artscapeレビュー
平川典俊「木漏れ日の向こうに」
2012年07月15日号
会期:2012/04/14~2012/06/10
群馬県立近代美術館[群馬県]
僕は以前、平川典俊について「なぜ東京で『東京の夢』を見ることができないのか」という文章を書いたことがある(『déjà-vu』19号、1995年4月)。そのなかで、平川のことを「知的なアラキ」なのではないかと論じた。彼の「東京の夢」(1991年)、「At a bedroom in the middle of night」(1993年)、「女、子どもと日本人」(1994年)などの写真作品に見られる、モデルの女性の性的なイメージを直接的に開示するのではなく、「じらし」や「ほのめかし」によって暗喩的に表現していく手法が、荒木と共通しているのではないかと考えたのだ。
その印象は、今回群馬県立近代美術館で開催された、彼の日本の公共美術館では初めての大規模な個展を見てもそれほど変わらなかった。ただ、平川自身がカタログに掲載されたアート・リンゼイとの対談「不確定の目撃者」でも強調しているように、彼と荒木とは「アートへのアプローチに於いては全く違った位置にいる」こともよくわかった。荒木の写真が、あくまでも彼と被写体となる女性との直接的な(私的な)関係を基点にしているのに対して、平川のモデルたちは彼のプロジェクトの一要素としてのみ取り扱われている。彼が常に問題にしているのは彼女たちの社会的な違和感や不安感であり、さらにその写真を見る観客の、抑圧され、歪められた反応のあり方なのだ。また平川が提示するイメージは、彼自身による大量のテキストによって、二重、三重に取り囲まれており、絡めとられており、観客の思考をその文脈によって方向づけていく。多くの場合、テキスト抜きに、いきなり物質化した性的イメージを突きつけてくる荒木とは、その点においても対照的だ。
それでも、平川がなぜこれほどまでに、性的な感情を刺激し、揺さぶるような写真にこだわり続けているのかという疑問は残った。彼は、自分は「写真に固執しているのではない」と何度も述べているが、僕のような立場から見ると、彼の写真のたたずまいは実に魅力的なのだ。昆虫が花の蜜に引き寄せられるような心理的な罠が、至るところに仕掛けられていて、知らず知らずのうちに妄想の糸を紡ぎ出すように導かれてしまう。他のヴィデオ作品やインスタレーション作品に比べても、彼の写真作品の巧妙さ、独特の喚起力は際立って見える。平川典俊は天性の写真家なのではないだろうか。少なくとも、彼ほど写真の力を熟知し、効果的に使用しているアーティストは他にあまりいないのではないかと思う。
2012/06/05(火)(飯沢耕太郎)