artscapeレビュー

2017年10月01日号のレビュー/プレビュー

UNIVERSE 橋本敦史

会期:2017/09/12~2017/09/24

アートスペース感[京都府]

橋本はさまざまな素材を駆使して立体作品を制作するアーティストだ。素材は造形に最適なものを選択しているだけで、そこに過度の思い入れは存在しない。本展で彼は、4つのシリーズ作品を発表した。そのなかでも特に注目すべきは、《Blood Vessel》(画像)と《Flower》の2つである。前者は白いパネルの上に白く塗った木の枝が配置されているが、木の枝は縦半分など不自然な形に断裁されている。後者は精密に加工されたステンレスの立体で、一見すると花のようだ。じつはこれらの作品は、彼の疾病体験から着想したものだ。橋本は脳の血管の病気を患ったことがあり、その際に視野の半分が認識できない状態に陥った。幸い病は治癒したが、そのときの体験から脳や血管に深い興味をいだくようになり、これらの作品を制作したのだ。ちなみに《Blood Vessel》の造形は、彼が体験した症状と、血管と木の枝の形状的共通性に由来している。《Flower》の形態は花ではなく、脳の神経細胞ニューロンからの着想だ。アーティストはそれぞれテーマを持って制作しているが、彼のように自分自身の生命の危機と直結しているのは稀であろう。作家と作品の分かち難い結びつきが、作品に深い説得力を与えている。ただし、劇的なストーリーから情緒的な反応に陥ってはならない。彼の作品は造形的にも質が高く、たとえ事情を知らなくても十分鑑賞に耐え得るのだ。

2017/09/12(火)(小吹隆文)

Q『妖精の問題』

会期:2017/09/08~2017/09/12

こまばアゴラ劇場[東京都]

舞台には、大人用紙おむつをつないで作った巨大な白い布が壁にかかり床まで広がっている。登場した竹中香子もオムツ姿。本作の見所は、この竹中のほぼ一人芝居で舞台が回っていくところだ。当日パンフにも第一部は「ブス」、第二部は「ゴキブリ」、第三部は「マングルト」とあったように、本作は三部構成。それぞれ上演様式が異なり、第一部は落語、第二部はミュージカル、第三部は健康食品の実演販売の様式があてがわれていた。第一部は、ブスな女二人がブスは生きていても意味がないと会話し続ける落語。「ブスは生きていちゃいけない」「ブスは子孫を残しちゃいけない」みたいな発言が飛び交う。それが、ぼくたちの内心にはびこるコンプレックスを刺激して、ぼくたちをギュッとさせる。先日の『地底妖精』もそうだったが、劇作家 市原佐都子は「見えないもの」を観客に見せようとする。サイトにはこんな言葉もある。「私は見えないものです。見えないことにされてしまうということは、見えないことと同じなのです。」つまり「見えないもの」とは、社会の価値基準によって「見えないことにされてしま」っているもののことだ。演劇もまた自分たちの(支配的立場の)価値基準で多くのものを「見えないことに」し、「見えないもの」にしてきた。「ブス」とは、だから社会また演劇における排除の問題でもある。続く第二部は、ラーメン屋の隣に住むカップルがゴキブリに怯え、ホウ酸団子やバルサンで撃退するさまをミュージカル風の演出で見せてゆく。今ここで観客は、排除する側の視点から世界を見つめることになる。第三部は、女性器で培養した菌でヨーグルトならぬ「マングルト」を作り、食べる健康法を、実演販売の様式で見せてゆく。地産地消に似た「自産自消」と語る「マングルト」は、他者に依存したり、他者と愛し合ったりせずとも、一人で暮らしていける「自立」の象徴だ。それでも、死んだら死体が残る。最後は、「マングルト」の創始者を名のる白髪の女の独り言で終わる。死体はきっと自然に還る。死体になることで、私たちは自然の運動に連なってゆける、そんな呟きだ。観劇後、この劇に物語がないことに気がついた。物語には(ひととひととの)関係があり、関係の展開があるものだ。ここには、それが見えない。この欠落こそが問題である。この問題をあぶり出すQの強い批評性が際立った舞台だった。

関連レビュー

こq『地底妖精』|木村覚:artscapeレビュー

2017/09/12(火)(木村覚)

神戸港開港150年記念「港都KOBE芸術祭」

会期:2017/09/16~2017/10/15

神戸港、神戸空港島[兵庫県]

1858年に結ばれた日米修好通商条約に基づいて、1868年に開港した神戸港。我が国を代表する港湾の開港150年を記念して、地元作家を中心とした芸術祭が開かれている。参加作家は、小清水漸、新宮晋、林勇気、藤本由紀夫、西野康造、西村正徳など日本人作家16組と、中国・韓国の作家3名だ。会場は「神戸港」と「神戸空港島」の2エリア。ただし、神戸港エリアの一部はポートライナーという交通機関で神戸空港と繋がっており、「神戸港」と「ポートライナー沿線」に言い換えたほうがいいかもしれない。芸術祭の目玉は、アート鑑賞船に乗って神戸港一帯に配置された作品を海から鑑賞すること。港町・神戸ならではの趣向だ。しかし残念なことに、取材時は波の調子が悪く、アート鑑賞船は徐行せずに作品前を通過した。通常は作品の前で徐行してじっくり鑑賞できるということだが、自然が相手だから悪天候の日は避けるべきだろう。一方、意外な収穫と言ってはなんだが、ポートライナー沿線の展示は、作品のバラエティが豊かであること、主に屋内展示でコンディションが安定していること、移動が楽なこともあって、予想していたより見応えがあった。神戸空港という「空の港」と神戸港(海の港)を結び付けるアイデアも、神戸の未来を示唆するという意味で興味深い。会場の中には神戸っ子でも滅多に訪れない場所が少なからずあり、遠来客はもちろん、地元市民が神戸の魅力を再発見する機会に成ればいいと思う。

2017/09/15(金)(小吹隆文)

驚異の超絶技巧!─明治工芸から現代アートへ─

会期:2017/09/16~2017/12/03

三井記念美術館[東京都]

2014年から翌年にかけて三井記念美術館ほかで開催された明治学院大学山下裕二教授の監修による明治工芸の展覧会「超絶技巧!明治工芸の粋」の第2弾。前回は清水三年坂美術館村田理如館長のコレクションを紹介する構成であったが、今回は村田コレクション以外の明治工芸を加え、さらには現代において「超絶的」ともいえる技巧によって制作している15名のアーティストたちの作品を明治工芸と対比させながら展示している。
「超絶技巧!明治工芸の粋」で話題を呼び、本展でも大きく取り上げられているのは安藤緑山の牙彫。胡瓜、柿、パイナップル、バナナ、葡萄等々、象牙を彫り上げたリアルな造形と彩色、構成の妙に息を呑む。三井記念美術館小林祐子主任学芸員によれば、前回展覧会時に国内において確認された緑山の作品が35件であったのに対し、その後の調査により国内外で82件の作品が確認されているとのことだ(もっとも緑山が制作を行ったのは明治末から昭和初め、作品の受容者が皇室や宮家、一部富裕層だったことを考え合わせると、殖産興業、外貨獲得を目的として海外に輸出された明治期前半の工芸とは時期や文脈が異なることに留意したい)。また前回展(村田コレクション)になかった明治工芸として宮川香山の高浮き彫り陶器が出品されている(真葛ミュージアム所蔵)。
そして「現代アート」である。何をもって「現代アート」とするのか。実は監修者山下祐二氏自身「熟慮した末に『現代アート』という用語を使ったのだが、これには私自身、少々抵抗があることを正直に告白しておこう」と書いている。今回出品している現代作家の多くは「いわゆる『現代アート』を志向しているわけではない」が、このサブタイトルによって現代アートファンの注目を集めることができれば、という趣旨なのだそうだ(本展図録、9頁)。「現代アート」でくくることができない一方で、これらの出品作家の多くはまた「伝統工芸」あるいは「現代工芸」でくくられる人々ではないという点がさらに興味深い。山下氏は「DNA」「遺伝子」という言葉を用いているが、これらの作家と明治工芸の担い手との間には、歴史的、人的、技術的連続性はほとんどない。実際、ここでは「伝統工芸」あるいは「現代工芸」につきものの権威とは無縁の作家が多くフィーチャーされている(出品作家の多くが若手であるということも、権威からの距離をもたらしているかもしれない)。ではそのような近代工芸史の文脈から離れた現代作家の作品と明治工芸とを並列することにどのような意義があるのか。本展覧会序文のテキストを読むと、山下氏は美術優位の下に忘れ去られた明治工芸の再評価と、これらの明治工芸と同様に技巧を極めようとしていながらも既存の権威と離れたフィールドで活動する現代作家にスポットライトを当てることを、この展覧会で同時に行なおうとしているようだ。それはとりもなおさず村田コレクションにおけるバイアスを現代作品に投影するということにほかならない。ただ技巧に優れた作家を取り上げるということではないのだ。出品作家と展示作品を見てその印象を強くした。[新川徳彦]

関連レビュー

超絶技巧!明治工芸の粋──村田コレクション一挙公開|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/09/15(金)(SYNK)

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驚異の超絶技巧! ─明治工芸から現代アートへ─

会期:2017/09/16~2017/12/03

三井記念美術館[東京都]

美術史家の山下裕二の監修による超絶技巧の企画展。明治工芸から現代アートまで、約130点の作品を一挙に展示した。同館をはじめ全国の美術館を巡回した「超絶技巧! 明治工芸の粋」(2014-15)の続編だが、「超絶技巧」というキャッチフレーズによって明治工芸を再評価する気運は、本展によってひとつの頂点に達したように思う。質のうえでも量のうえでも、本展は決定的な展観といえるからだ。
むろん、ないものねだりを言えば切りがない。明治工芸の復権を唱えるのであれば、「繊巧美術」の小林礫斎が含まれていないのは欲求不満が募るし、現在において江戸時代の工芸技術の復興を模索している雲龍庵北村辰夫や、比類なき人体造形を手がけているアイアン澤田の作品(さらにはオリエント工業によるラブドールさえ)も、同列で見る欲望を抑えることは難しい。それでも安藤緑山の牙彫や宮川香山の高浮彫に加えて、前原冬樹の一木造りや山口英紀の水墨画など、いまこの時代を生きる同時代のアーティストたちの作品が一堂に会した展観は壮観である。とりわけ微細な陶土のパーツを土台にひとつずつ貼り合わせ、焼成を繰り返すことで珊瑚のような立体造形をつくり出す稲崎栄利子の陶磁や、明治工芸で隆盛を極めた有線七宝の技法を駆使しながら蛇と革鞄を融合させた春田幸彦の七宝など、これまでほとんど知られることのなかった作家たちの作品を実見できる意義は大きい。
超絶技巧の歴史的な系譜──。明治工芸と現代アートをあわせて展示した本展のねらいが、この点にあることは間違いない。明治工芸の真髄は戦後社会のなかで見失われたかのようだったが、きわめて例外的であるとはいえ、ごく少数の希少なアーティストによって辛うじて継承されていたことが判明した。帝室技芸員という制度的な保証があるわけでもなく、宮家や武家という特権的な顧客に恵まれているわけでもなく、文字どおり「在野」の只中で、現代における超絶技巧のアーティストたちは人知れずその技術を研ぎ澄ましていたのである。その意味で、彼らの作品を意欲的に買い集めている村田理如(清水三年坂美術館館長)や言説の面での歴史化を実践している山下裕二の功績は何度も強調するべきだろう。
しかし、その一方で、近年の超絶技巧を再評価する機運は、新たな局面に突入したという思いも禁じえない。それが明治工芸を不当にも軽視してきた近代工芸史の闇を照らし出す灯火であることは事実だとしても、その歴史的系譜を現代社会で生かすには、展覧会での紹介や言説の生産だけでは明らかに不十分だからだ。つまり、超絶技巧を現代社会のなかに定着させる実務的な取り組みが必要である。流行現象として消費するだけでは、いずれ再び「絶滅」を余儀なくされることは想像に難くない。
超絶技巧の制度化。制作に長大な時間を要するアーティストを支えるコレクターを拡充することはもちろん、あらゆるかたちでの公的な支援の体制も整えるべきであろうし、場合によっては帝室技芸員を再興することすら考えてもよいだろう。自己表現という美辞麗句を隠れ蓑にしながら学生を甘やかすだけの美術大学のカリキュラムも根本的に再考しなければなるまい。美術館も例外ではない。モダニズム、具体的にはコンセプチュアル・アートに偏重した歴史観にもとづいた公立美術館の大半は、少なくとも戦後美術に限って言えば、ほとんどゴミのような作品を後生大事に保存しているが、超絶技巧の作品と入れ替えることで戦後美術史を再編することも検討すべきである。在野の美術批評家がいまやある種の「絶滅危惧種」であるように、超絶技巧のアーティストもまた、ある種の「天然記念物」として公的な保護の対象としなければならない。「遺伝子」というメタファーを用いるのであれば、それを保護する制度化の議論を含めない限り、それはたんなる消費のためのキャッチフレーズとして、やがて忘却の彼方に沈んでいくほかないのではあるまいか。
超絶技巧とは、戦後美術を根本的に転覆しうる可能性を秘めた、きわめてラディカルな運動と思想なのだ。その可能性の中心を見失いたくない。

2017/09/15(金)(福住廉)

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