artscapeレビュー

2018年04月01日号のレビュー/プレビュー

第21回岡本太郎現代芸術賞展 

会期:2018/02/16~2018/04/15

岡本太郎美術館[神奈川県]

絵画でも立体でも映像でもインスタレーションでもパフォーマンスでも、とにかく縦横高さ各5メートルの空間内に収まる未発表作品であればOK、国籍も年齢も問わないという公募展。さすがに岡本太郎の名を冠しているだけあって毎回ベラボーな作品が多い。というか、ベラボーさを競い合ってるみたいな。まあかつての読売アンデパンダンほどではないにしろ(見たことないけど)、いまどき珍しく熱のある貴重な展覧会といえる。今年は応募作品558点のうち26組が入選。20倍強の狭き門だ。

同展はテーマもないし審査員も固定しているのに、毎回なんとなく異なる傾向が見られるのもおもしろい。今回の傾向のひとつはモノの集積だ。同じモノを描くのでも1個より100個描いたほうが100倍効果があるとはウォーホル以来の常識だが、規定のスペース内で目立つためには量で勝負、空間いっぱいに作品をつくりたいけど、大きな立体をつくる場所もないし搬入出も大変だ、そこで大量の断片を集積して空間を埋めてやれみたいなセコい考えもあるかもしれない。だが岡本太郎賞のさいあくななちゃんによる《芸術はロックンロールだ》は、紙やキャンバスに描いた稚拙な「女の子絵」を壁3面と床の一部にびっしり並べたもので、そんな邪推を一掃する破壊力を秘めている。1点1点はピンクを主調としたカワイイ系の絵だが、それが5メートル立方の空間を余白なく埋め尽くすことでグロテスクな洞窟(グロッタ)と化している。岡本敏子賞の弓指寛治の《Oの慰霊》は、記号のような鳥を描いた数万枚の木の札で壁と床を埋めたもの。床には棺桶のような木の箱、正面の壁にはアイドルだったOが飛び降り自殺したビルなどを描いた絵が掲げられている。ほかの入選作品にも、新聞紙でつくった数百体ものクラゲの人形を床に置いた木暮奈津子の《くらげちゃん》、千台以上の中身のないスマホを並べて人のかたちを描いた橋本悠希の《拓》、日本各地を旅した記録を展示するワタリドリ計画(麻生知子・竹内明子)の《祝・ワタリドリ計画結成10周年!》など、集積作品は少なくない。

と、ここで念のため去年のレビューを見てみたら、前回も集積系が多いと書いているではないか! ガーン……。でも今回はもうひとつ、特筆すべき傾向があった。それは死の香りだ。さいあくななちゃんは200字ほどの「作家の言葉」のなかで、「死ねなら死ねでいいし」「どうせ死ぬんでどうでもいいです」と3回も「死」という語を使っているし、弓指寛治はアイドルのOと母の自殺が制作の動機となっている。特別賞の市川ヂュンは1万5千個のアルミ缶を溶かして鋳造した半鐘を出しているし、やはり特別賞の冨安由真はポルターガイスト現象を生じさせるお化け屋敷をつくってみせた。また、黒木重雄はテロにより爆撃された都市風景を描き、笹田晋平は高橋由一の《鮭図》を涅槃図と結びつけ、○△□(まるさんかくしかく)は太陽の塔や《明日の神話》をモチーフに死と再生を表現している。ほかにも死を予感させる作品がいくつかあった。これはいったいどういうことだろう。

2018/02/16(村田真)

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DOMANI・明日展PLUS×日比谷図書文化館 本という樹、図書館という森

会期:2017/12/14~2018/2/18

日比谷図書文化館[東京都]

文化庁の海外研修制度(在研)の成果を発表する「DOMANI・明日展」の関連展示。きっかけは昨年の「DOMANI・明日展」の出品作家の折笠良が、ギャラリートークで彫刻家の若林奮の著書『I.W─若林奮ノート』について触れたこと。若林も在研の初期のころフランスに滞在した経験があり、そのとき訪れた先史美術の遺跡について書いたのが『I.W─若林奮ノート』だ。同展は、当時若林が収集した石片や絵葉書、写真、スケッチブックなどを中心に、「本」に関連する在研経験者の作品を選んだってわけ。会場をあえて日比谷図書文化館にしたのもそのためだ。手描きアニメの折笠や、ペラペラマンガみたいなアニメの原型を出した蓮沼昌宏、ヨーロッパの古い図書館を鉛筆で描いた寺崎百合子らの作品は直接的に本をイメージさせるが、小林孝亘や宮永愛子らはいささかこじつけっぽい。


帰りぎわに上階の図書室にも藤本由紀夫の展示があるといわれたものの、時間がないのでスルーしようと思ったが、やっぱり急ぎ足で見ることに。いやー見てよかった。本棚の隙間にアルファベットのパスタを散りばめたり、「Look」「Book」と1字ずつ変えながら「Head」「Read」へとアナグラムしたり、「ECHO」という文字を鏡の上にのせたり(天地逆転しても変わらない)、全紙サイズの種類の異なる紙を閉じた超大型の白紙本を置いたり、文字と本をテーマに遊んでいるのだ。これこそ「本という樹、図書館という森」を楽しむ作品群にほかならない。やっぱり図書館でやるなら展示室より書棚や閲覧室を使いたい。っていうか、よく使わせてくれたもんだ。

2018/02/17(村田真)

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EUKARYOTE プレビュー

会期:2018/02/16~2018/02/25

EUKARYOTE[東京都]

神宮前のワタリウム美術館の近く、トキ・アートスペースの「近藤昌美展」を見に行ったら、向かいのビルに新しいギャラリーがオープンしたと教えてくれた。行ってみたら、ビルにギャラリーがオープンしたというより、1階から3階までの3フロアと屋上を丸ごと使っているので、ギャラリービルがオープンしたというべきか。セゾンアートギャラリーにいたスタッフが独立して開設したもので、EUKARYOTEとはメンバーのイニシアルをつなげたネーミングかと思ったら、真核生物という意味で「ユーカリオ」と読むらしい。プレビューは石川和人、山口聡一、高山夏希、中島晴矢ら12組。元気よく暴れてほしい。

2018/02/22(村田真)

日本スペイン外交関係樹立150周年記念 プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光

会期:2018/02/24~2018/05/27

国立西洋美術館[東京都]

会場に入っていきなり出くわすのが、ベラスケスの《フアン・マルティネス・モンタニェースの肖像》。ベラスケスより一世代上の彫刻家の肖像とされるが、人物の描写に比べ右下の塑像の描き方がなんともお粗末。チョビヒゲをはやしているのでモデルはフェリペ4世らしいが、まるでしりあがり寿のマンガではないか。続いて、彫像を触る盲目らしき男性像(リベーラ)、キリストの顔が現れた聖顔布(エル・グレコ)、パレットを片手に磔刑像の傍らに立つ画家の絵(スルバラン)などが並んでいる。みんな美術を主題とする作品ばかりだなと思って戻ってみると、第1章は「芸術」だった。ほかにもイダルゴの《無原罪の聖母を描く父なる神》や、カーノの《聖ベルナルドゥスと聖母》、リシの《偶像を破壊する聖ベネディクトゥス》など、神様が絵を描いたり、彫刻の聖母像の乳房から飛ばされた母乳を修道士が口で受けたり、修道士が美術品を破壊したり、日本人が理解に苦しむ宗教画がいっぱいあって楽しい。

第2章は「知識」で、ここでも犬儒学派の哲学者を描いたベラスケスの《メニッポス》がトップを飾り、第3章の「神話」もベラスケスの《マルス》から始まっている。ふつう展覧会の目玉作品はもったいぶって最後のほうに展示するものだが、今回は惜しげもなく各章の頭にベラスケスを持ってきている。これはつまり、見るべき作品はベラスケスだけではありませんよという自負の表れではないか。ちなみに第4章「宮廷」は《狩猟服姿のフェリペ4世》、第5章「風景」は《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》、第7章「宗教」は《東方三博士の礼拝》と、第6章の「静物」を除いてトップはいずれもベラスケス作品で占められていて、なんとも贅沢な気分。

ベラスケス以外にも特筆すべき作品を挙げると、まずティツィアーノの《音楽にくつろぐヴィーナス》がある。ベッドに横たわる裸のヴィーナスをピアノ弾きの男性が振り返って見ているエロチックな場面だ。同じ主題の絵がほかにも2点あるが、これがいちばん先に描かれたようだ。見る者を圧倒するのが、カルドゥーチョ帰属の《巨大な男性頭部》。縦横それぞれ2メートルを超す巨大画面いっぱいにいかつい男の顔が描かれているのだ。なぜこんな絵が描かれたのか不明だが、驚かすつもりで描いたとしたら現代的な発想ではないか。このまま画面をつなげて全身を描いていけば、10メートルを超す巨人像になるだろう。アルスロートの《ブリュッセルのオメガングもしくは鸚鵡の祝祭:職業組合の行列》も驚異的。幅4メートル近い横長の画面に、ブリュッセルのグランプラスで行進する人たちと背後で見物する人たち、合わせて数千人を描き込んでいるのだ。単純に、よくめげずに描き上げたもんだと感心する。同展は点数こそ約60点と絞られているが、大作が多いので見ごたえがある。

2018/02/22(村田真)

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劇団ドクトペッパズ『うしのし』

会期:2018/02/23

国立オリンピック記念青少年総合センター 第1体育室[東京都]

「牛の死」を描いた本作は手のひらサイズの人形によって上演される人形劇だ。糸で繰られる老人と老いた牛は老いを映すようにふるふると震える。老い、死に近づくほどに私たちは自らの体を思うようには動かすことができなくなり、それは物体としてのあり様を露わにしていく。

舞台となる空間の大きさは5メートル四方ほどもあるのだが、老人の家と畑は空間の前面に置かれた30センチ四方ほどの二つの台の上にあり、牛とともに畑仕事に勤しむ老人はその小さな世界で充足している。しかし牛の死がその世界の終わりを告げる。唯一の伴侶を失った老人は呆然と座り込む。ふと見ると、引くもののない牛車がするすると進んでいく。追いかける老人。牛車ははるか先へと進みゆき、老人は気付けば何もない真っ白な雪原にひとり取り残されている。広大な世界に放り出された老人の人形はより一層小さく見える。

と、真っ白な雪原は一瞬にして、色とりどりの花が咲き乱れる桃源郷へと変わる。そこにあの牛が酒を運んでくる。再会を祝し盃を干す。花びらが舞い、次の季節が訪れる。青々と茂る稲に風が吹き渡り雲が流れる。いつしか牛は再び去っている──。

広大な世界のなかで個々の命は圧倒的に孤独で小さい。誰が死のうと季節はめぐる。だが、その死の一つひとつはめぐる自然の理へと組み込まれている。死を通して世界の大きさに触れる彼らの手つきは温かい。ほとんどの演出効果が人力によっていることも大きいだろう。台詞らしい台詞はない。「おーい」と牛を呼ぶ老人の声。牛の鳴き声。舞う花びら。ばらんでできた稲が吹く風に立てるパタパタという音。それぞれが確かにそこにあることを確かめるようにして上演は進む。小さな人形と広い空間の対比、一瞬で季節が変わる舞台美術など、人形劇ならではの手法と仕掛けが鮮やかに作品の主題を浮かび上がらせていた。

本作は劇団ドクトペッパズのレパートリーのひとつであり、夏にも上演が予定されている。

公式サイト:http://dctpeppers.wixsite.com/mysite

劇団ドクトペッパズ『うしのし』ダイジェスト版:https://www.youtube.com/watch?v=uFYLQdK4fnQ

2018/02/23(山﨑健太)

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