artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

村上賀子「Known Unknown」

会期:2021/11/09~2021/11/22

ニコンサロン[東京都]

村上賀子(むらかみ・いわうこ)は、1986年、宮城県仙台市出身。2012年に武蔵野美術大学大学院造形研究科修了後、コンスタントに写真作品を発表するようになった。これまで、折り紙とそれにまつわる折り手の記憶を写真とテキストで浮かび上がらせた「Untitled Origami」(2015-)、「記憶の生成の場」としての家をいくつかの角度から撮影した「Home works 2015」(2015)などのシリーズを制作・発表してきたが、今回の「Known Unknown」も、発想から実際の展示まで、丁寧に手順を追って組み上げられたいい作品だった。

6×7判の中判カメラで撮影されているのは、女性のいる室内の光景である。それらの写真群は、彼女たちが「自宅などで(カメラがないかのように)いつも通りに過ごす」という設定で撮影されたものなのだという。村上はコロナ禍のステイホームの時期に、セルフポートレイトの延長のように、部屋にいる同世代の女性たちにカメラを向けるようになった。そこでは、通常のポートレイトのような、写真家と被写体との間の緊張感を孕んだ自己と他者との関係は解体し、自分であるとともに他人でもある(あるいはその逆の)、両義的だが、奇妙なリアリティを備えた存在が出現してくる。カメラをセットして、被写体となる女性たちに自由に動いてもらい、ストップ・モーションをかけることで、シャッターを切るタイミングを生み出しているということだが、その選択が的確なので、村上の意図がきちんと伝わる写真群になっていた。「見覚えのある自分と、見覚えのない自分」「想像通りの自分らしさ」「なぜ私だと言えるのだろう」といったテキストと、展示されている写真との間の関係・配置の仕方も、とてもうまくいっていたと思う。

村上は武蔵野美術大学で山崎博の教えを受けたのだという。コンセプチュアルな指向性を貫きながら、偶然性を取り込み、作品にふくらみを持たせるあり方は、たしかに山崎と共通している。派手な仕事ではないが、いい鉱脈を見出しつつあるのではないだろうか。

2021/11/19(金)(飯沢耕太郎)

尾黒久美「HESTER」

会期:2021/10/20~2021/11/20

POETIC SCAPE[東京都]

尾黒久美は1995年に渡英して写真を学び、99年からはベルギーに在住して写真家としての活動を続けている。どちらかといえば寡作で、日本での個展も9年半ぶりということだが、着実に自分の世界観を投影した作品を制作し続けている作家といえる。

尾黒の作品の多くには、少女たちが登場してくる。だが、顔をはっきり見せることを注意深く避けているためもあって、彼女たちは人間というよりは人形めいた趣で写っている。尾黒自身も「生身の人間を使って人形遊びをしているようなもの」と表現しているようだ。だが、この「人形遊び」には、単なる絵空事ではないリアリティがある。投げ出された手足、長く伸びた、それだけが別の生きもののような髪の毛、時には不適切な着方をした衣装、断片的で儀式的ともいえるような身振り──それらが微妙な操作によって組み合わされるとき、謎めいた、どこかエロティックでもある雰囲気が生じてくる。演劇的な世界の表出には違いないが、それが最後まで全うされることなく宙吊りになっていることで、逆に観客の想像力を強く刺激するのだろう。

日本ではあまり見ないユニークな作風が、どのように展開していくのかが興味深い。尾黒の作品には、ベルギー(ヨーロッパ)の風土性が、色濃く反映しているようにも感じる。彼女が日本で制作したらどうなるのだろうか。そんなことも考えてしまった。

2021/11/17(水)(飯沢耕太郎)

松江泰治「マキエタCC」

会期:2021/11/09~2022/01/23

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

松江泰治の展覧会を見て、ひさしぶりに視覚的興奮を満喫した。今回は映像作品も数点あるが、「CC」と「マキエタ」の2シリーズに絞って展示している。2001年から制作されている「CC」は、空港などに表示されている「シティー・コード」(たとえば東京ならTYO)をタイトルにしたシリーズで、さまざまな都市風景を俯瞰的に撮影している。一方、2007年に制作が開始された「マキエタ」(ポーランド語で模型の意味)にも「シティー・コード」が付されているが、こちらは都市や自然の景観を模したジオラマのような展示物を撮影した写真群である。

興味深いのは、撮影の時点でも、展示においても、松江がそれらを区別しようとしていないことで、その結果、観客はどちらが本物でどちらが模型なのか判断がつかない境目に立つことになる。むろん、仔細にその細部に目を凝らせば、天然なのか模造品なのかは明らかなのだが、やや離れて作品を見れば、その差異は曖昧になってしまう。それを可能としているのは、それらがどちらも写真という装置を介して平面化されているためだろう。つまり、今回松江がめざしたのは、フラットネスとパンフォーカスという写真特有のものの見え方を、極限まで突き詰めることだったのではないだろうか。そのもくろみは見事に成功していて、写真の画面における画像の等価性という、これまでも多くの写真家たちの目標になっていた視覚的な指標が、これ以上ないほど純粋な形で表われてきていた。

むろん、松江はこれから先もたゆみない写真的視覚の探究を続けていくはずだが、まさに「ミッドキャリア」の展示として、彼にとっても一つの区切りとなる展覧会になったのではないかと思う。観察していると、観客の会場滞留時間が相当に長い。個々の作品に、画面の細部まで見尽くさずにはおれなくなるような力が備わっているためだろう。

2021/11/17(水)(飯沢耕太郎)

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赤鹿麻耶「ときめきのテレパシー」

会期:2021/10/14~2021/11/24

キヤノンギャラリーS[東京都]

赤鹿麻耶は2011年に「風を食べる」で第34回写真新世紀グランプリを受賞後、コンスタントにユニークな作品を発表し続けてきた。今回のキヤノンギャラリーSでの個展は、規模的にも、内容においてもその集大成となるものといえるだろう。

赤鹿にとっての「良い写真」とは、「初めて触れるような『ときめき』」を感じさせるものだという。さらにその先には「信じることで生まれる『テレパシー』」がある。そこには、作品を制作して終わりではなく、そこで生み落とされたメッセージを、観客にしっかりと伝えなければならないという赤鹿の強い思いがあるのではないだろうか。そのコミュニケーションへの欲求が、やや過剰とさえ思えるようなサービス精神として展開される時、観客を巻き込んでいくようなエネルギッシュな作品群に結実していく。今回の展示でも、30点余りの大判プリントを中心に、コラージュ、映像作品などが並び、めくるめく視覚的なスペクタクルが実現していた。

赤鹿の写真には、演出して作り込んだポートレイト、パフォーマンスの記録と、出会い頭のスナップ写真の二つの系譜がある。本展でも両方の傾向が混じり合っているのだが、どちらかというと後者の比率が高くなってきているように感じる。予測不可能な偶発的なイメージを取り込む力が増してきたことで、固定観念に大きく揺さぶりをかけるような指向性が、より強まってきているのだ。日本だけでなく中国で撮影された写真も多く、「『2021年の私』がセレクトした良い写真たち」のあり方がくっきりと浮かび上がってきていた。そろそろ「風を食べる」以降の仕事を、写真集にまとめてもいい時期が来ているのではないだろうか。

2021/11/15(月)(飯沢耕太郎)

写真新世紀 2021

会期:2021/10/16~2021/11/14

東京都写真美術館地下1階展示室[東京都]

キヤノン主催で、1992年から開催されてきた「写真新世紀」展(公募のスタートは1991年)は、本年度で終了することになった。立ち上げの第1回展から2009年まで審査員としてかかわってきた筆者にとっては、感慨深いものがある。本年度の審査員はライアン・マッギンレー(写真家)、オノデラユキ(写真家)、清水穰(写真評論家)、グエン・リー(シンガポール国際写真祭 アーティスティック・ディレクター)、椹木野衣(美術評論家)、安村崇(写真家)、横田大輔(写真家)の7名、優秀賞を受賞したのは賀来庭辰「THE LAKE」(椹木野衣選)、千賀健史「OS」(オノデラユキ選)、テンビンコシ・ラチュワヨ「Slaghuis Ⅱ」(清水穰選)、中野泰輔「やさしい沼」(ライアン・マッギンレー選)、光岡幸一「もしもといつも」(横田大輔選)、ロバート・ザオ・レンフイ「Watching A Tree Disappear」(グエン・リー選)、宛超凡「河はすべて知っている――荒川」(安村崇選)だった。

結果的には、11月12日の公開審査会で賀来庭辰の「THE LAKE」がグランプリに選出された。だが、他の作品との差はあまり感じられず、どの作品が選ばれたとしても、胸のすくような成果になるとは思えなかった。優秀賞受賞作は、それぞれきちんと自分のやりたいことを成し遂げ、写真作品(賀来、レンフイは動画による映像作品だが)としてのレベルを保っている。だが、同館の3階展示室で開催されていた「記憶は地に沁み、風を越え」と同様に、表現上の冒険や実験意欲よりも「個人的な体験を基点として、他者との関係のあり方を丁寧に模索し、写真作品として再構築していこうとする方向性」が強まってきているように感じる。中野や光岡のように、画像をかなり改変している作家もいるのだが、それも予測の範囲におさまっているのだ。1990年代以来、デジタル化、アート化の時代の最前線を駆け抜けてきた「写真新世紀」展が、「地に足をつけた」ものになってきているのはやや寂しい気もする。だが逆にいえば、写真家、アーティストたちの表現意欲を受け止める器として機能してきた同展が、その役目を果たせなくなってきたことが、終了という判断に結びついたということではないだろうか。

公式サイト:https://global.canon/ja/newcosmos/

2021/11/07(日)(飯沢耕太郎)

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