artscapeレビュー
没後50年 中村研一展
2018年04月01日号
会期:2018/02/03~2018/03/11
福岡県立美術館 [福岡県]
太宰府から西鉄でシュッと戻って福岡県美へ。中村研一(1895-1967)というと、戦争画を描いた画家という以外なにも知らなかった。たとえば東京国立近代美術館にある戦争記録画のデータを見ると、153点のうち9点が中村の作品で、藤田嗣治の14点に次いで2番目に多い。なかでもマレー半島上陸作戦を描いた《コタ・バル》は朝日文化賞を受賞しており、戦争画のスターのひとりだったといえる。そのわりに、同じく戦争画の花形だった小磯良平や宮本三郎のように、戦後の活躍が華々しいわけではない。年齢からすると、ちょうど脂の乗り切った40代に戦争の時代を迎えるわけで、画業は学生時代を別にすれば戦前が約15年、戦中が約10年、戦後が約20年となる。ぼくが知りたかったのは、彼の戦前・戦中・戦後の画業のつながりだ。戦争画に手を染めた画家の多くは戦前と戦中、戦中と戦後の2度にわたって画業の断絶が認められるが、その断絶(と連続性)の程度を知りたかったのだ。
展覧会も大きく分ければこの3つの時代に沿って構成されている。戦前は帝展を舞台に《弟妹集う》や《瀬戸内海》などの大作を発表、華々しく活躍していた。戦災で多くの作品が失われたことを差し引いても、戦前すでにモダンな群像表現のスタイルを確立していたことがわかる。だが群像の大作を描けることが、戦争画制作に巻き込まれていく要因となったに違いない。《コタ・バル》に見る兵士たちの戦闘シーンは、戦前とは空気感こそまったく異なるものの、リアルな群像表現が生かされたものだ。一方、米軍機が撃墜される瞬間を捉えた《北九州上空野辺軍曹機の体当りB29二機を撃墜す》は、主題の激烈さとは裏腹のまるでモネを思わせる明るい色彩と軽快なタッチで表現されていて、これは逆に戦争画だからこそ許された実験的な表現ではなかったか。同展にはもう1点、戦争画の大作として《マレー沖海戦》が出ているが、これはイギリスの戦艦を攻撃する戦闘機を俯瞰構図で描いたもの。これほどわかりやすい戦争画もないが、それだけに勧善懲悪の安っぽいイラストにも見えてしまい、(俯瞰的視点を除いて)中村らしさは感じられない。
そして戦後になると、戦争画を描いたことがウソのように、いや戦争画を描いてしまったからこそそこから逃れるように、妻の肖像や身近な風景など穏やかな日常的モチーフに浸っていく。サイズも大作はすっかり影をひそめて小品が多くなり、陶芸にも手を染める。まるで余生を楽しむかのようだ。年数でいえば戦後がいちばん長いのに、出品点数でいえば(挿絵や陶芸を除くと)戦後がいちばん少ない。展覧会を見る限り、画業のピークは戦前・戦中にあり、戦後はオマケにすぎなかったとの印象は否めない。中村は《コタ・バル》をはじめとする戦争画ですべてを出し尽くしてしまったのか、それとも戦争に協力したという自責の念が亡くなるまで彼を圧し続けたのだろうか。
余談だが、帰りにカタログを買ったら、1972年に開かれた「中村研一遺作展」のカタログも付けてくれた。きっと大量に余っていたんだろう。これを開くと、いわゆる戦争記録画は後に中村の個人美術館である小金井市はけの森美術館が所蔵する《シンガポールへの道》1点しか出ておらず、解説も戦争画についてはほとんど触れられていなかった。153点の戦争記録画が永久貸与のかたちで返還されたのはその2年前で、まだ公開されていない時代だった。中村が現在の戦争画再評価を知ったらどう思うだろう。
講演会「官展洋画の寵児・中村研一 戦前から戦後への断絶と継承」(2018/3/3 福岡県立美術館視聴覚室)
展覧会の会期中3回の講演会が組まれ、本当は1回目の菊畑茂久馬の「絵描きが語る中村研一と戦争画」を聞きたかったけど、スケジュールが合わず断念。でも今日のテーマ「戦前から戦後への断絶と継承」はいちばん興味あるところだし、講師の高山百合氏が同展を企画した学芸員であるのも幸いだった。はしょっていえば、高山氏は中村の戦前と戦後の画業は断絶しているより一貫しているとの見方。高山氏は中村の作品の特徴として、反復、俯瞰、トリミング、V字構図、赤と黒の組み合わせ、ストライプなどを挙げ、戦前・戦中・戦後のいずれの時代にもこれらの特徴が見られるという。なるほど、画像を見ながらの比較分析は説得力がある。
そしていちばんうなったのが、敗戦直後に描かれた東南アジアの民族衣装をまとう妻の肖像画についてだ。アジアの衣装を着けた女性像は戦前からしばしば描かれ、ひとつのジャンルとして確立していたほどだが、それは「アジアはひとつ」という大東亜共栄圏の思想をソフトに表わしたもので、本質的には戦争画と同じ意味合いをもつ。したがって戦争画と同じく戦後はだれも描かなくなった主題なのだ。ところが中村は戦中だけでなく敗戦後もこれを描いていた。展覧会では「戦中から戦後へ──民俗服をまとう女性たち」という独立した章として扱われていて、1946、47年に描かれた《マラヤの装い》と《サイゴンの夢》の2点が出ている。高山氏はこれを、中村の戦中と戦後を断絶させることなくつなげようとする継続の意思表示と見る。画家の大半が主題を右から左へ転換させるなか、中村がひとり変わらず戦前からの主題を描き続けたのは、画家の矜持ゆえか。ただそうはいってもそれは敗戦直後のエピソードであって、その後はね。
2018/03/03(村田真)