artscapeレビュー
メットガラ ドレスをまとった美術館
2017年07月01日号
「メットガラ」とは、毎年5月の第一月曜日にメトロポリタン美術館で開催されるファッションの祭典。米ヴォーグ誌の編集長で、同館の理事でもあるアナ・ウィンターが、同館の服飾部門の活動資金を募るために、同館の企画展に合わせて開催している。この映画は、2015年の「メットガラ」の開催に向けた過程を、アナ・ウィンターと、企画展「鏡の中の中国」の担当キュレーター、アンドリュー・ボルトンとの2人に焦点を合わせながら追跡したドキュメンタリーである。ファッション界の知られざる内実を開陳するという点では、同じくアナ・ウィンターの編集者としての仕事に密着した『ファッションが教えてくれること』(September Issue、2009)に近いが、この映画の醍醐味は、むしろ現在の美術が抱えている問題を浮き彫りにしている点にある。
それは、美術が他分野との共生を余儀なくされているという問題だ。ファッションがアートか否かという問題はかねてから議論の対象となっていたが、この映画はむしろアートとファッションの互恵関係をありありと照らし出している。豪華絢爛なレセプションには名だたるセレブリティーたちが招待され、彼らに引き寄せられたメディア関係者が展覧会の情報を世界中に発信する。事実、「鏡の中の中国」展は興行的には大成功を収めたようだから、アートとファッションの共犯関係は、アートという美の殿堂に参画することを目論むファッションだけでなく、アートにとっても比べ物にならないほどのパブリシティを誇るファッションと手を組むことは十分にメリットのあることなのだろう。
しかし、そのような共犯関係は必ずしもすべての人間に歓迎されるわけではない。この映画の最大の見どころは、アンドリュー・ボルトンが提案した展示計画に、彼の同僚であるメトロポリタン美術館のキュレーターらが難色を示したシーンにある。美術の専門家である彼らは、あまりにもファッションに傾きすぎた展示計画に、収蔵品が「壁紙」になりかねないと懸念を表明するのだ。残念ながら、この場面はこれ以上深く追究されることはなかったが、ここには美術とファッションをめぐる価値闘争の実態が見事に体現されている。すなわち旧来のキュレーターにとって主役はあくまでも美術作品であり、ファッションと連動したオープニング・レセプションはそれこそ「壁紙」にすぎない。この短いシーンには、守るべきは美術であり、そのための美術館であるという、おそらくは国内外の美術館のキュレーターないしは学芸員が共有しているはずの頑なな信念が立ち現われていたのである。
ファッションと連動した美術館の産業化──。それが21世紀の資本主義社会を美術館が生き残るための生存戦略のひとつであることに疑いはない。だが重要なのは、資本主義の論理と美術の専門性を対比させたうえで、その戦略を肯定するか否定するかではなく、美術館を双方の生存をかけた結節点として捉え返す視点ではないか。現代社会における美術は、もはや他の文化領域との「共存」の段階にはなく、いまや「共生」の水準にあると考えられるからだ。生物学で言う前者は、縄張りに侵入してこないかぎり他者を攻撃しない状態を指し、同じく後者は一方が欠落すると、もう一方の生存が危うくなるほど緊密に結びついた相互扶助の状態を意味している。美術が何かしらの寄生先を不可欠とする文化領域であることは言うまでもあるまい。だがファッションにしても、ファストファッションの隆盛以降、「共存」を嘯く余裕は失われたといってよい。紙媒体に立脚したファッション雑誌にしても、同様の窮状にあることは否定できない。だからこそアナ・ウィンターは「共生」を求めてアートにアプローチしているのだろう。
「美術」や「ファッション」という狭義の分類法は、いまや縄張りを牛耳る既得権を持つ者にとってすら足かせにしかなるまい。近々のうちに、「造形」ないしは「つくりもの」という上位概念をもとにして制度や歴史、批評を組み立て直す作業が求められるに違いない。
2017/06/01(木)(福住廉)