artscapeレビュー

リアルのゆくえ─高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの

2017年07月01日号

会期:2017/04/15~2017/06/11

平塚市美術館[神奈川県]

近年、写実的な絵画を歴史化する企画展が相次いでいる。「牧島如鳩展──神と仏の場所」(三鷹市美術ギャラリー、2009)をはじめ、「牧野邦夫──写実の精髄」(練馬区立美術館、2013)、「五姓田義松──最後の天才」(神奈川県立歴史博物館、2015)、「原田直次郎展──西洋画は益々奨励すべし」(埼玉県立近代美術館ほか、2016)など。必ずしも正当に評価されてきたとは言い難い、このような画家たちを再評価する気運が高まっているのは、現代絵画において写実表現が復権しつつある現状と決して無縁ではあるまい。
本展は、日本絵画史における写実表現の系譜を検証した展覧会。ここで言う「写実表現」とは、狭義のリアリズムを越えて、再現性にすぐれた迫真的で写実的な絵画表現全般を指す。本展は、その端緒を高橋由一に求め、五姓田義松、五姓田芳柳、原田直次郎、岸田劉生、河野通勢、伊丹万作、高島野十郎、牧島如鳩ら近代絵画の画家から、牧野邦夫、磯江毅、木下晋、吉村芳生といった現代絵画の画家まで、52人の画家による作品を一挙に展示したもの。とりわけ現代絵画について言えば、何人かの重要な画家が欠落している感は否めないが、その難点を差し引いたとしても写実表現の系譜を視覚化した画期的な展観であることは間違いない。
陰影法による立体表現と遠近法による空間表現──。西洋の石版画に触発された高橋由一は、西洋絵画の核心を以上の2点に求め、それらを油彩画によって貪欲に学び取ろうとした。だが、それは単に目に見えるがままを文字どおり写し取ろうとしたわけではなかった。本展で強調されていたのは、高橋由一にせよ岸田劉生にせよ、いずれも写実表現の先を見通していたという点である。前者は「精神」、後者は「神秘」という言葉で、鑑賞者の視線を描写された写実世界の向こう側に誘導することを、それぞれ欲していた。磯江毅の言葉を借りて言い換えれば、「写実を極めることは、写実でなくなってしまう」のである。本展の醍醐味は、現代絵画に連なる写実表現の歴史的系譜を明らかにした点だけにではなく、その端緒からすでに、そして現在にいたるまで、写実表現は写実を超えた領域にその本質を見出していたという事実を解明した点にある。
これまで現代絵画は写実表現を不当に貶めてきた。なぜなら、おおむね1970年代以後、現代絵画の中心はモダニズム絵画論に牛耳られたが、それは三次元的な遠近法や文学的な物語性を絵画の本質とは無関係な要素として切り捨てる一方、絵画の本質を平面性に求め、それへの純粋還元を金科玉条としたからだ。むろん、その背景にはイメージの正確無比な再現性という専売特許を写真に奪われた絵画が、それに代わる存在理由を探究した結果、平面性を発見したという経緯がある。けれども重要なのは、モダニズム絵画論ですら、絵画の本質を絵肌そのものではなく、その下に隠されている平面性に求めたという事実である。
つまり、現代絵画におけるモダニズム絵画論と写実表現は、それぞれ相互排他的な関係にあるが、じつはその本質を絵画のメタ・レヴェルに見出すという点では共通しているのだ。前者は目に見えるがままを描写することを拒否しながら、後者はそれを受け入れながら、しかし、双方はともに否定と肯定の身ぶりのうちに絵画の本質を置かなかったのである。むろん、この点は本展の展示構成に含まれていたわけではない。しかしモダニズム絵画論の神通力が失効した反面、かつてないほど写実表現が隆盛している現在、改めて確認されるべき基本的な論点であるように思う。写実表現の可能性が表面的なリアリズムの追究に回収されてしまっては、本末転倒というほかないからだ(なお付言しておけば、モダニズム絵画論というきわめてローカルな価値基準を普遍性の名のもとに正当化しながら現代絵画の歴史化を遂行してきた公立美術館は、今後その歴史にどのようにして現代の写実表現を接続し、歴史の全体性と整合性をどのように担保するのか、注目に値する。それが実質的に死んでいることは誰の目にも明らかな事実だとしても、美術大学などの中枢で今もしぶとく残存していることを考えると、文字どおり息の根が絶える前に、モダニズム絵画論を称揚してきた当事者自身による総括が必要なのではないか)。
しかし、この写実表現の基本的な前提を確認したうえで、なお私たちの眼を鮮やかに奪うのは、吉村芳生である。なぜなら、写真のイメージをまるで版画のように正確無比に写し取る吉村の絵画には、由一にとっての「精神」や劉生にとっての「神秘」のような、絵画のメタ・レヴェルを一切見出すことができないからだ。「私の作品は誰にでも出来る単純作業である。私は小手先で描く。上っ面だけを写す。自分の手を、目をただ機械のように動かす」という言葉を残しているように、吉村はいかなる精神性も内面性も超越性も絵画に期待することなく、ただひたすら転写を繰り返すだけの機械を自認している。「小手先」や「上っ面」という侮蔑の言葉をあえて引用しているところに、コンセプトを重視する反面、技術を軽視する現代美術にあえて反逆する反骨精神を見出すことができないわけではない。だが、それ以上に伝わってくるのは、絵を描く主体と描かれる客体とを峻別することすらないまま、ただただ絵を描き続ける機械と化した吉村の、大いなる虚無的な身ぶりである。それは、もしかしたら「絵画」も、あるいは「人間」すらも超越した、言葉のほんとうの意味での「タブロオ・マシン」(中村宏)だったのではないか。私たちが吉村芳生の絵画に刮目するのは、いかなる精神性も超越性も欠いた虚無的な身ぶりが、その絵画をそれらに由来した従来の「絵画」を凌駕させるばかりか、吉村自身を人間ならざる領域に超越させるという壮大な逆説を目の当たりにするからにほかならない。

2017/05/27(土)(福住廉)

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