artscapeレビュー

したため #7『擬娩』

2020年01月15日号

会期:2019/12/06~2019/12/09

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

タイトルの「擬娩(ぎべん)」とは聞き慣れない言葉だが、文化人類学の用語で「妻の出産の前後に、夫が妊娠にまつわる行為を模倣する(例えば床につき、節食し、分娩の苦痛に苦しむふりをする)」習俗を指す。本作の制作動機には、演劇ユニット「したため」を主宰する演出家の和田ながら自身が、「30代になり、自分の妊娠・出産について考えることを先送りできなくなった」という問題意識があるという。和田を含め、男女の出演者全員が出産未経験者である本作は、「擬娩」という習俗のもつ演劇的なフレームを借りて、「もし妊娠・出産したら、私のこの身体と日常生活に何が起き、どのような変容を被るのか」という想像力の起動を、徹底して極私的で即物的なレベルにおいて記述を積み重ね、俳優の身体表現を通して多面的にシミュレートするものであった。

冒頭、一筋の光の差す舞台奥の暗がりから、ごろんと一回転して転がり出てきた俳優たちの身体。彼らはぬめるように床を這って進み、やがて二本足で直立する。産道を通って産まれ落ち、二足歩行に至るまでのプロセスの抽象化。自意識と言語を獲得する以前の時間は、無言と薄暗がりに包まれている。やがて彼らは自身の身体部位に触りながら、身体的特徴やその遺伝的要素について口々に語り始める。歯並び、あごの骨格、左利き、親指をしゃぶる癖、手足が大きいこと、腸が弱いこと。極私的な細部についての語りは、だが、ちょうど俳優の頭部の位置に吊られた半透明の窓のような舞台装置を介することで、顔は曖昧にぼかされ匿名化されている。



[photo by Yuki Moriya]


そして列挙される個体差は、第二次性徴(初潮の遅さ、生理不順)を経由して、つわりの症状の多様性へと展開していく。好物の食べ物の匂いを受け付けず吐いてしまう、制御できない眠気に襲われる、隣の人のシャンプーや整髪料の匂いに敏感に反応して嘔吐をもよおす「匂いつわり」、口や胃の中につねに食べ物が入っていないと気持ち悪い「食べつわり」など、四者四様だ。「身体が私じゃなくなる、乗っ取られたよう」という不快感は、執拗に繰り返される嘔吐の音によって増幅され、見る者をも身体的に脅かす。また、タバコやアルコール、カフェインといった嗜好品だけでなく、風邪薬や頭痛薬の服用、車の運転や自転車、ハイヒール、遊園地のアトラクションなど「妊娠中の禁止事項」が列挙され、生活習慣の変化や活動の制限を余儀なくされることがさまざまに語られていく。

胎児と妊婦が窓=スカイプのウィンドウを介して通信する、コミカルかつ(劇中唯一)情緒的なシーンを挟んで、お腹が大きくなった中盤では、胎動、内臓の圧迫感覚、寝返りの辛さといった身体的変容が進行していく。そして、クライマックスの陣痛と分娩では、即物的・物質的な位相の記述から、「生と死の波打ち際」としての神話的世界へと一気に突き抜ける。「恥骨、仙骨、骨盤が開く」「腰が爆発するような熱と激痛」「子宮口が10cm開かないと胎児が出られない」と身悶えしながら絶叫調で実況する男優。次第に感覚が狭まる大音量のノイズの波=陣痛。荒海に放り出されたような感覚は、志賀理江子が自身の出産を綴ったテクストの朗読により、痛みの沸点を超えた先に、自他の境界も時間軸も溶解した神話的世界と接続する。生と死が最も近くせめぎ合う波打ち際。体の中の海としての羊水/死者の帰る場所でもある海。私の身体は、その海を内包し、包含されてもいる。



[photo by Yuki Moriya]


一転してラストシーンでは、俳優たちはフレームを手枷のように腕にはめ、「妊娠・出産」を取り巻く呪詛のような文句をオブセッショナルに唱え続ける。「産めよ増やせよ」「出産エクスマキナ」「石女(うまずめ)血の池地獄」「ハイクオリティたまご」「その妊娠は合意ですかルワンダ」「2000万円主義者」「ホルモンは私ですか、どなた様ですか」……。人口政策や出産の国家的管理、生殖医療の高度発達や資本産業化、性暴力、「女性なら産むのが自然」という価値観や社会的圧力など、より大きな枠組みが最後に提示される。だがそれらは次第にバグをはらんで破綻し、失速する。

このように、本作の最大の特徴かつ秀逸な点は、(舞台やドラマ、映画などで手垢にまみれた)「感動的な出産のストーリー」を徹底的に排除し、その代わりに「妊娠・出産」を「私のこの身体に起こる、不快で理不尽な変容のプロセス」のコラージュ的な積み重ねとして描き切った点にある。なぜ、無機的なまでに物語性を剥奪したのか? 本作の企図は、「夫(男性)」が妊娠をシミュレートする「擬娩」という習俗を援用することで、「妊娠・出産」という行為と「産む性としての女性の身体」との癒着をいったんリセットし、「女性なら産むのが当たり前」「母性愛」といった本質主義に陥ることを回避した地点から、想像的に捉え直すことは可能かという問いの投げかけにある。

したためとのコラボレーションは3回目となる美術作家、林葵衣による舞台美術も効果的だった。木枠にテグスを張り渡した一見シンプルなものだが、それを通してプライベートな細部を語る窓/匿名化する装置という両義性、妊婦と胎児をつなぐ媒介、産道としての開口部、そして手錠のような拘束的装置と、シーンの変遷に応じて意味を変容させていく。



[photo by Yuki Moriya]


ただ、難を言えば、ラストシーンは(挿入の必然性は理解できるが)やや唐突な展開に感じた。したためはこれまで、戯曲を用いずに俳優の個人的・日常的な経験の微視的な観察から演劇の言葉を立ち上げる試みと、テレサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』や多和田葉子など異言語との接触、翻訳、越境、ポストコロニアリズム、それらがもたらす身体的変容を扱ったテクストを用いた上演という、二つを主軸に作品を発表してきた。本作はその交差上にある現時点での集大成といえる試みであり、同時に「微視的で極私的な観察というミクロの位相と、社会政治的な枠組みに対する批評というマクロな位相をどう共存・接続させるか」という方法論的な課題を浮き彫りにしていたと思う。


関連レビュー

したため#4『文字移植』|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年07月15日号)
したため#5『ディクテ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)

2019/12/09(月)(高嶋慈)

2020年01月15日号の
artscapeレビュー