artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

元田敬三「御意見無用」

会期:2021/08/26~2021/10/24

入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]

8月に、ここ3年余りの「写真日記」を集成した新作写真集『渚橋からグッドモーニング』(ふげん社)を出したばかりの元田敬三が、入江泰吉記念奈良市写真美術館で意欲的な写真展を開催した。展示の最初のパートに、1996年に『大阪新聞』に連載した「ON THE STREET 出会い」と題する写真入りのコラムを拡大して掲げている。大阪の路上で出会った人物たちに声をかけて撮影した写真とインタビューをまとめたものだが、被写体へのアプローチの仕方、写真そのもののたたずまいが、会場に並ぶ新作(2016〜21年撮影)とほとんど変わっていないことに驚きと嬉しさを感じた。初心を貫き通すというのはそれほど簡単ではないはずだが、元田はそれを見事にやり切っている。

会場構成にも、元田らしいスタイルが貫かれていた。33点の黒白写真(1点のみカラー)をロール紙に大きく引き伸ばし、フレーム入りの1点を除いて壁に直貼りしている。「ON THE STREET, OSAKA」と同様に、写真撮影の前後の状況を細やかに記したテキストを添えていることにも、彼にとっても原点回帰といえる展示だったことが表われている。ロックンローラー、チョッパーのバイクライダー、全身刺青の男、ツッパリの中学生など、街のなかでその存在を全身で主張しているような人物たちに声をかけて撮影しているのだが、その選択の背景に、彼なりの美学と哲学があることが写真からしっかりと伝わってきた。『渚橋からグッドモーニング』は、いわば日常の厚みへの着目というべき写真集だった。その対極というべき今回の展示からは、元田の作品世界の広がりを感じとることができた。写真家として、ひとまわりスケールの大きな世界に出て行きつつあるのではないだろうか。

2021/09/23(木)(飯沢耕太郎)

平本成海「GOOD NEWS」

会期:2021/08/16~2021/10/02

PGI[東京都]

当時は「H/N」という名前で発表していた平本成海の作品を、ガーディアン・ガーデンの写真「1_WALL」展の審査で初めて見たのは2017年だった。その後、彼は2019年の第20回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞し、2020年に受賞展を開催した。今回のPGIでの個展はそれに続くものである。

平本は2016年から、住んでいる千葉のローカル紙の記事から切り抜いた写真を用いて、「一日一点」のコラージュ作品を制作するようになった。それらをその日のうちにInstagramにアップすることを日課としている。今回の個展では、もう4年余りも続くその制作活動から産み落とされた写真群を、フレームに入れて淡々と壁に並べていた。それとは別に、写真を元にテキストを作成する試みもあって、そのごく一部が展覧会のリーフレットの裏に掲載されていた。また、写真家・作家の清水裕貴が平本の作品から「Diary: 平本成海」という日記形式のテキストを綴ったものもあり、こちらはPGIのホームページに掲載されている。

丹念に、よく考えられた制作行為の積み重ねであり、一見ラフなようで「1px単位の繊細な編集がされている」という作品の精度も、以前よりも格段に上がってきた。日常の出来事が孕む「無気味さ」が、じわじわと滲み出てくる作品が多い。ただ、写真作品とテキストの関係については、もっとやりようがあるのではないかと思う。清水裕貴とのコラボレーションも悪くはないが、平本自身の言語能力の高さをもっと活かして、組織的に展開するべきではないだろうか。たとえば、安部公房が『箱男』(1973)で試みた、写真とテキストとのコラージュ的な併置を、デジタル時代のメディア表現として再編するようなこともできそうな気がするのだが。

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平本成海展 narconearco|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年04月15日号)

2021/09/21(火)(飯沢耕太郎)

青森 1950-1962 工藤正市写真集

発行所:みすず書房

発行日:2021/09/16

工藤正市(1929-2014)は青森市に生まれ、1946年に青森県立青森工業学校機械科を卒業した。その後、東奥日報社に入社し、印刷部を経て写真部に所属する。1950年代になると、工藤は美術展の写真部門やカメラ雑誌の月例写真欄に積極的に応募するようになり、入賞を重ねて、写真家として名前を知られるようになっていった。特に、1952-1954年頃の『カメラ』月例第一部での活躍はめざましく、1953年には、応募作家の年間最優秀賞であるベスト10の第1位を獲得する。ちなみに、この時のベスト10の第3位は川田喜久治、第6位は東松照明だった。

1960年代以降は、新聞社の仕事に専念し、写真作品の応募は封印するようになった。そのため、彼の存在はほとんど忘れ去られたままになっていた。ところが、没後の2018年に、荷物の整理をしていた娘の工藤加奈子が、押入れの奥からネガフィルムが入った大小の段ボール箱を発見し、写真家・工藤正市の仕事にふたたび注目が集まるようになる。スキャンした画像をInstagramに上げたところ、日本だけではなく世界各地から大きな反響があり、2021年6月には東京・馬喰町のKiyoyuki Kuwahara Accounting Galleryで写真展(「portraits 見出された工藤正市」)も開催された。本書はその工藤の残した写真を300ページ以上にまとめた、決定版というべき写真集である。

工藤が土門拳や木村伊兵衛が主導した「リアリズム写真」の運動に強い影響を受けていたことは間違いない。その被写体の選択、眼差しの向け方において、同時期に全国各地に出現してきていた「リアリズム写真」の信奉者たちと、特に違いがあるわけではない。だが、被写体を突き放すのではなく、むしろ同化していくような視点のとり方、写真の舞台となる街や農漁村の空気感を大事にし、それを丸ごと掴みとるような撮影のあり方に、工藤の写真家としての姿勢が明確にあらわれている。「リアリズム写真」の運動そのものは、5年余りでピークを迎え、1950年代後半以降は退潮に向かう。だが、工藤の同期生というべき川田喜久治や東松照明は、「リアリズム写真」をベースとして、次のステップへと歩みを進めていった。1950年代の写真表現の展開の厚みを確認するという意味でも、重要な写真群といえる。

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連続企画「都築響一の眼」vol.4/「portraits 見出された工藤正市」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年08月01日号)

2021/09/20(月)(飯沢耕太郎)

リャン・インフェイ「傷痕の下」

会期:2021/09/18~2021/10/17

SferaExhibition[京都府]

写真は、「出来事の真正な記録」としてのドキュメンタリーではなく、「イメージの捏造」によって、いかに告発の力を持ちうるのか。

昨年のKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の公募企画でグランプリを受賞した、中国のフォトジャーナリスト、リャン・インフェイ。今年は同写真祭の公式プログラムに参加し、より練り上げられた展示を見せている。

リャンの「傷痕の下」は、性暴力を生き延びたサバイバーへのインタビューを元にした写真作品。教師や上司、業界の有力者など年齢も社会的立場も上位の男性から性被害を受けた時の恐怖、不快感、憎悪、屈辱感、誰にも言えない抑圧、長年苦しめるトラウマが、悪夢のようなイメージとして再構築される。首筋をなめる舌はナメクジに置換され、助けを呼べず硬直した身体は、ベッドに横たえられ、空中で口をパクパクさせる魚で表現される。女性たちの顔は隠され、身体は断片化され、「固有の顔貌と尊厳の剥奪」を示す。また、「人形」への置換は、抵抗や告発の言葉を発さず、意のままに扱える「所有物」とみなす加害者の視線の暴力性を可視化する。



リャン・インフェイ《Beneath the scars PartII, 4》(2018)


展示会場は、半透明の壁で仕切られた個室的なスペースに分割され、両義的な連想を誘う。それは性暴力の起こった密室であると同時に、プライバシーの安全が保障された、カウンセリングのための守られた空間でもある。



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]


だが、いずれにせよ「外部からの遮断」「隠されるべきもの」という構造を外へと開くのが、「性被害について語る音声」の演劇的かつ秀逸な仕掛けだ。被害者の肉声ではなく、インタビューを再構成したテクストを朗読する声が写真とともに聴こえてくる。その声が複数性を持つことに留意したい。女性の声だけでなく、男性が読む声も混ざることは、「女性対男性」という単純な二項対立の図式を撹乱し、分断や敵対ではなく、体験の共有を志向する。同時にその仕掛けは、「性暴力の被害者は女性」という思い込みを解除し、「(性自認も含め)男性も被害者になりうる」ことを示す。性暴力は「一方のジェンダーに関する問題」ではなく、「あらゆるジェンダーにとっての問題」であることを音響的に示すのだ。

加えて、朗読する声には、年代差や関西弁のイントネーションなど、さまざまな差異が含まれる。少女や若い女性の声、中年女性の声といった年代差には、「10代、20代に受けた傷を後年になって語れるようになった」時間の経過を示す意図ももちろんある。だがより重要なのは、「被害者の代弁」を特定のひとりに集約させず、声を一方的に領有しない倫理的態度である。バトンを手渡すようにさまざまな声によって紡がれていく語りは、あるひとつの固有の体験と苦痛について語りつつ、その背後に無数の声が潜在することを可視化していく。

「出来事の決定的瞬間に立ち会えない」写真の事後性という宿命の克服に加え、写真と語りの力によって「体験を想像的に分かち合うこと」へと回路を開く、秀逸な展示だった。


KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2021/09/19(日)(高嶋慈)

ダニエル・マチャド『幽閉する男』

発行所:冬青社

発行日:2021/07/20

ダニエル・マチャドの「幽閉する男」展(銀座ニコンサロン)を見たのは2009年3月で、それから10年以上が過ぎている。没落したウルグアイ・モンテビデオの名家の、廃墟じみた屋敷に独り住む男の姿を捉えた写真群の、あたかも「ホルヘ・ルイス・ボルヘスやガブリエル・ガルシア=マルケスなど、中南米文学のテーマになりそうな」描写は、とても印象深く、記憶に残るものだった。ウルグアイ出身で、立教大学ラテンアメリカ研究所研究員を務めながら、写真家としても活動するマチャドは、展覧会の後、すぐに写真集を刊行する予定だったが、いろいろな事情でその望みを果たすことができなかった。結果的に、この時期に写真集が出ることになったわけだが、イメージの熟成という意味では、逆によかったのではないかと思う。

2001-2007年に撮影されたこの写真シリーズの主役は、むろん自分で自分を「幽閉」してしまった中年男である。だがそれ以上に、荒廃しつつも奇妙な華やぎを残した屋敷の部屋のたたずまいに魅力がある。古色蒼然とした家具が並び、崩れかけた壁には家族の古い写真が額に入れて飾られ、机の上に積み上げられた本には埃がかぶっている。かと思うと、部屋にはまったくそぐわないポップな人形が飾られていたりして、微妙に歪んだ磁場が生じているのだ。マチャドは撮影当時、ウォーカー・エヴァンズの『アメリカン・フォトグラフス』(1938)に強い影響を受けていたという。たしかに部屋の家具や調度品を、即物的に、あくまでも客観的に捉える視線はエヴァンズと共通している。だが、その眼差しが不吉な死の匂いが浸透した部屋とその住人に注がれると、ラテン・アメリカ特有の「魔術的リアリズム」に転化してしまうのが面白い。閉塞感が漂い、非日常的な状況が日常化しつつあるコロナ禍の現在の空気感にも、通じるものがありそうだ。

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ダニエル・マチャド「幽閉する男」 |飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年04月15日号)

2021/09/19(日)(飯沢耕太郎)