artscapeレビュー

水野暁—リアリティの在りか

2018年06月01日号

会期:2018/04/15~2018/07/01

高崎市美術館[群馬県]

明治から現代までの写実絵画を集めた平塚市美術館の「リアルのゆくえ」展で、現代のほうで目に止まったのが水野暁だ。近年は写実絵画ブームだそうだが、その多くが「どうだスゴイだろ」といわんばかりの技巧を誇示するような絵でヘキエキするが、水野はそんな写真丸写しの表層的リアリズムとは一線を画している。というより、むしろ正反対の位置にいるといっていい。もともと西洋の写実絵画は、固定した1点から見た瞬間の静止像を画面に写すことで成り立つ。これが遠近法だが、この原理に則って写真が生まれたのだから、その写真を絵に描くというのは本末転倒というか、屋上屋を重ねるような滑稽さが伴う。

それに対して水野は、たとえば山を描くとき、何時間も何日間も何カ月間も、ときに何年間も(もちろん断続的にだが)その山を見続けて描き続ける。当然ながら午前と午後とでは太陽が動き、天気も変わる。やがて季節が変わり、風景も徐々に変化していくが、それもすべて描く(上書きするというべきか)。つまりその山の絵は、何年何月何日何時何分の一瞬の姿ではなく、2年3年の時間が積み重なった現象の集積になるのだ。実際に何年もかけた《Rebirth—果樹について—》(2009-12)、《The Volcano—大地と距離について/浅間山—》(2012-16)、《故郷の樹》(2015-18)などは、そうやって完成させたものだろう。いや、そうやって描き続ければいつまでたっても完成しないはず。だからどこかの時点で時間の流れを断ち切らざるをえず、そこを「完成」としなければならない、そういうジレンマを抱えている。

まあそこまでならかろうじて想定内だが、この展覧会を見て驚いたのは、水野がさらに一歩進めて、すべての動きを定着させようとしていること。パーキンソン病の母をモデルにした《Mother》では、不随意運動を伴う手足の動きを千手観音のごとく描き込んでいる。こんな人物画は初めて見た(しかし長時間露光の写真ではこれに近いものが得られるはず)。ただしこれは未完成で、これからどこまで手足の動きや顔の表情が増えていくのか、それをどうやって「絵」として完成させるのか、させないのか。水野はリアリズムを極めつつ、すでにリアリズムを超えつつあるといえるだろう。タイトルの「リアリティの在りか」は、平塚で問われた「リアルのゆくえ」のひとつの解答かもしれない。

2018/05/11(村田真)

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