artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

鷹野隆大 毎日写真1999-2021

会期:2021/06/29~2021/09/23

国立国際美術館[大阪府]

めっぽう面白い展覧会だった。鷹野隆大は、1990年代以降の日本の写真表現を牽引してきたひとりといえる。つねに新たな問題を引き起こす作品を発表し、観客を挑発し、話題を提供してきた。今回国立国際美術館で開催された、彼の初めての回顧展は、単純に代表作を並べたというものではない。むしろ、鷹野隆大というユニークかつ真っ当な写真作家の表現のベース(土壌)に、スポットを当てたものになった。

鷹野は1998年から毎日欠かさず写真を撮影し始め、その行為を「毎日写真」と名付けた。特定のテーマやコンセプトからむしろ距離をとり、それらをもういちど集めてみたときに、何が見えてくるかを確かめようと考えてのことだった。20年以上過ぎて、その数は10万枚に達しているという。スマートフォンとSNSの時代になって、鷹野のように毎日写真を撮っている人も珍しくなくなった。だが、彼らと鷹野の写真行為とのあいだには見かけ以上のギャップがある。撮りっぱなし、流しっぱなしの写真の群れとは違って、鷹野はそれらを見直し、並べ替え、再編成することで「写真とは何か?」「写真に何ができるのか?」を問い返そうとする。

本展には「毎日写真」の活動の成果だけでなく、そこから派生していくさまざまなシリーズも並置されていた。「カスババ」や「Photo-graph」、「日々の影」、「東京タワー」といった作品が、まさに土壌から植物が芽を出し、大きく成長していくように生み出されていったことがよくわかった。

「毎日写真」は単なる作品の下図ではない。鷹野にとっては、「毎日欠かさず写真を撮ること」の方が、作品化することよりもむしろ重要であるようにさえ見える。たとえば、やや時間をおいて撮影したニ枚の写真を一組にして見せる展示があったが、そこでは微妙な時間と空間のズレによって、写真が常に流動的な出来事の束を生み出し続けていることが示されていた。いわゆる本画よりもデッサンや下絵の方にいきいきとした創造性を感じさせる画家がいるが、もしかすると鷹野もそうなのかもしれない。さらに、「毎日写真」は鷹野本人に帰属するだけでなく、多くの写真家たちにとっても、発想の源となるような開かれた構造を備えている。特に若い世代の写真家たちにとっては、多くの示唆を含む展示といえそうだ。

2021/07/01(木)(飯沢耕太郎)

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春日昌昭作品展「東京・1964年」

会期:2021/06/29~2021/08/01

JCIIフォトサロン[東京都]

東京オリンピック開催の直前にもかかわらず、新型コロナウィルス感染症の影に覆われていて、まったく盛り上がりを欠いていることは否定できない。それにつけても、前回の1964年の東京オリンピックが、戦後の日本においていかに大きな意味をもつイベントだったかがあらためて浮かび上がってくる。子供の頃の記憶を辿っても、日本中が期待感にあふれ、祝祭ムードに沸き立っていた。今回、JCIIフォトサロンで開催された春日昌昭展には、まさにその1964年に撮影された東京の街と人のスナップ写真が展示されていた。

春日は当時、東京綜合写真専門学校に在学中で、卒業制作のための写真を撮りためていた。彼がどんな姿勢で撮影にあたっていたかは、本展にも掲げられていた「写真と自分」(1966)と題するテキストによくあらわれている。

「ある対象にカメラを向けること自体、自分の総合された眼であると同時に、その写し取られたものは、自分の考えを越えてそのもの自体としての事実でもある。」
「僕の写したということ以上に、写っている事実が大切である写真を作りたいと考えている。」


このような、「自分」をいったん括弧に入れ、やや引き気味に「写っている事実」を浮かび上がらせようとする態度は、この時期に真剣に写真に向き合っていた若い写真家たちに共通する傾向でもあった。それはやがて「コンポラ写真」と呼ばれるようになっていく。

だが、春日は「時代の子」であっただけでなく、街や人に向けた独特の眼差しを育て上げようとしていた。今回の出品作を見ると、オリンピックを迎えて大きく変貌しようという街並みの細部を、クールに、几帳面にコレクションしつつ、それらに愛情のこもった視線を向けている彼の姿が浮かび上がってくる。批評性と肯定性とが絡み合う写真群は、いま見てもとても魅力的だ。もしコロナ禍がなければ、もっと話題を集めたはずなのが残念だが、逆に春日の写真に内在する力を再考するよい機会にもなった。

2021/06/30(水)(飯沢耕太郎)

原啓義「まちのねにすむ」

会期:2021/06/22~2021/07/05

ニコンサロン[東京都]

原啓義は銀座ニコンサロンで2017年、2019年と個展を開催している。当初は「都会のネズミ」というテーマの面白さ、ネズミたちの意外な可愛らしさが目立っていたのだが、次第に彼らを取り巻く環境とのかかわりあいが大きくクローズアップされてきた。今回の3回目の展示では、さらに視点が深まり、単純に「動物写真」の範疇にはおさまらない写真が増えてきている。シルエットで捉えられた走るネズミ、彼らの天敵のカラスやトビ、店のシャッターに貼られた「毒エサ設置」のポスターなどネズミが写っていない光景もある。また、街を行く人々(特に女性)との絡みの場面を撮影した写真を見ると、スナップショットとしての精度が上がってきていることがわかる。もはやこのテーマに関しては、他の追随を許さないレベルに達しているのではないだろうか。

「まちのねにすむ」という今回の展覧会のタイトルも、含蓄が深い。原のステートメントによると、「ネズミ」というのは、元々「根の国に栖むもの」という意味で名づけられたのだそうだ。「根の国」とは、いうまでもなく「死者たちの国」のことだ。つまり、ネズミたちは死者たちの世界からこちら側に越境してきた生きものということになる。特に近代以降の都市において、「根の国」の出入り口はあまり人目につかないように隔離、隠蔽されていることが多い。原は、ネズミたちの存在を通して、都市空間における生と死の境界の領域に探りを入れようとしているのだ。

原は2020年に、福音館書店の「たくさんのふしぎ」シリーズの一冊として『街のネズミ』を刊行した。だが、彼の仕事の厚みを考えると、そろそろより大きな枠組みで写真集をまとめる時期が来ていると思う。間違いなく、都市/自然、生/死を視野におさめた、奥行きのあるいい写真集になるはずだ。

2021/06/29(火)(飯沢耕太郎)

連続企画「都築響一の眼」vol.4/「portraits 見出された工藤正市」

会期:2021/06/09~2021/06/26

Kiyoyuki Kuwahara Accounting Gallery[東京都]

工藤正市(1929-2014)は青森市出身の写真家。東奥日報社に勤めながら、1950年代に月刊『カメラ』などの写真雑誌に作品を投稿し、1953年の『カメラ』月例第一部(大型印画)で年度賞を受賞するなどして頭角を現わした。だが、次第に仕事との両立が難しくなり、1960年代以降は写真作品をほとんど発表しなくなる。没後に、遺族が押し入れに眠っていた大量のネガを発見し、スキャンした画像をInstagramにアップしたことをきっかけに、そのクオリティの高い写真群に注目が集まるようになった。今回のKiyoyuki Kuwabara Accounting Galleryでの展示は都築響一の企画構成によるもので、彼の代表作27点が出品されていた。

経歴を見てもわかるように、工藤の写真の仕事は土門拳が1955年から『カメラ』の月例写真欄を舞台に展開した「リアリズム写真運動」の一環と見ることができる。だが、のちに「乞食写真」と揶揄されたような、悲惨な社会的現実を告発する問題意識はあまり感じられない。むしろ、青森の風土に根差した人々の暮らし、日常の情景を、同じ目の高さで淡々と切り取っていく眼差しが印象深い。「リアリズム写真運動」が、全国のアマチュア写真家たちに大きな刺激をもたらし、土門拳が唱えた「絶対非演出の絶対スナップ」というテーゼが、豊かな広がりをもつ写真に結びついていったことを示す雄弁な作例といえるだろう。

Instagramをきっかけに、彼の写真の存在が広く知られるようになり、9月に写真集『青森 AOMORI 1950-1962 工藤正市写真集』(みすず書房)も刊行予定というのは、とても喜ばしいことだ。工藤だけではなく、まだ埋れたままになっている写真家たちの仕事も多いのではないだろうか。「押し入れ」の中には、宝物が眠っているかもしれない。

2021/06/23(水)(飯沢耕太郎)

GOTO AKI「event horizon ─事象の地平線─」

会期:2021/06/17~2021/07/11

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

「event horizon ─事象の地平線─」というタイトルの意味が、DMなどではもうひとつよくわからなかったのだが、会場で写真を見ていて腑に落ちた。風景のなかにあらわれてくる事象=出来事に焦点を合わせた展示だったのだ。たしかに風景に目を凝らしていると、それがスタティックに固定されているのではなく、さまざまな出来事が次々に生起し、流動的に移り動いていることがわかる。しかも、それらの出来事は単独で起こるのではなく、互いに結びつきあって、地球規模の自然の事象として出現する。GOTOがもくろんでいるのは、「もともと名前はなく、人間が期待するような意味もない」「太古からの時の多層的な連なりとその時々の光と風の中で、変容しながら存在している」風景のあり方を、幅広く、しかも細やかに捉えようとする試みなのだ。

ただ、よく練り上げられていてすっきりとした展示なのだが、ややまとまりがよすぎる印象も受けた。自然/風景は、GOTOのいうように「人間が期待するような意味」を超えて存在している。だが、今回の展示作品は、どちらかといえば、コントロール可能な範囲におさまっているものが多かった。とはいえ、DMにも使われた波の形にめくれた雪の写真のように、自然現象の深み、不可思議さがよくあらわれたものもある。この作品は、植田正治の1970年代の傑作「風景の光景」の「波が生まれる瞬間」の写真に通じるのではないだろうか。GOTOが展覧会に寄せたコメントには、「外側の風景とそこから受ける内的な感覚が重なり、認識の外側に新たな地平が浮かび上がる」とあった。その通りだが、内と外のバランスを取るのはなかなか難しい。あまり性急に「内的な感覚」に頼ることなく、「外側の風景」をもっと突き放して描写する必要があるのかもしれない。

2021/06/18(金)(飯沢耕太郎)