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artscapeレビュー

美術は語られる─評論家・中原佑介の眼─

2016年04月01日号

会期:2016/02/11~2016/04/10

DIC川村記念美術館[千葉県]

美術評論家の眼から60~70年代の戦後美術を振り返った展覧会。美術評論家の中原佑介(1931-2011)が雑誌や書籍、展覧会の図録、リーフレットなどに書いた美術批評と、中原が私蔵していた作品に同館のコレクションをあわせた約40点とが、併せて展示された。比較的小規模な展示とはいえ、良質の企画展である。
展示されたのは、中原が評価していた池田龍雄、オノサト・トシノブ、河原温、高松次郎、山口勝弘、李禹煥らによる作品。クレス・オルデンバーグやピエロ・マンゾーニ、クリストら欧米諸国のアーティストによる作品もないわけではないが、大半は国内の美術家であるため、おのずと日本の戦後美術史を部分的になぞるような経験を得ることができる。美術批評が作品と同伴していた時代のリアリティばかりか、双方が協働することで歴史が構築されてきた過程を目の当たりにするのだ。
しかし本展の最大の見どころは、そのような歴史的な珠玉の名品ではない。それはコンスタンティン・ブランクーシの全作品を形態的かつ系統的に分類して図表化した《ブランクーシ研究メモ》(1977頃)である。なぜなら、それは本展のなかでもっとも明瞭かつ濃厚に中原佑介の「眼」を体現していたように思われるからだ。
縦軸で時系列、横軸で作品の種別を表わしており、双方が交錯する升目に作品のイメージがすべて手書きで描きこまれている。例えば《接吻》や《空間の鳥》、《無限柱》といったブランクーシの代表的なシリーズが、いつ、どのような流れで制作されたのか、一目で理解できるようになっている。よく見ると、随所に原稿用紙の升目が透けて見えるから、原稿の裏紙を再利用したのかもしれない。
通常、このようなメモは参考資料として二次的に取り扱われることが多い。美術批評にとってのエルゴンがテキストであるとすれば、それらを作成するために用いられたメモ類はパレルゴンである。事実、この《ブランクーシ研究メモ》は雑誌に部分的に使用されたものの、その後刊行された単行本『ブランクーシ』(美術出版社、1986)には掲載されなかった。絵画にとっての額縁がそうであるように、美術批評にとってのメモは副次的な表象にすぎないというわけだ。
だが中原によって丁寧に描かれた図表には、エルゴンとパレルゴンの関係性を相対化するほどの大きな魅力が備わっているように思えてならない。緻密な筆致からブランクーシへ注がれた深い敬愛の情を読み取れないわけではないが、それ以上に伝わってくるのは、一枚の紙片に凝縮した中原の批評的な関心そのものである。言い換えれば、中原佑介の批評的なまなざしが、書物に連ねられた文字の羅列とは別のかたちで、紙という物質に定着しているように見えるのだ。それはメモであることに変わりはないが、もはやテキストに奉仕する義務から解放されているようだ。ちょうど今和次郎による考現学的なイラストレーションが、テキストのための図表というより、それ自体に自立した価値を含んでいることに近いのかもしれない。
《ブランクーシ研究メモ》は、私たちが思っている以上に、美術の語られ方が自由であり、豊かであることを示唆している。美術は批評家によって語られるだけではないし、誰によって語られるにせよ、その語り口は多様であり、しかもそのメディアも言語に限られているわけでもない。すなわち、美術はいかようにも語られうる。中原佑介は、意識的にか無意識的にかはともかく、「美術」という言葉の先に、そのような豊穣な地平をまなざしていたのではないだろうか。

2016/03/01(火)(福住廉)

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