artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

宮崎学「イマドキの野生動物」

会期:2021/08/24~2021/10/31

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

宮崎学の出現によって、日本の動物写真は大きく変わった。それまでは、カメラを抱えたヒト=写真家が自然環境と対峙しつつ、目の前にあらわれてきた動物や鳥に向けてシャッターを切るというやり方だった。だが、宮崎や同世代の写真家たちの何人か(たとえば昆虫写真の栗林慧)は、高度に発達した機材を駆使して、生き物たちにヒトの存在を意識させることなく撮影するやり方を編み出していく。そのことによって、それまでは味わうことができなかった視覚的体験を、驚くべきリアリティで記録・伝達することが可能になった。同時にそれは、ヒトがコントロールすることができない「なまの」状態の自然環境を見せてくれる仕掛けでもあった。

今回の「イマドキの野生動物」展では、宮崎が1972年にフリーの写真家として活動し始めて以来、生まれ故郷でもある長野県伊那谷を拠点として、日本各地で撮影してきた写真を集成している。それらを見ると、1990年代に相次いで発表された「死」(1993)、「アニマル黙示録/イマドキの野生動物」(1993-2012)の両作品が、重要な意味を持っていたことがわかる。むろんそれ以前の「ニホンカモシカ」(1970-1973)、「けもの道」(1976-1977)、「鷲と鷹」(1965-1980)、「フクロウ」(1982-1988)なども、高度な構想力と技術力とを合体させた素晴らしい業績なのだが、宮崎はこの2作品で動物写真のあり方そのものを問い直そうとした。シカやタヌキの遺骸が、分解され、土に還っていくまでを定点観測で追い続ける「死」も、都会の身近な環境に棲息する野生動物を「報道写真家」の視点で切り取る「アニマル黙示録」も、彼がもはや動物写真家の枠組みを超えて、生き物全体の生と死を視野に入れて活動し始めたことを、はっきりと差し示す作品だった。

宮崎は2000年代以降も、機材のデジタル化に対応しつつ、意欲的な作品を次々に発表していった。今回の展示には、近作の「新・アニマルアイズ」(2018-2021)、「君に見せたい空がある」(2020-2021)が出品されている。「ロボットカメラ」で、思いがけない動きをする動物たちの姿を捉えた「新・アニマルアイズ」、超ワイドの魚眼レンズを使って、まさに動物たちの視覚世界を体現する「君に見せたい空がある」は、宮崎がさらに大きな仕事にチャレンジしていくための準備作業のようでもある。

2021/09/05(日)(飯沢耕太郎)

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林勇気「15グラムの記憶」

会期:2021/09/03~2021/09/26

eN arts[京都府]

「川の流れ」「水と氷」「流体と固体」「水の採取と濾過」といったメタファーを用いて、 記憶やデジタルデータの保存形式、さらにその複数の形態や循環・流動的なあり方について語る、緻密に構築された映像インスタレーション。

林勇気は、自身で撮影したり、インターネット上で収集した膨大な画像を切り貼りしたアニメーション作品で知られる。近年はメディア論的な自己言及性を強め、動画のデジタルデータをピクセルの数値に還元する、プロジェクターの物理的存在に言及する、「データの保存形式の複数性」に焦点を当てるなど、映像メディアの成立条件やアーカイブについて多角的に問うている。

本展では、「祖父の遺品から見つかった、2002年発売のソニー製のデジタルカメラ『Digital Mavica』とその記録媒体のフロッピーディスク」が物語の起点となる。展示は3つのパートで構成され、導入部では、「フロッピーディスクに祖父が遺した川の写真」のスライドショーを背景に、「遺品整理の経緯や祖父の思い出」が「孫の私」によって語られる。約20年前に流通・使用されていたフロッピーディスクは現在のパソコンではデータ再生できないため、専用のドライブを取り寄せて中身を確認したこと。当時のデータ容量では、1枚当たり、640×480ピクセルの画像を10枚しか保存できなかったこと。「祖父」が近隣のいくつかの川で撮ったと思われる低解像度の画像が、淡々と映されていく。一人暮らしだった「祖父」の急死、現実感のない葬式、子どもの頃に「祖父」と写真の川を訪れた思い出。そして「私」は、写真に写った川を探す旅に出たことが語られる。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]


第2室では、パソコンに接続されたドライブやプリンターなどの機器と、現物のDigital Mavicaとフロッピーディスクが展示される。そして第3室では、「撮影地点が判明した川」を同一アングルで映した映像に、「祖父が別のフロッピーディスクに遺した撮影日誌」の朗読が重ねられる。だが、川の映像は、その上に散らばる「氷の塊」の画像によって虫食いのように一部が隠され、像が歪む。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]



林勇気「15グラムの記憶」より


この奇妙な「氷」は何だろうか。「祖父の日誌」には、「川の水を採取した」日付と時刻、地点が記録され、天気や体調とともに「製氷した氷を入れて飲んだ」「濾過装置を買い替えた」「水と氷の味が良くなった」などと綴られる。「祖父」は酒ではなく、「川で採取した水」に氷を入れて味わうのが趣味(?)だったようだ。だが、次第に疑問や違和感が頭をもたげてくる。「祖父が撮った川の写真」には満開の桜、緑茂る夏の木々、人々が憩う川岸の芝生、冬枯れの木立など季節の移ろいがあるが、「現在の川の映像」も「同一の季節」を映している。それは「祖父の日誌の朗読」に対応するという点では齟齬はないのだが、「私」は「休暇を利用して遺品整理をした」と語っていた。では、「私」は、その後1年間かけて「祖父の暮らした遠隔地」に通いながら、川のリサーチと撮影を継続したのだろうか。また、「証拠品」として展示されたフロッピーディスクに貼られたラベルは白紙のままであり、「祖父」の几帳面な性格からすると、撮影メモを書き込んでいるはずだ。「祖父の川の写真」は、林自身が撮影した写真の解像度を落とした捏造かもしれない。

どこまでがフィクションなのか。あるいは、すべてが林による創作なのか。だが重要なのは、事実/フィクションの境界画定ではなく、「時間の流れ」を象徴する川、「水と氷」の状態変化、「水の採取と濾過」といった豊富なメタファーを通して、記憶やデジタルデータについて自己言及的に語る秀逸な作法である。

例えば、ヒントのひとつは「私」のモノローグに埋め込まれている。「祖父の遺したショットグラスに氷を入れて水を飲みながら、フロッピーディスクの中身を見た」。川で水を採取する=川で撮影した画像が、データ=実体のない流体となり、記録媒体=保存容器=水を満たすグラスに容れられ、あるいは氷=固体として冷凍庫=記録媒体に保存され、解凍=データの再生や記憶の蘇りを待つこと。「そのままでは飲めない川の水を濾過して味わう」行為は、「そのままでは見られない時代遅れの記録媒体内のデータを、専用ドライブを取り寄せて読み込む」操作に対応し、水を飲む=データを再生するための「媒介」を示唆する。また、「祖父の川の写真」をパソコンの画面上で再生し、プリントアウトした写真を観客が持ち帰れる仕掛けも重要だ。「氷」として保存されたフロッピーディスクから「解凍」された誰かの記憶が、文字通りスクリーンを流れる「川」となり、再び手に取ってさわれる「固体」=プリントされた紙へと変容する、まさに「状態変化」「循環」を体験することになる。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]


林は、KYOTO STEAMに出品された前作《細胞とガラス》において、「動物の体内で培養したiPS細胞の臓器移植が可能となった近未来に、移植を受けたガラス職人の男性によるモノローグ」というフィクションの体裁をとって、「炎により自在に変形するガラスの可塑性」と「iPS細胞」を重ね合わせ、「外界を映し出す窓ガラス」の映像を通して「フレーム」「スクリーン」「(内/外、人間/動物の)境界」のメタファーを語っていた。本作はその手法を引き継いだ林の新たな展開であるとともに、デジタルデータの「起源」の曖昧性、「ファウンド・フォト」「ファウンド・フッテージ」ならぬ「ファウンド・データ」で物語を紡ぐ手法の可能性、そして「たとえ一切が捏造であっても、『祖父と私の物語』として信じさせる力はどこから来るのか」というメタフィクション論ともなっていた。


関連レビュー

KYOTO STEAM 2020国際アートコンペティション スタートアップ展|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年12月15日号)
林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月15日号)
林勇気「times」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月15日号)

2021/09/04(土)(高嶋慈)

山城知佳子「リフレーミング」

会期:2021/08/17~2021/10/10

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

山城知佳子は2002年に沖縄県立芸術大学大学院造形芸術研究科環境造形専攻修了後、映像・写真作品を中心に精力的な発表を続けてきた。内外の美術館・ギャラリーでの企画展、アートフェアなどにも積極的に参加し、その評価を高めている。本展は、彼女の「ミッドキャリア個展として、その作品世界を総覧するはじめての本格的な機会」となるものであり、沖縄北部、伊江島、韓国・済州島で撮影され、「あいちトリエンナーレ2016」に出品された「土の人」(23分、2016)、新作の「リフレーミング」(33分、2021)の2つの映像作品を中心に、代表作が出品されていた。

山城の作品を特徴づけるのは、「沖縄」と「身体性」である。生まれ育った、沖縄の風土、歴史、記憶を映像にどう埋め込んでいくかは、彼女にとって最も重要な課題のひとつであり、初期から新作に至るまでその志向は一貫している。大事なのは、それを概念的にではなく、視覚、聴覚、触覚、さらには嗅覚や味覚さえも動員した全身的な身体感覚を通じて開示・伝達しようとしていることで、観客も頭ではなく「からだ」でそのメッセージを受け止めることを求められる。「土の人」や「リフレーミング」のような3面スクリーンを使った作品では、同時発生的に展開される出来事が、分裂したまま、映像と音声として観客に襲いかかることになる。最初はやや不安と戸惑いを覚えつつ、そこに巻き込まれていくのだが、そのうち、あらゆる刺激が一体化した渦の中に呑み込まれていくことを許容する瞬間が訪れる。その胎内回帰な一体感こそ、山城の映像作品の真骨頂というべきだろう。

もうひとつ重要な要素は、山城の作品から発する独特のユーモアだ。「リフレーミング」のような作品では、あちこちに、微笑から哄笑までさまざまな笑いの種が仕込まれていて、見終えた後で、いい泡盛をしこたま飲んだような酔い心地を感じた。「リフレーミング」の主要な登場人物は4人の男だが、彼らは「発端(ホッタン)」「探究(タンキュウ)」「模倣(モホウ)」「アワ」と名づけられている。このネーミングは、沖縄の男たちに対する、山城の辛辣なユーモアを込めた批評なのかもしれない。

関連記事

未来に向かって開かれた表現──山城知佳子《土の人》をめぐって|荒木夏実:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2021/09/04(土)(飯沢耕太郎)

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福島あつし『ぼくは独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ』

発行所:青幻舎

発行日:2021/08/31

コロナ下において、弁当やテイクアウトの配達員の姿は見慣れた日常の一部となった。だが、そのなかに混じって、「高齢者専門の弁当配達員」が以前から存在することは、ほとんど意識されることがない。

福島あつしは、2004年から10年間、神奈川県川崎市で、高齢者専門の弁当屋の配達員として働き、配達先の独り暮らしの老人たちと徐々に関係性を築きながら、老人たちとその居住空間を撮影し続けた。2019年には、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の同時開催イベント「KG+SELECT 2019」にて、個展「弁当 is Ready.」がグランプリに選ばれ、翌年には同写真祭の公式プログラムに参加。そして、『ぼくは独り暮らしの老人の家に弁当を運ぶ』と改題し、福島の文章も併録した写真集が今夏、出版された。

福島の写真作品は、まず、「超高齢化社会」「独居老人」「ケア」「孤独死」といった社会問題のルポとして捉えられる。写真集は「開いたドアの奥に見える、散らかった台所」を写した一枚から始まり、福島の配達員としての視線を追体験するように、老人たちの居住空間に侵入していく。食器や空の容器が積みあがったシンク。ゴミの詰まったビニール袋でいっぱいの押し入れや床。敷きっぱなしの布団。床に溜まった新聞紙や空の弁当容器。やがて、ベッドに横たわり、丸めた背中で独り弁当を食べる老人たちが登場するが、開いた扉の隙間越しや、斜め後ろからのアングル、顔の遮蔽や断片化された身体は窃視的な視線を否応なく感じさせる。そこには、福島自身が葛藤を記すように、被写体にレンズを向ける/それを見ることの罪悪感、写真と眼差しの倫理性や暴力性が写し込まれており、社会的ドキュメンタリーの「正義感」が蓋をしようとするものが噴き出してくる。

一方、ページの展開=福島が老人たちと共有した時間の厚みに伴って、「カメラを向ける=イメージの奪取」という不均衡な関係性から、「カメラを介したコミュニケーションの発生」という別の側面が見えてくる。それは同時に、「孤独でかわいそうな独居老人」というステレオタイプを裏切っていく。手芸や絵を描くなどの趣味を見せる人、モノクロの記念写真を見せてくれる人。「こちらにコンパクトカメラを向ける高齢女性」のカットはきわめてメタ的な一枚である。福島、そして私たち自身もまた見つめ返されているのだ。

また、コロナ下の状況で福島の写真を見ることで、改めて見えてくる対照性がある。コロナ下の街を駆けるUber Eatsなどの配達員は、依頼主にとって、「おうち」内への安全な隔離、すなわち社会から遮断された状態の象徴だ。一方、独り暮らしの老人に弁当を届ける配達員は「安否確認も仕事のうち」であり、むしろ、外部の社会と彼らをつなぎ留める、細く、ごくわずかな紐帯なのである。

見方を変えれば、福島の写真作品は、「部屋と住人」の写真のバリエーションのひとつと捉えられる。例えば、都築響一の『着倒れ方丈記』は、アイデンティティとしての特定のブランドの衣服で埋め尽くされた部屋をその住人とともに写し、『IDOL STYLE』ではアイドルとそのオタクを(グッズなどやはり大量のモノで溢れる)自室の中で撮影する。共通するのは、窃視的な欲望の喚起とともに、ファッションであれ、サブカルや推しであれ、「住人の生と個性が高濃度に凝縮された繭のような空間」としての私室である。また、横溝静の「ストレンジャー」では、文字通り「フレーム」かつ「境界」としての「窓」を挟んで、写真家/私たちは、部屋の中に佇む見知らぬ住人と対峙する。

ほとんど部屋から出ない(出られない)老人たちにとって、「部屋」は生の領域のほぼすべてである。その確固たる中心にあるのが、命をつなぐ行為としての「食べること」にほかならないことを、穏やかに、無心で、よだれかけ代わりの新聞紙にくるまって懸命に弁当を食べる老人たちの姿は示している。「入れ歯」を掴む手は、生へと手を伸ばし続ける意志のように見える。

なお、写真集の出版に合わせ、同名の個展が東京の IG Photo Galleryにて、9月25日まで開催されている。

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KG+SELECT 2019 福島あつし「弁当 is Ready.」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年04月15日号)

2021/08/31(火)(高嶋慈)

北野謙「未来の他者/密やかなる腕」

会期:2021/08/17~2021/08/31

MEM[東京都]

たまたま美術館で北野謙の作品「our face」を見た産婦人科医が、「赤ちゃんをテーマにした作品を作ることに興味はありますか?」と申し出たことから、「未来の他者」のシリーズの構想が形をとった。この世に生まれたばかりの赤ちゃんを撮影するのは、北野にとって、あらためて命の不思議さを考えるきっかけとなった。やがて、生後2〜6カ月ほどの赤ちゃんたちの姿を、大判のカラー印画紙を使ってフォトグラムで定着する作品が、コンスタントにでき上がってくるようになる。発想と手法の融合が、とてもうまくいったシリーズといえるだろう。

既に2019年の東京都写真美術館でのグループ展「イメージの洞窟:意識の源を探る」でも発表されたことのある「未来の他者」シリーズに加えて、今回の個展には新作の「密やかなる腕」が出品された。こちらは2020年前半のコロナ禍による緊急事態宣言の時期に撮影した、家族(「86歳の母、妻、大学生の娘と私」)や日常の写真がベースになっている。それらを、家族一人ひとりの腕を型取りして固めたセメントに、プリントし、コラージュした。北野がこのような「オブジェ」としての作品を発表するのは初めてだと思う。写真家の仕事としてはやや異例だが、緊急事態宣言下の日々のリアリティを、そのような形で残しておきたいという気持ちがよく伝わってきた。いくつかの試行錯誤を経て、北野の作品世界はより柔軟に拡張しつつある。次の展開も期待できそうだ。

2021/08/26(木)(飯沢耕太郎)