artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
シャルル・フレジェ「WILDER MANN」
会期:2014/03/15~2014/04/13
MEM[東京都]
「WILDER MANN(ヴィルダーマン)」はドイツ語で、英語では「WILD MAN(ワイルドマン)」、フランス語では「HOMME SAUVAGE(オムソバージュ)」と称する。冬から春にかけて、ヨーロッパ各地の村では死と復活(再生)をテーマとする民間行事が行なわれるが、そこに登場してくる山羊、熊、鹿などの動物を模した仮面、衣裳を身に着けた者たちが「WILDER MANN」なのだ。フランスの写真家、シャルル・フレジェは、2010年頃からオーストリア、イタリア、フランス、ルーマニアなどの、主に山岳地帯にある村々を訪ね、それら「獣人」たちのポートレートを撮影していった。本展は、その成果をまとめた写真集『WILDER MANN──欧州の獣人 仮装する原始の名残』(青幻舎)の刊行を機に開催されたもので、同シリーズから23点の写真が展示された。
「WILDER MANN」の姿はどことなく懐かしい。東北地方や沖縄の民間行事や宗教儀礼に登場する「カミ」や「オニ」たちにそっくりの仮装をしている場合が多いからだ。新国立美術館で開催中の「イメージの力──国立民族学博物館コレクションにさぐる」展を見たときも感じたのだが、文化と自然との境界領域に出現してくる存在を形象化するときの想像力は、世界中どんな場所でも共通しているということだろう。半分動物で半分人間という「WILDER MANN」は、その意味で普遍的なイメージであり、それらがまだヨーロッパでこれだけの生命力を保ち続けているということが、僕にとっては大きな驚きだった。
フレジェはあえて素朴な「記念写真」のスタイルで撮影することで、「WILDER MANN」たちが村の日常的な生活空間に溶け込んでいる様子を示している。その構えたところのないカメラワークが、逆にリアリティを生んでいると思う。
2014/04/01(火)(飯沢耕太郎)
山谷佑介「ground」
会期:2014/03/20~2014/04/06
POST[東京都]
2〜3月にYUKA TSURUNO GALLERYで「Tsugi no yoru e」を開催したばかりの山谷佑介が、続けざまに個展を開催した。POSTのギャラリー・スペースと店舗内に展示された6点の作品は、とてもユニークな方法で制作されている。
ライブハウスの床を撮影し、それをインクジェット・プリントで実物大に引き伸ばして、もう一度その床に貼り巡らす。数時間経つと、ダンスに興じる観客たちによって、プリントのペーパーは汚され、踏みにじられ、表面が剥離してぼろぼろになっていく。それをそのまま展示したのが今回の「ground」展で、画像の片隅に煙草の吸い殻や髪の毛などがそのまま貼り付いているのに、妙に心そそられた。コンセプチュアルな作品だが、物質性が異様に強く、光と影に還元された画像ではない直接的な「印画」を獲得するという意味では、「写真とは何か?」という根源的な問いかけに答えを出そうとする「写真論写真」のようでもある。
「Tsugi no yoru e」が、大阪のアメリカ村界隈を撮影したモノクロームのスナップショットだったので、今回のシリーズでの“飛躍”は驚きと言うしかない。山谷の写真家としての資質が、ひとつの方向ではなく、多方向的に全面開花しつつあることのあらわれとも言えるだろう。しばらくは、彼の動向から目を離せそうもない。
なお、展覧会にあわせて、lemon booksから同名の写真集が刊行された。「床」のシリーズだけではなく、同時期に撮影されたカラー・スナップ群もおさめられており、山谷の発想が彼自身の生活感覚にしっかりと裏付けられていることをよく示していた。
写真:201207132330-0522 www
2014/03/27(木)(飯沢耕太郎)
光山明 写真展 消えたこと/現れること
会期:2014/03/18~2014/03/29
gallery 福果[東京都]
「ニッポン顔出し看板紀行」シリーズを手がけている光山明の個展。これは観光地によくある顔出し看板を歴史的な事件の現場に設置して撮影した写真のシリーズで、今回は光山がもっとも関心を注いでいる足尾鉱毒事件を主題にした作品を発表した。
撮影地は事件の源となった足尾銅山をはじめ、そこから排出された鉱毒を沈殿させるために廃村にさせられた谷中村の跡地につくられた渡良瀬遊水地と谷中湖、そして請願のために上京しようとした農民を警察が弾圧した川俣事件の出発地である雲龍寺など。看板には、「強制破壊」や「谷中村廃村100年」、「鉱毒除外」という言葉とともに当時の事件が描かれており、いずれにも部分的に顔出しのための穴が開けられている。事件の痕跡を見出すことが難しい現在の風景に、光山は「顔出し看板」というキッチュな文化装置によって歴史を召喚しているのである。
なかでも今回とりわけ注目したのが、《川俣事件逮捕の図》である。副題に「小口一郎へのオマージュ」とあるように、この作品は同事件を主題にした小口一郎の版画を引用したもの。ただ、これまでの作品と異なっているのは、顔出しのための穴を開けるのではなく、画中で逮捕され連行される農民が被っている深編笠を半分に割り画面上に貼りつけている点だ。つまり画面の中の顔を見ることも、自分の顔を画面にはめ込むこともできないのである。
顔のはめ込みが現在に召喚した歴史を我有化することを意味しているとすれば、この《川俣事件逮捕の図》は、そうした歴史と現在の接点が失われているように見えなくもない。しかし別の見方をすれば、顔の入る余地がないがゆえに、逆説的に私たちの想像力が喚起されるとも言える。逮捕された農民たちは深編笠の下でどんな表情だったのだろうか。私たちはどうすれば苦難の歴史を分かち合うことができるのだろうか。むろん完全に同一化することはできないにせよ、光山が示しているのは、想像力によって歴史と向き合う姿勢や構えにほかならない。私たちにとって必要なのは、その身ぶりである。
2014/03/26(水)(福住廉)
北島敬三「UNTITLED RECORDS Vol.1」
会期:2014/03/21~2014/04/20
北島敬三がphotographers’ galleryを舞台に新たなプロジェクトに着手した。北海道から沖縄まで全国各地の風景を撮影し、それらを「年4回のペースで全20冊以上」の写真集として出版、同時に写真展を開催するという息の長いシリーズだ。その第一弾として『UNTITLED RECORDS Vol.1』(KULA)が刊行され、同名の写真展が開催された。
だが、写真展の会場に足を運んだ者は、いかにも北島らしい仕掛けに驚きかつ戸惑うのではないだろうか。写真集の方は1999~2003年に広島、青森、東京、横浜、長野、八戸、千葉、沖縄で撮影された写真群からなる。ところが、会場に展示されているのは「石巻2011.10.13」「大船渡2011.6.2」「女川2011.6.27」、つまり東日本大震災と津波によって大きく破壊された建物とその周辺を撮影した3枚の写真なのだ。
おそらく東日本大震災の被災地を訪れて撮影するという経験が、北島にそれまで撮り続けてきた「無名の記録」の意味を再考させる契機になったのだろう。写真を撮るという行為を「かつてそこにあったもの」の姿を留めるというだけでなく、現在も大きく変貌しつつある状況といかにアクティブにかかわらせていくのか、そのことへの真摯な問いかけが、このような引き裂かれた展示と出版物という形をとったのではないだろうか。プロジェクトが、今後どのように展開していくのかを見守っていきたい。
2014/03/25(火)(飯沢耕太郎)
熊谷聖司「EACH LITTLE THING」
会期:2014/03/17~2014/03/30
蒼穹舍[東京都]
このところの熊谷聖司の動き方を見ていると、水がどこからともなく湧き出し、流れていくような気持のよさを感じる。昨年から今年にかけて、かなりたくさんの数の個展を開催しているのだが、あまり無理をしているようには見えない。かつて「もりとでじゃねいろ」(1994)でデビューした頃の勢いのよさが、いい具合に脱力感のある表現に変質しつつあるのだが、写真そのもののクオリティは決して落ちてはいない。それどころか、その融通無碍の作風は、あまり類を見ないユニークなものに育ちつつあるのではないだろうか。
「EACH LITTLE THING」は、文字通り日々目にする「小さなもの」をつかみ取っては撒き散らした作品群。ひょいひょいと被写体をつまみ上げる手つきの軽やかさは、鮮やかとしかいいようがない。思わず笑ってしまうような写真も多く、俳句というよりは川柳の趣もある。展示作品には、サインペンでなんともいい味わいのドローイングや言葉の描き込みをしているものもあり、それが幸福感あふれる画像ととてもうまくマッチしていた。
だが、会場のコメントに次のようにあるのを読むと、熊谷が「軽み」だけに頼っているのではないことがよくわかる。
「2011.3.11以降 写真を撮ること それを発表することについて 考えてきた 『わたしの欲望とは何か』 それを常に見つめていきたい」
「欲望」というのは言うまでもなく、写真家にとっての基本的な欲求である「撮ること」、「それを発表すること」を指しているのだろう。そのことの意味を、熊谷はこのシリーズを編み上げながら、いつも生真面目に問い直し続けているのだ。なお「EACH LITTLE THING」は各22~23枚の写真がおさめられた10冊の写真集として刊行される予定だ。現在はそのうち5冊目まで刊行済みである。
2014/03/25(火)(飯沢耕太郎)