宿のミノルタフォトスペース新宿で開催された「見慣れた街の中で」の展示を再現したパートだろう。昨年刊行された新装判『見慣れた街の中で』(山羊舎)の編集過程で、ミノルタフォトスペースの展示には、1981年の写真集『見慣れた街の中で』に掲載されていない作品が含まれていたことがわかった。今回の展示では同館所蔵のプリントを、会場写真を参照しながら、同じレイアウトで並べている。それによって、牛腸がいかに巧みに観客の視線を意識しながら写真展を構成していたかが、ありありと見えてきた。写真相互のつながりとバランスを考えつつ、やや高めに写真を置いて、小柄な牛腸の目の高さで見た街の眺めを追体験させようと試みているのだ。この展示で、『見慣れた街の中で』をもう一度読み込み、読み替えていくための材料が、完全にそろったということになるだろう。
なお、新潟市美術館の荒木経惟展と牛腸茂雄展に呼応するように、8月から10月にかけて市内の各地で「新潟 写真の季節」と銘打ったイベントが開催された。角田勝之助「村の肖像
I、II」(砂丘館/新潟大学旭町学術資料展示館)、会田法行・渡辺英明「青き球へ」(新潟絵屋)、濱谷浩「會津八一肖像写真展」(北方文化博物館新潟分館)などである。このような試みを、今後も続けていってほしいものだ。
2014/08/31(日)(飯沢耕太郎)
劉敏史「存在と匿名」
会期:2014/08/02~2014/08/31
流山市生涯学習センター1階小ギャラリー[千葉県]
劉敏史(ユウ・ミンサ)は高度な思考力と実践力を合わせ持った写真作家である。その実力は2005年にビジュアルアーツフォトアワードを受賞した「ユピクヰタスキアム(果実)」のシリーズや、2009年にAKAAKAで展示された「─270.42℃ My cold field」でも、存分に発揮されていた。
今回、流山市生涯学習センターで展示された新作「存在と匿名(self, others, incognito)」は、仮面をつけた人物のポートレイトのシリーズである。劉は会場に掲げられたコメントで「制作や創作の結果としての作品を目指すのではなく、ただ「なる」ということに結実した作品を手にできないか」と書いている。また自己と他者、内面と外面の関係を突き詰めた結果として「これ程身近にありながら一向に把握することのできない自己という現象とそれ以外のもの。それならばいっそ隠してしまえと目を伏せた」とも書く。このような思考を経て、仮面という両義的な装置に辿りついたというのは充分に納得できることで、結果的に日常的な場面でありながら、どこか異界にするりと抜け出てしまうような怖さを秘めたポートレイト群が出現してきた。ただ展示されている数が、仮面そのものを撮影した写真も含めて14点とまだ少ないので、これから先、さらに大きく発展していく可能性を秘めたシリーズといえるのではないだろうか。
これらの作品の被写体となっているは流山の市民なのだという。どうやら撮影から展示に至るプロセスは、演出家の小池博史との共同作業のようだが、それが今後どんなふうに展開していくのかも楽しみだ。
2014/08/30(土)(飯沢耕太郎)
長野陽一「大根は4センチくらいの厚さの輪切りにし、」
会期:2014/08/19~2014/09/05
ガーディアン・ガーデン[東京都]
長野陽一は1998年に沖縄・奄美諸島に住む10代の少年・少女のポートレイトのシリーズを、「人間の街」プロジェクトの一環としてガーディアン・ガーデンで展示した。今回の展示はそれから16年を経て、かつて同会場で展覧会を開催した写真家の「その後」をフォローする「セカンド・ステージ」という枠での企画になる。会場には78点の料理写真が整然と並んでいた。
長野が料理写真を本格的に撮影するようになったのは、2002年に創刊された雑誌『ku:nel』で料理のページを担当するようになってからだ。試行錯誤の末、彼が見出していったのは「料理の美味しさだけでなくその背景にある人やストーリーが撮りたい」ということだった。たしかに、普通、料理写真といえば、最終的に出来上がった時の形状をしっかりと読者に伝わるように撮影することにこだわったものが多い。長野の料理写真も、たしかにそれがどのような「見かけ」なのかを正確に写し取っている。だが、決してそれだけではなく、彼の写真には料理がどのような状況で、どんな風に作られてきたのか、そのプロセスを読者にいきいきと伝える力が備わっているように思える。その秘訣が何なのかを答えるのは、けっこうむずかしい。だが、どの写真を見ても、その場にある光(自然光、白熱灯、蛍光灯など)を使い、余分な要素をカットしてシンプルに、しかも素っ気ない感じを与えないように愛情を込めて撮影することで、料理写真でもその「行間」を読み取らせることが可能になるのではないだろうか。
料理写真も「撮られた理由や実用性を切り離して一枚の絵としてみると、ポートレイト写真と似ている」というのが、長野が長年にわたる模索を経て導きだした結論だ。たしかに、彼の写真は「一枚の絵」としての強度、完成度がとても高い。しかも写真の見せ方に、それぞれの料理の個性や性格を「ポートレイト写真」としてしっかり捉えようとしている様子がうかがえる。この方向性を、さらに究めていってほしいものだ。
2014/08/29(金)(飯沢耕太郎)
Unknown Nature
会期:2014/08/22~2014/09/03
AYUMI GALLERY/ Underground/ 早稲田スコットホールギャラリー[東京都]
カトウチカのキュレーションで、Unknown Seriesとして毎年開催されてきたグループ展も、今年で第5回目を迎える。今回は神楽坂、早稲田の3つのギャラリーを舞台として、「Unknown Nature」展が開催された。出品作家はAYUMI GALLERYの「Recombination 組み換え」のパートに小山穂太郎、鷹野隆大、大西伸明、進藤環、岡田和枝、西原尚、Undergroundの「Creature イキモノ」のパートに松本力、秦雅則、町野三佐紀、栗山斉、渡辺望、青木真莉子、渡邉ひろ子、早稲田スコットホールギャラリーの「Myth 神話」のパートに豊嶋康子、船木美佳、原游、小島章義、小泉圭理である。
「大きく変わりつつある「自然」の姿、その概念、私達との関係に目を向ける」という展覧会のコンセプトがやや抽象的で曖昧であり、三つのパートの相互関係もうまく絡み合っているようには思えない。出品作品も、絵画、写真、インスタレーション、映像、サウンド等、かなり幅が広い。だが逆に、いま日本の現代美術のコアの部分がどのようにうごめいているかという断面図が、くっきりとあらわれてきているのが興味深かった。写真作品を出品しているのは、鷹野、進藤、秦、青木の4人だが、それらはまったく他の作品と違和感なく、展示空間に溶け込んでいる。1990年代以降、写真と現代美術の境界線の消失がずっと指摘されてきたのだが、はからずも、それがむしろ「普通」の状態になっていることが証明されているともいえる。今後は青木真莉子の写真、インスタレーション、映像の融合の試みのように、各ジャンルの混淆を前提として作品のクオリティが問い直されてくるのではないだろうか。
2014/08/25(月)(飯沢耕太郎)