artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

松江泰治 マキエタCC

会期:2021/11/9~2022/1/23

東京都写真美術館[東京都]

松江泰治といえば俯瞰した風景写真を撮る人、くらいしか知らなかった。でもその写真は、被写体が自然だろうが都市だろうが影が少なく乾いていて、ひと目で松江が撮った写真だとわかった。ま、その程度の認識しかなかった。今回の展覧会はここ10年あまりの都市の写真ばかりを集めたもの。松江の作品をまとめて見たいという思いもあったが、なにより地図や俯瞰写真を眺めるのが好きなので見に行ったというのが正直なところ。なんだろうね、俯瞰するのが好きという性癖は。朝トイレに入るときは必ず備え付けの地図帳を開くし、飛行機に乗っても窓側で晴れていればずーっと外を眺めている。それは大げさにいえば「神の視点」を得られるからではないか、と思ったこともある。

で、展覧会。出品作品には都市の俯瞰写真ばかりだが、「ATH」とか「UIO」とか「JDH」といったアルファベットに数字を併記したタイトルしか記載されていないので、それがどこの都市なのかわからない。でも建物の様式や色合い、密度などでだいたいヨーロッパか中東か東アジアかくらいは見当がつく。そうやって楽しんでいると、あれ? なんかおかしいぞ、これ実景じゃないじゃん、と気がつく。実景と、都市の模型の2つのシリーズが混在しているのだ。あらためて解説を読むと、タイトルの「マキエタCC」の「CC」はシティ・コード、つまり「ATH」とか「UIO」などの都市の略号で実景の写真、「マキエタ」はマケットのポーランド語、つまり都市の模型を撮った写真のことなのだ。いやーまんまと騙されるところだった、てか、そのくらい予習してから行けよ。まーとにかく、どちらも同じ手法で撮影されているので最初は気づかなかったが、数えてみると「CC」より「マキエタ」のほうが多いではないか。

松江の風景写真に共通しているのは、よく晴れていること、画面に地平線や水平線が入っていないこと、場所が特定できる建造物は避けること、高所から斜めに俯瞰していること、画面全体にピントを合わせていること、順光で撮影していること、などだ。そのため影がほとんどできず、遠近感もあまりなく、匿名性が強く、平面的に感じられる。絵でいえば、奇妙なことに、風景画よりむしろオールオーバーな抽象画に近い。現代美術として評価されるゆえんだろう。「マキエタ」のほうもほぼ同じ条件で撮っているらしく、タイトルも「CC」に準じているので紛らわしいことこのうえない。とりわけ紛らわしいのが最後の展示室にあった「TYO」の4点。何度見ても模型とは信じられないくらい精巧につくられた「マキエタ」なのだ。

もうひとつ特筆すべきは、4つの展示室のそれぞれ中央に水平に置かれた作品。最初の1点は博物館の内部を俯瞰した写真で、ほかの風景とは趣を異にするが、よく見ると小さく写っている人物が動いており、映像であることがわかる。次の1点は逆に群衆が騒がしく動き回る青果市場、残りの2点は「CC」と同じ都市風景で、粒のような人や車が動いている。視点が固定されているので、誰かが言ったように「動く写真」というほかない。これを見ると、建築や都市は写真でも映像でも静止しているので同じだが、人や車はその隙間を血液のように絶えず動き回っていることが改めてわかる。もし静止し続けている人がいれば死人だろう。また、もしこれを1万倍速で撮れば、もはや人や車は消え、今度は建築や都市が生き物のようにニョキニョキとうごめくのが見て取れるはず。これは時間的な「神の視点」といえるかもしれない。さまざまに妄想が膨らむ写真展である。

2021/11/26(金)(村田真)

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井津健郎「未発表作品展1975-2016『井津建郎 地図のない旅』」「地図のない旅」「もののあはれ」

[東京都]

井津健郎は1971年に渡米し、ニューヨークを拠点として作家活動を続けてきた。だが、昨今のアメリカの社会・文化状況への疑念が大きくなったこともあり、日本に帰国することを選択する。来年からは、金沢に居を構えて写真作品を制作していく予定だが、ひとつの区切りとして東京の三つのギャラリーで「活動50周年記念展」を相次いで開催した。

蔵前のiwao galleryでは、渡米直後の1975年から近作まで、これまで発表せずにしまい込んでいたヴィンテージ・プリント27点が「蔵出し」されていた。それらを見ると14×20インチ判の大判カメラで、「聖地」のたたずまいを撮影し、緻密かつ重厚なプラチナプリントで発表する生真面目な写真家という井津のイメージが大きく揺らいでくる。杉本博司とシェアしていたというスタジオで撮影したファッション写真風のポートレート、ヌード写真、静物や花の写真など、作風の幅はかなり広く、軽やかに遊び心を発揮したような作品も含まれていた。

ルーニィ・247ファインアーツでの展示では、井津の写真家としての転機になったという、1979年にエジプト・ギザのピラミッドを撮影した写真をはじめとして、イギリス、フランスなどの石造遺跡を撮影した写真群が並ぶ。プラチナプリントを使いこなすことができるようになり、写真家としての視点を完全に確立しテーマが定まってくる、1979〜1992年制作の充実した作品群である。

注目すべきなのは、PGIではじめて発表された新作の「もののあはれ」だろう。能面、神社の神域、そして枯れていく草花という3部構成の写真群には、日本への帰国を契機として、新たな領域に踏み出していこうという井津の意欲がみなぎっている。当然ながら、「もののあはれ」という日本の伝統的な美意識の探究が大きな目標なのだが、それをあくまでもアメリカ在住の時期に鍛え上げた、被写体の細部の物質性をしっかりと把握・描写していく視点のとり方と、高度な撮影・プリントの技術によって成し遂げようとしていることが興味深い。本作はまだ完成途上とのことだが、それが完全に形をとった時に、彼の新たな代表作となるのではないかという予感を覚える。

「未発表作品展1975-2016『井津建郎 地図のない旅』」
会期: 2021/11/17〜2021/11/28
会場:iwao gallery

「地図のない旅」
会期:2021/11/23〜2021/12/05
会場:ルーニィ・247ファインアーツ

「もののあはれ」
会期:2021/11/24〜2022/01/21
会場:PGI

関連レビュー

井津健郎「ETERNAL LIGHT 永遠の光」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年02月01日号)

2021/11/24(水)(飯沢耕太郎)

フィリア―今道子

会期:2021/11/23~2022/01/30

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館[神奈川県]

今道子の作品は、写真という表現領域においてはかなり異色のものといえる。何しろ今が撮影しているのは、魚介類、果物、野菜などの「食べ物」や、剥製の動物、衣服、装飾品、あるいは人体などを組み合わせて作ったあり得ないオブジェであり、現実世界の再現・記録という、普通は写真の最も基本的な役目と考えられている要素はほとんど顧慮されていないからだ。そこに出現してくるマニエリスティックな画像の世界は、ほとんど今の夢想が形をとったものであるようにも見える。とはいえ、写真以外の制作手段(絵画、版画、彫刻など)で彼女の作品世界が成立するかといえば、それは不可能だろう。その緻密で、蠱惑的で、ときにはユーモラスでもある作品世界は、平面上にリアルな幻影を出現させる写真の魔術的な力の産物以外の何者でもない。その意味では、今の仕事は19世紀の写真術の発明以来積み上げられてきた、イメージの錬金術師としての写真家たちの系譜を正統に受け継ぐものともいえるだろう。

代表作100点余りによる、今回の神奈川県立近代美術館 鎌倉別館での個展は、今の初期作品から新作までを概観することができる貴重な機会となった。それらを辿り直すと、写真という表現手段を手にして、身辺の事物をテーマに作品を制作し始めた初期から、精力的に活動を続けている現在に至るまで、彼女の姿勢がほとんど変わっていないことに気がつく。とはいえ、たとえば2010年代以降のメキシコ体験をベースにした作品群のように、新たな刺激を取り込みつつ、より多元的、多層的な広がりを加えていこうとしていることが見て取れる。2001-2002年頃に集中して制作されたカラー写真のシリーズ、障子をモチーフにした「時代劇」風の連作(2010)、生きている蚕を使った作品(「目の見えない蚕」、2017)、ブレを意図的に取り入れた作品(「めまいのドレス」、2013)など、近作になればなるほど、融通無碍にさまざまな手法、スタイルを模索するようになってきている。初期から近作まで25点を「祭壇」のように配置した「フィリア」のパートなど、インスタレーションにも工夫が凝らされていた。タイトルの「フィリア」(philia)とは「──愛」を意味するギリシア語の語尾だという。今道子の「現実と非現実との間のようなもの」に対する偏愛を、うまく掬いとったいいタイトルだ。

2021/11/23(火)(飯沢耕太郎)

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橋本貴雄『風をこぐ』

発行所:モ*クシュラ

発行日:2021/09/28

福岡に住んでいた橋本貴雄は、2005年に白っぽい毛並みの犬が路上で倒れているのを見つけ、家に引き取ることにした。フウと名づけられたその犬は、事故の後遺症で後ろ脚が不自由になっていたが、既に二匹いた橋本家の飼い犬として暮らすようになった。橋本はその後、2006年に大阪に、2008年には東京に、2011年からはベルリンに移り住む。ベルリン在住の途中で、フウの後ろ脚の機能が低下し、車椅子が必要になるが、2017年に亡くなるまで12年間を共に過ごした。

『風をこぐ』には、そのフウの姿を福岡時代から折に触れて撮影した写真がおさめられている。特に「作品」として発表しようと考えていたわけではないようだが、結果的に犬と人との関係のあり方が細やかに、しかも奥深くとらえられた、あまり例を見ない「私写真」となった。後書きにあたる文章に「ただ、フウの歩いているほうに歩いていき、流されるように、そこに現れてくるものを撮った。12年間、私はフウのそばにいて、ただ見つめていたように写真が残った」と記しているが、その自然体の撮り方によって、橋本とフウとの一心同体の関係のあり方がじわじわと浮かび上がってくる。見終えた後に、心に沁みる余韻が残る写真集である。小さめの、ポストカード大の図版を配した岡本健+の装丁・レイアウト、大谷薫子の丁寧な編集も、写真のよさを最大限に活かしたものになっている。

2021/11/21(日)(飯沢耕太郎)

ゲリー・デ・スメット「意図せぬ因果関係」

会期:2021/10/07~2021/11/27

HRDファインアート[京都府]

ベルギー人アーティスト、ゲリー・デ・スメットの、日本初紹介となる個展。写真コラージュ作品「意図せぬ因果関係」シリーズが展示された。かつてのナチスやナチズムの復興を掲げる現在の欧州の極右勢力が自らの正統性のシンボルとして用いる「ルーン文字」の形に台紙を切り抜き、同性や肌の色の違う人どうしの性行為のポルノ画像がその下からのぞく。それは、性的マイノリティや「民族の純潔の侵犯」という意味で、彼らが排斥の対象とするものだ。ドイツではハーケンクロイツ(鈎十字)に加えて、ナチスと関係のあるルーン文字の使用が禁止されており、ベルギーにおいてもルーン文字は、ナチスによる占領の記憶と強く結びつく禁忌的記号である。タブーとタブー、ポルノグラフィーという記号(的なもの)と記号の衝突。それは、自らを正統化しようとするシンボルを通して、排斥の対象そのものを眼差すという矛盾した裂け目でもある。



[写真提供:HRDファインアート]


だが、その裂け目のなかのポルノ画像の多くが、「男性向けにつくられた、女性どうしの濃密なプレイ」であることに注意しよう。さらに、「褐色の肌」がそこに加わることは、例えばアングルが描いた《トルコ風呂》のように、「非欧米圏の女性を『性的に奔放で魅力的な存在』として一方的に表象する」オリエンタリズムを想起させ、二重・三重に他者化されたエロティックなイメージの形成史へと連なっていく。そのとき、「ルーン文字の形に切り抜かれた窓」は、他者として領有されたイメージを「ハーレム」に象徴される密室に再び閉じ込める装置となり、同時に「西洋白人男性」の視線による性的イメージの形成史を批評的に見つめるための「のぞき穴」となる。

正統性の根拠と排斥対象、欲望の眼差しの主体と他者化されたイメージの領有。その両者の表裏一体的な構造こそを本作は指し示す。



[写真提供:HRDファインアート]


2021/11/19(金)(高嶋慈)