artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
野村浩「ヱキスドラ ララララ・・・」
会期:2013/06/08~2013/07/14
POETIC SCAPE[東京都]
野村浩は東京藝術大学在学中の1991年、第一回「写真新世紀」の公募に出品し、「エキスドラ」と題する作品で佳作に入賞した。僕はそのときの審査を担当していたので、その作品はよく覚えている。「ドラえもん」のバリエーションである等身大のキャラクターを、街の中に置いて撮影した写真を、白黒コピーしてコントラストを上げ、綴じ合わせた手づくり写真集だった。現実世界のリアルな描写という、従来の写真表現の枠組みからまったく外れた作品がいっせいに登場してくる時代の流れを、くっきりと指し示す作品だったことが、強く印象に残っている。
この「エキスドラ」のシリーズが、20年以上の時を隔ててよみがえった。今回の「ヱキスドラ ララララ・・・」も、現実世界をそのままストレートに描写する作品ではない。今回彼が被写体としているのは、Googleのストリートビューの画像だ。日本各地の路上の光景を、無作為に選び出し、そこに「ヱキスドラ」をシルエットで配している。基本は2体(ペア)で出現する「ヱキスドラ」たちは、たとえばラブホテルの入口にたたずんだり、「洋服の青山」の前の群衆に紛れこんだり、建築工事現場の前に列をつくったりして、その場所の持つ意味を軽やかに変換してしまう。ストリートビューはむろん仮想現実には違いないのだが、並みの都市風景写真を凌駕するようなリアリティを備えている。そこにもうひとつの仮想現実である「ヱキスドラ」たちがかぶさることで、そのリアリティがさらに増幅するように思えてくるのが興味深い。
展示にはさらに工夫が凝らされていて、会場の入口のドアとショーウィンドーには「ヱキスドラ」を配したギャラリーの建物のストリートビューの画像が、大きく引き伸ばされて飾ってあった。ストリートビューの画像を、まさにその場所に展示するというのは、なかなか面白い試みだと思う。
2013/06/09(日)(飯沢耕太郎)
梅佳代 展
会期:2013/04/13~2013/06/23
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
凡庸な日常生活にひそむ奇跡的な瞬間。それらを目ざとくとらえるセンスとスピードこそ、梅佳代の真骨頂である。
旧作と新作を合わせた300点あまりの写真を集めた本展には、まさしくそのスピード感あるセンスがあふれていた。被写体当人ですら気がついていないミラクルの瞬間には文字どおり笑いを堪えることができないし、それらを発見した梅佳代の無邪気であるがゆえに冷酷な視線を写真の向こう側に想像すると、よりいっそう笑いが募る。大量の写真を一気に展示すると単調になりがちだが、抑揚のある展示構成によって、それを巧みに回避していた点もすばらしい。
しかし梅佳代の写真は、時としてそれらが笑いを狙っているように見えかねないことから、たんなる「おもしろ主義」として退けられることが多い。事実、小中学生を撮影したシリーズには、子どもたちが積極的にレンズの前でおどけているせいか、ひときわその印象が強い。政治的な抵抗も社会的な批評性も欠落させたまま、非生産的な笑いに現を抜かしたところで、そこにいったいどんな意味や思想があるというのか、というわけだ。
だが、こうした物言いに通底しているのは、自らは何もしないまま、その内なる欲望を写真家に一方的に投影する、ある意味で非常に無責任な態度だ。梅佳代の写真にある奇跡的瞬間が被写体と撮影者のあいだで生成しているように、そもそもあらゆる芸術は表現する者とそれらを受け取る者とのあいだのコミュニケーションである。だとすれば、批評の可能性もまた、送り手と受け手のあいだに内在するのであり、それが開花するかどうかは、受け手による積極的な解釈にかかっている。したがって、たとえ「おもしろ主義」であったとしても、そこに面白さ以外の価値を見出したいのであれば、当人がそうすればよいのである。梅佳代の写真に思想が欠落しているわけではない。それらに思想を読み取ろうとする批評的な働きかけが欠落しているのだ。
梅佳代の写真の最も大きな批評性とは、それらが私たちの視線を決定的に塗り替えてしまった点にあると思う。写真を見ながら会場内を歩いていると、監視員の座る椅子の下に用意された防災用のヘルメットでさえ、なにやら梅佳代の写真のなかから飛び出てきたアイテムのように見えてならない。何より本展を見終わった後、私たちは会場の外の日常的な風景のなかに奇跡的な瞬間を探して視線を隈なく走らせている自分に驚くはずだ。今までは不覚にも気が付かなかったけれど、世界にはおもしろい瞬間が満ち溢れているのかもしれない。梅佳代の写真を経験した私たちにとって、世界はそれまでとはまったく異なる風景として立ち現われるのである。
重要なのは、その視線をもってすれば、世界全体を塗り替えることができるかもしれないという可能性である。それを現実化しうるかどうかは問題ではない。そのような可能性のひろがりを肯定的に受け止めることができる実感があるかないか、焦点はその一点に尽きる。「おもしろ主義」として一蹴することは、もはやできまい。
2013/06/05(水)(福住廉)
森山大道「1965~」
会期:2013/06/01~2013/07/20
916[東京都]
916の大きな会場に、大判プリントを中心に森山大道の100点以上の作品が並んでいた。美術館並みのスケールで、しかもかなりわがままなチョイスで展示を構成できるこの会場の特性がよく活かされた展示といえるだろう。
展示作品は1965年2月号の『現代の眼』に発表され、デビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、1968)の巻末にも掲載された「胎児」のシリーズから近作まで多岐にわたる。1960年代末~70年代初頭に撮影されたカラー写真が、大小のモノクローム・プリントに挟み込まれるようにして展示されているのも面白い。会場に掲げた解説の文章(飯沢耕太郎「森山大道──ラビリンスの旅人」)でも指摘したのだが、「湿り気」「浮遊感」「部分/断片化」という特質を備えた森山の作品世界を彷徨い歩く愉しみを、たっぷりと味わい尽くすことができた。
おそらく916を主宰する写真家・上田義彦の好みが、作品のセレクションに強く働いているのではないだろうか。目につくのは、女性を被写体にした、ポートレート、ヌード、スナップショットが、かなり多く選ばれていることだ。ハイヒール、網タイツ、花などを含め、森山が独特の「部分/断片化」の眼差しで切り出してきた「女性」のイメージは、エロティックな連想に見る者を誘い込む。視覚と触覚と嗅覚とが見極めがたく絡み合ったエロスの力を、上田のセレクションがとてもうまく引き出していると思う。
さらにいえば、その匂い立つようなエロティシズムは、上田の写真にはどちらかといえば欠けているところでもある。そのあたりの微妙な綾が、写真展の成立にかかわっていそうな気もする。
2013/06/01(土)(飯沢耕太郎)
淺井愼平「HŌBŌ 星の片隅」
会期:2013/05/30~2013/07/01
キヤノンギャラリーS[東京都]
「HŌBŌ」は淺井愼平が1997年に刊行した写真集のタイトル。旅先で切り取った光景を集成した写真集に「あちこち放浪する人」(もともとは日系移民が使っていた言葉だという)を意味するこの言葉はぴったりしている。それから15年以上を経て、淺井はキヤノンギャラリーSの10周年記念企画の一環として開催された展覧会で、同じタイトルを使った。今回は2011~13年にアメリカ・テキサス州、沖縄、ニュージーランドなどで撮影された近作のみで構成されている。やはり旅と移動が、写真家としての彼の基本的な撮影のスタイルであることに変わりはないことがよくわかる。
鋭いナイフですっと切り抜かれたような、これらのスナップ写真には、ガラス窓や鏡に映る自分の姿以外には「人」の姿がほとんど写り込んでいない。かといって、淺井の写真が「風景写真」なのかといえば、それとも違う。そこには人間の残した痕跡(足跡、ペンキの塗りむら、グラフィティ、古写真、看板など)が、たっぷりと写っているからだ。われわれはそれらの写真を見ながら、そこで何が起こったのか、あるいは起こりつつあるのかを想像する。そんな見えない物語を浮かび上がらせるための手がかりを、淺井は巧みに画面に配置していく。
このような写真は、むしろ「シーン」の集積といえるのではないだろうか。淺井は少年時代から映画に魅せられ、早稲田大学在学中は映画監督になることを夢見ていたという。旅先で好みの景色や事物を見出したとき、彼はあたかも監督が映画の「シーン」を構築するように、シャッターを切っているのだろう。実際に彼の写真の一枚一枚を組み合わせていくと、そこからさまざまな映画(物語)が生まれ落ち、育っていくようにも見えてくるのだ。
なおキヤノンギャラリー銀座では同時期(5月30日~6月5日)に「東京暮色─『早稲田界隈』より」が開催されていた。こちらはしっとりとしたモノクローム写真中心の展示。早稲田大学周辺の時の流れや澱みを、丁寧に写しとっている。
2013/06/01(土)(飯沢耕太郎)
濱田祐史「Pulsar + Primal Mountain」
会期:2013/05/07~2013/06/29
フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]
濱田祐史は1979年大阪府生まれ。日本大学芸術学部写真学科を2003年に卒業後、出版社勤務を経てイギリスに滞在し、本格的に写真家としての活動を開始する。東京での初個展となる今回の展示には、「Pulsar」と「Primal Mountain」という2作品が出品された。
「Pulsar」は身近にある光を可視化しようとする作品。風景の一部(かなり大きなパートを占めることもある)に射し込む光が、スモークの効果で、幾筋かの光束、あるいは光のプールのような状態として見える様子が、繊細に仕上げられたカラープリントに定着されている。たまたま公園で撮影していたときに、ブランコを漕いでいた少女が「この光はどこからくるの?」と呟いたのを聞いたのが、制作のきっかけになったという。「Primal Mountain」は銀紙のようなもので架空の山の形をつくり、それらを、空を背景として撮影した連作である。こちらはある日友達から、「美しいけれど何やら嘘っぽく」感じる山のポストカードが届いたことから思いついたプロジェクトだ。
両方とも発想の妙があり、それを形にしていく手際も悪くない。だが、どこか綺麗ごとに終わってしまっているところが、なんとも歯がゆく感じてしまう。作品としてすっきりとまとめるのを優先するよりも、もう少しもがいてほしいとも思う。写真家としての潜在能力はかなり高そうなので、それは決して無い物ねだりではないはずだ。
2013/05/31(金)(飯沢耕太郎)