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artscapeレビュー

したため#3「わたしのある日」

2015年11月15日号

会期:2015/10/01~2015/10/04

アトリエ劇研[京都府]

演出家・和田ながらのユニットであるしたための特徴は、予め用意された台本を用いず、出演者との会話を積み重ねるなかから言葉を引き出し、時空間を構築していく方法論にある。本作では、「昨日、使ったお金はいくらですか」「昨日、嗅いだ匂いは何ですか」「昨日、待ち時間の合計はどのくらいでしたか」といった質問が投げかけられ、出演者たちは淡々と答えていく。具体的な数量や商品名として発語される回答は、断片化された情報の羅列にすぎず、観客に背を向けたままの出演者たちは匿名的な存在に留まり、微視的でありながらも個別的な相は立ち上がってこない。台本を用いず、出演者自身に取材し、個人的な経験や記憶から演劇を立ち上げていく手法はポストドラマ的と言えるが、ここでは、「日常」を丁寧に掬い上げてそのかけがえのなさを観客の前に差し出すというよりも、むしろ、些末な情報の断片や交換可能な無人称性として提示される。翌日になれば忘れてしまうような、些細でどうでもいいあれこれ。それらに執拗に向けられる質問。記憶=自己のアイデンティティを失うことへの不安感か?
「昨日のこと、覚えていますか」「忘れたくないものは、何ですか」。このように問えば、とかくノスタルジックに傾きがちだ。だが本作を覆っているのは、良い意味で暴力的な、明るい虚無感だ。質問内容は、「昨日、見つからなかったもの」「昨日、できなかったこと」といった欠落感や挫折を漂わせる。出演者たちは、微妙な距離感と匿名性を保ったまま、コミュニケーションを取ろうとするが失敗し、「伝えたかったこと」と「伝達されなかったこと」との間の溝が乖離していく。あるいは、居酒屋での注文を思わせるやり取りでは、1人だけ違う飲み物を注文した者が、皆と同じメニューを言うまで、「ビール!」の絶叫的な大合唱が反復される。一見たわいないシーンに見えるが、異なる意見を徹底的に無視し、同調性へと強制的に回収しようとする暴力が噴出する瞬間は、寒気を覚えさせた。
個別的な輪郭を持った「個人」でもなく、「集団」にもなりきれない彼らはやがて、一人ずつ倒れていく。暗転とともに、眠りや死の暗示。ここで「余韻」を残してしっとりと終わっていれば凡作だ。だが、「♪新しい朝が来た 希望の朝」という歌詞で始まる合唱曲が(歌詞の清新さをかき消すような)大音量でかかり、一時の休息も空しく、彼らは無理やり起こされ、自動的に新たな一日が始まってしまう。「明るい健全さ」という虚無的な暴力が蔓延し、彼らは抗う術を知らないのだ。
そして最後に、時制が奇妙な反転を見せる。「明日のこと、覚えていますか」「明日、買いそびれたものは何ですか」「あさって、初めてだったことは何ですか」「しあさって、また聞いた言葉は何ですか」。徐々に遠ざかる未来のことが、「過去形」で質問され、答えが返される。ここで一気に、演劇的な虚構の強度が立ち上がる。いやむしろ、彼らは、想像のなかで「明日」を反復している。予測・想像可能な範囲の延長線上にしか「未来」はなく、他人との微妙な距離感やコミュニケーションの挫折感を抱えたまま、その繰り返しにすぎないのだ。だが、空白の「今日」は一体どこにあるのだろうか。

2015/10/03(土)(高嶋慈)

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