artscapeレビュー
オリエント工業40周年記念展 今と昔の愛人形
2017年07月01日号
会期:2017/05/20~2017/06/11
ATSUKOBAROUH[東京都]
ラブドールの第一人者である「オリエント工業」の40周年記念展。1977年の創業以来、同社は幾度も技術的刷新を遂げた結果、ラブドールの造形的な完成度を飛躍的に高めてきた。本展は、歴代のラブドールを展示物と写真パネルによって紹介するとともに、その製作工程も写真によって公開したもの。一部のラブドールは実際に手に触れることができる、きわめて貴重な機会である。
男性の性欲処理のためのダッチワイフから精神的な関わりをもつことのできるラブドールへ。本展に展示された歴代のドールたちを通覧すると、その造形的な発展はもちろん、その意味の変容過程がよくわかる。むろんダッチワイフにしても人形と人間の距離感は近接していたが、ラブドールにおいては、その距離感がよりいっそう密着していることが理解できるのだ。
そのもっとも明示的な例証は、ラブドールの眼である。ダッチワイフの眼はただ虚空を見つめるように虚無的だが、ラブドールのそれは、飛躍的に向上したメイキャップの技術も手伝って、ある種の生命力を感じさせてやまない。ちょうど能面がそれを見る者の視点や光量によって表情を一変させるように、ラブドールの眼もまた、さまざまな感情を体現しているように見えるのだ。例えば彼女たちの視界に入り、視線の延長線上で前後に移動すれば、文字どおり眼と眼が合う適切な位置をとらえることができる。ペットショップで売られている小動物と眼が合った瞬間、ある種の運命的な出会いを(一方的に)直観してしまう人が多いように、ラブドールの眼がそのような決定的な出会いを誘発していてもなんら不思議ではない。ラブドールとは、人間の身体に密着するだけではなく、その心にも深く浸透する人形なのだ。
しかし、こうした造形が人間の心を奪うことは事実だとしても、そのあまりにも一方的なコミュニケーションのありようは、ある種の人間をラブドールから遠ざけてしまうことは想像に難くない。というのも、人間からラブドールへ働きかけることはいくらでも可能だが、ラブドールが人間に応答することは原理的にはありえないからだ。その自閉的なコミュニケーションの様態は、相互行為を前提とする人間と人間のコミュニケーションからはあまりにもかけ離れているがゆえに、忌避と批判の対象となるというわけだ。ところが、前述したペットは、まさしくそのような一方的なコミュニケーションの対象であるし、より正確に言い換えれば、一方的でありながら、あたかも双方向的であるかのように偽装する点にこそ、人間と愛玩動物との歪な関係性の秘密が隠されているのであろう。
ラブドールがまことに画期的なのは、その造形的な完成度が人間に近接している点にあるわけではなく、むしろそうであるがゆえに、人間と人間とのあいだのコミュニケーションが本来的には双方向的ではありえないという事実を逆照する点にあるのではないか。感動であれ、痛みであれ、快感であれ、あなたの感覚をわたしは共有することができない。可能なのは、想像力によって共有の感覚を分かち合うことだけだ。その分有の形式を、私たちは双方向のコミュニケーションやら相互理解やら麗しい言葉で指し示しているが、その実態はラブドールと同様、人為的につくられたフィクションにすぎない。ラブドールは、その人工的な虚構性を徹底的に突き詰めることによって、逆説的に、私たち人間が信奉してやまないコミュニケーションという神話の虚構性を浮き彫りにしながら、それらを無慈悲に剥ぎ取るのだ。
その意味で言えば、現在進行しているのは、ラブドールの人間化というより、むしろ人間のラブドール化なのかもしれない。今後、AIがラブドールに導入されることで、よりラブドールの人間化が押し進められることが容易に想像されるが、かりにそのような事態が現実に到来したとしても、ラブドールが限りなく人間に接近すればするほど、あるいは彼女たちと私たちとのあいだに言語的コミュニケーションが成立すればするほど、私たち自身のラブドール性が露わになるに違いない。
2017/05/29(月)(福住廉)