artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
ジャム・セッション 石橋財団コレクション×森村泰昌 M式「海の幸」─森村泰昌 ワタシガタリの神話
会期:2021/10/02~2022/01/10
アーティゾン美術館[東京都]
リニューアル・オープンしたアーティゾン美術館(旧・ブリジストン美術館)での、最初の写真作品を中心とした展覧会は、森村泰昌の大規模展だった。同美術館が所蔵する青木繁の「海の幸」(1904)を起点として、「M式」のジャム・セッションを繰り広げる本展は、まさに森村の面目躍如といえる好企画である。
森村はこのところ、日本の近代美術と自分自身のアーティストとしての軌跡を重ね合わせるような作品を発表してきた。本展も例外ではなく、彼の高校時代の美術部の海辺の合宿の記憶を辿りながら、青木の「海の幸」に描かれた「時間」のなかに分け入っていくという構成をとっている。「『私』を見つめる」「『海の幸』鑑賞」「『海の幸』研究」「M式『海の幸』変奏曲」「ワタシガタリの神話」の5部構成による展示は、緊密に練り上げられており、エンターテインメントとしての要素を取り込みつつも、日本人と日本近代美術史への鋭い批判も含んでいて、見応え充分だった。
注目すべきことは、コロナ禍という事情もあったようだが、いつもは「チーム」を組んで共同制作する森村が、衣装、メーキャップ、撮影、構成までをほぼひとりで行なったということである。だがそのことによって、画面作りの強度が高まり、いくつかのテーマに集中していく制作のプロセスが、より緊張感を孕んで浮かび上がってきた。「海の幸」を元にした10点の連作のスケッチ、資料、記録映像(監視カメラを使用)などをふんだんに提示し、いわば「舞台裏」をも同時に公開することで、観客を森村の作品世界に巻き込んでいくという意図が見事に成功していた。
それにしても、最後のパートで上映されていた、森村が青木繁本人に扮して、大阪弁で語りかける映像作品《ワタシガタリの神話》の完成度の高さは、凄みさえ感じさせる。国立国際美術館で2016年に開催された「森村泰昌:自画像の美術史 『私』と『わたし』が出会うとき」で上映された映像作品《「私」と「わたし」が出会うとき─自画像のシンポシオン─》を見た時にも驚嘆したのだが、森村の脚色、演出、演技のレベルは、とんでもない高さにまで上り詰めようとしている。
関連レビュー
森村泰昌「自画像の美術史 「私」と「わたし」が出会うとき」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年06月15日号)
2021/10/03(日)(飯沢耕太郎)
『風景』のつくりかた
会期:2021/09/28~2021/10/03
目黒区美術館区民ギャラリーB[東京都]
「『風景』のつくりかた」は東京藝術大学大学院美術研究科美術専攻先端芸術表現領域出身の大槻唯我、鈴木悠生、寺田健人の三人の写真家のアーティスト・コレクティブによる展覧会。会場で配布されたハンドアウトには「『風景』とは何か」という問いに続いて「身近で当たり前のものとして享受している現代の『風景』とはそもそも何か」「私たちは『風景』をどうつくっているのか」「写真として写しているものは何か」という三つの問いと、「地域社会や都市空間において人間の営為によって生じた痕跡を『まなざす』ことによって、新たな「風景」の獲得を試み」るという宣言が掲げられている。
大槻、鈴木、寺田の順に並ぶ展示空間は作家ごとに区切られており、突き当たりにある寺田の展示まで観た観客はそこで折り返し、再び鈴木、大槻の展示空間を通過して会場を出ることになる。
観客がまず、そして最後に再び目にする大槻唯我《Study of Abandoned Mines and Forests》(2020-)は、いまや国内ではひとつを除いてすべてが閉鎖された金属鉱山をテーマにした写真群。有害な排水を処理する鉱滓ダムや不要な土砂を捨てた堆積場、そして破壊された森の植生などを写した写真が並ぶ。「『風景』のつくりかた」と展覧会のタイトルが大きく記された入口を入ってすぐの展示が大槻のものであるインパクトは大きい。展示の冒頭から、都市部に住む私の生活こそが、私の目には入らないところでこのような「風景」をつくり出しているのだということが突きつけられ、展覧会のタイトルの意味するところについて改めて考え込んでしまった。
一転、鈴木悠生《TOKYO TRANSPARENT BOUNDARIES》で鑑賞者が目撃するのは、鈴木が「生まれ育ち日常を過ごす東京という都市の風景」。テーマは境界ということで、フェンスや道路、川、陸上競技のトラックなどの境界がある風景に、ところどころその風景のどこに「境界」があるのか判然としない写真も混じっている。例えばある写真では境界を形成していた樹木が別の写真では単に風景の構成要素の一部となるなど、写真間で連続したり変化したりする要素が「境界」とは何かという思考を誘う。鈴木の撮る都市の風景と大槻の撮る山間部の、都市からは排除された風景。その境界はどうつくられているのかなどとも思う。
展示空間最奥部の寺田健人の連作写真《New Shelter》はタイトルの通り公衆トイレをテーマにした作品。排泄、SNS、食事、クルージング。「公に開かれた私的空間」である公衆トイレを「様々な欲望の実践の場所」として捉える寺田の写真は、公衆トイレの外観やトイレ内部での行為、あるいはその痕跡を捉えたものだ。
一方、寺田の展示空間の中央に置かれた映像インスタレーション《Act in public toilet》は「①トイレに残された痕跡を写真で撮り収集家のように集め、②トイレに残された痕跡から浮かび上がる人物像を想像して演じるというパフォーマンス」を映したもの。映像が映し出されているディスプレイは四方をパーティションで囲まれていて、鑑賞者はトイレの個室を上から覗き込むようにして(展示の1枚目に置かれた写真のように盗撮めいたアングルから!)映像を鑑賞する。
映像は三種類あり、ひとつは男がトイレの個室で歯を磨いている映像。残る二つはともにトイレを掃除している映像で、一方はインスタライブとして配信されていたもののようだ。歯を磨く男はカメラを意識することもなく、まさに盗撮風の映像なのだが、トイレ掃除の映像については、途中まではやはり盗撮風に見せつつ、やがて男がカメラに向かってジェスチャーをして見せたりカメラの位置を調整したりすることから、それが「やって見せている」行為であることがわかる趣向になっている。インスタライブに関しては言わずもがな。男と鑑賞者との関係が映像によって少しずつ違っているのが巧妙だ。
《Act in public toilet》を見終え、再び《New Shelter》に戻ると、鑑賞者は二つのことに気づくことになる。ひとつは展示空間自体が《Act in public toilet》と入れ子構造をなすトイレの個室に見立てられていること(展示の壁面は公衆トイレのパーティションにそっくりである)。展示空間はアーティストの、そして鑑賞者の欲望の発露する空間でもある。もうひとつは、《Act in public toilet》に付されていたという説明に虚偽が含まれていたのではないかということだ。《New Shelter》には《Act in public toilet》のトイレ掃除の最中に撮られたと思しき写真が含まれており、ならばそれは、寺田自身がトイレに残した痕跡だということになる。そこでは痕跡=写真とパフォーマンスの因果が、そして見る/見せるの関係が寺田の説明とは逆転しているが、しかしそれが実際にトイレに残されていた痕跡なのか、それとも寺田が残した痕跡なのかを鑑賞者が判別する術はない。見ることと見せることの欲望は絡まり合っている。
大槻と鈴木の展示はそれぞれ単独ではやや物足りなくも感じ、寺田の展示についてはコンセプトに比して映像やインスタレーションの設えが十分には練りきれていなかったのではないかとも思う部分もある。だが、三つの展示は連なることで、欲望と見ること、視線をめぐるさまざまな思考を誘発する。私的な領域から再び外へと展示空間を逆戻りしながら見る写真に、私はまた異なる思考を誘われる。
鈴木悠生:https://www.yu-suzuki.com/
寺田健人:https://kentoterada.myportfolio.com/work
2021/10/03(日)(山﨑健太)
奈良原一高「宇宙への郷愁」
会期:2021/09/13~2021/11/20
写大ギャラリー[東京都]
奈良原一高をはじめ、東松照明、川田喜久治、細江英公ら、VIVOの写真家たちには、「宇宙的感覚」とでもいうべきものが共通している。彼らの写真には、むろん現実世界の断片が写り込んでいるのだが、それとともに地上から遥かに離れた遠い場所を希求し、作品に取り込むような志向が見られるのだ。
それはなぜなのかと考えると、あの敗戦の日の、抜けるような青空の体験に行きつく。VIVOの写真家たちは、感受性が最も張り詰めた少年期にその日を迎え、共通体験として記憶に刻みつけた。現実世界のリアリティはその時にいったん失われ、宇宙的な「遠さ」の感覚に置き換えられる。それはVIVOの写真家たちだけではなく、たとえば詩人の谷川俊太郎、作家の大江健三郎、建築家の磯崎新など「戦後世代」の作り手に共通する志向と言ってもよい。
VIVOのメンバーのなかで、「宇宙的感覚」を作品のなかに最も広範囲に、長期にわたって取り入れていったのは、おそらく奈良原一高だろう。今回の写大ギャラリーの個展には、デビュー作である「無国籍地」(1954)から、最後の仕事になった「Double Vision」(2000-2002)まで、代表作50点が出品されていた。それらのほとんどすべてに、遥かに遠い場所への憧れが脈打っているように感じる。
その傾向は、彼が写真家として高く評価され、生涯の締めくくりに向かおうとしていた1990年代以降に、より強まっているように見えるのが興味深い。胸椎腫瘍で入院・手術後に制作された「インナー・フラワー(単純X線像)」(1991)、表参道、神宮前などの光景を近未来的にコラージュした「Vertical Horizon Tokyo(1991-1995)など、地上から浮遊するような感覚がより強まってきている。それらは「消滅した時間」(1970-1974)などのシリーズに、すでにくっきりと表われてきていたのだが、1990年代以降には、より切実なテーマとして意識されるようになったのではないだろうか。
2021/09/29(水)(飯沢耕太郎)
織作峰子写真展─光韻─
会期:2021/09/18~2021/09/28
和光ホール[東京都]
織作峰子の写真展は和光ホールでは3年ぶり、2回目になる。前回の「織作峰子展─恒久と遷移の美を求めて─」(和光ホール、2018年7月)の時から、デジタルのレーザープリンタと伝統的な箔押しの技法を融合させた「ピクトリアリズム」的な写真作品を発表し始めたのだが、本展ではその手法がより洗練され、内容的にも深みを持つものになってきた。本金箔を手押しした「樹齢」では、画像を反転させたシンメトリカルな画面構成を試み、アルミ箔を大胆かつ豪奢に用いた「夜を流れる桜花の始星」「二胡に舞う」などでは、琳派を思わせる装飾的な表現を追求した。集中して撮影した富士山の連作の集大成というべき「涛。波と富士山」では、四曲の屏風仕立ての大作に挑戦している。ほかに、写真を透明アクリルでサンドイッチする形式の作品も、多数出品されていた。
織作のように、日本の伝統的、工芸的な美意識を写真に取り入れようとしている写真作家が、まったくいないわけではない。だが、それらの多くは中途半端に終わっていることが多く、手法のみが目につくものになりがちだ。技術の完璧さと、内容的な必然性を両立させるのは、かなりむずかしいのではないだろうか。織作の仕事は、デジタル時代における写真と絵画との融合、高度な表現性とポピュラリティの両立という点において、ひとつの到達点となりつつある。次は、伝統美を踏まえつつ、それに依りかかることなく、さらに先に進めていくことが求められている。
2021/09/26(火)(飯沢耕太郎)
木村華子「 [ ] goes to Gray」
会期:2021/09/17~2021/10/17
河岸ホテル[京都府]
「消えている」のに「現われている」。「何も表明しない」という表明。そうした存在論的矛盾がありえるだろうか。
木村華子の写真作品「SIGN FOR [ ]」は、「街中で発見した、何も書かれていない白紙のビルボード」を被写体にした写真の上に、青いネオンライトを取り付けたシリーズである。青白いネオンの光は、「広告」という目的や存在意義を失ってもなお屹立し続ける白い立方体を照らし出す。それは経済不況という時代の指標であると同時に、あらゆるものを「有用性」「生産性」で価値判断し、「白か黒か」「右か左か」といった両極的な選択を突きつける社会に対して、そこから逸脱する領域をセレブレーションするようでもある。
一方、木村の作品は、美術史的な視点から読み込むことも可能だ。「余計なものが写り込まない青空をバックに撮影する」という同一条件で、消費資本主義の衰退を徴候的に示すモニュメントを撮り集める姿勢は、ドイツ各地に残る産業遺構を均質フォーマットで記録したベッヒャー夫妻を想起させる。また、「公共空間に置かれたビルボード」という点では、例えば「私の欲望から私を守って」といったメッセージを掲げ、欲望を作り出す広告装置を通して消費資本主義それ自体を批判したバーバラ・クルーガーがいる。フェリックス・ゴンザレス=トレスは、誰かが眠った跡を残す空っぽのダブルベッドの写真をビルボードに掲げ、エイズや性的マイノリティへの偏見に対して静かに訴えた。
だが、「白紙状態」に眼差しを向けるよう照らし出す木村作品は、そうした「批判や抵抗のメッセージ」が消去されたディストピア的イメージをも思わせる。それは、「声を上げること」を封殺し、塗り潰す抑圧的な社会の象徴でもある。と同時に、その「白紙」は、これから書き込まれるべきメッセージを待ち受ける希望的余白でもある。
社会の衰退の徴候であり、「ただ存在すること」の肯定であり、声の抑圧の象徴であると同時に、なおもメッセージを掲げることへの想像を止めないこと。そうした何重もの豊かな意味をはらんだ「空白」が見る者に迫ってくる。
2021/09/26(日)(高嶋慈)