artscapeレビュー

小野晃太朗『おわれる』

2022年01月15日号

会期:2021/12/29~2021/12/30

こまばアゴラ劇場[東京都]

2020年に『ねー』で第19回AAF戯曲賞を受賞した劇作家・小野晃太朗の新作『おわれる』が上演された。プロデューサーの松岡大貴によれば、豊岡公演・東京公演それぞれ2日間4回で合計8回のみの上演となった今回の公演は、AFF戯曲賞の受賞で注目を集めた小野のほかの戯曲にも光をあて、上演の機会を設けるために企画されたものだったという。なるほど、本作では小野自身が演出を手がけているが、そもそも小野は肩書きとして劇作家・ドラマトゥルクを名乗っている。AFF戯曲賞の受賞作である『ねー』は2021年11月に受賞記念公演として今井朋彦の演出で上演されたが、そういう場でもなければ演出を兼ねない若手劇作家の戯曲にはなかなか上演の機会は回ってこない。コロナ禍においてはなおさらである。

2015年に執筆した短編戯曲「通過」を書き直し、新たに後半を書き下ろしたという本作は、ある部屋を舞台に3人の人物が言葉を交わす1時間程度の作品。AAF戯曲賞の受賞作である『ねー』が登場人物34人、「都市のあらゆるところ」を舞台にした戯曲にして119ページ、今井演出では上演時間2時間20分という大作だったのと比較するとシンプルな構成だが、テーマは通底している。描かれるのは加害と被害、償いと糾弾、そして赦しの可能性だ。


[撮影:トモカネアヤカ]


ある部屋に同居しているらしい女(毛利悟巳)と男(矢部祥太)。「話をして」と女に請われた男は過去の話をしはじめ、いつからか自分は「海に追われている」と打ち明ける。どこに行っても追いかけてくる波の音。理由はわからないという男は一方で「僕のほうから何かしたんだと思う」とも言う。罪の意識が聞かせる幻聴のようなものだろうか。「そのうちここを出ることになると思う」という男の言葉を女は「仕方ないことは必ずある」と受け入れる。女もまた「私の中で暴れるもの」や「ずっとかなしい気持ち」を抱えて「時間を待って」いるらしい。


[撮影:トモカネアヤカ]


[撮影:トモカネアヤカ]


女はまた男に対し「いま考えてる責任のとりかた」は間違っているとも言うが、どうやって男を止めたらいいかわからないでいる。「海は墓場なんだ。海は僕を迎えにきている」と言って部屋を出て行った男はすぐに、別の女に刃物をつきつけられた状態で戻ってくる。彼女は鉄の女を名乗り「家族も友達も、家も故郷も、全部沈んだ」と男を糾弾し殺そうとする。「自分のしたことを思いだせ」と詰め寄られるも「覚えがない」と答える男。女は隙をついて刃物を取り上げると「殺した後、あなたは何をするの?(略)人殺しが」と鉄の女に問うが、彼女は「この男に聞いて欲しい」と応じ、男が答えられないのを見ると「なら宿題だ」と言って去っていってしまう。


[撮影:トモカネアヤカ]


この作品では加害/被害の具体的な内実はほとんど語られず、抽象的な言葉だけが連ねられていく。加害の記憶が忘れ去られる一方で被害の記憶が思い出したくないものとして押し込められてしまうということはしばしばあり、鉄の女も「痛みを避けて言葉にすると、そんなもんだ」とそれらしきことを言いはするのだが、それにしてもこの作品からは奇妙なまでに具体性が排除されている。

このあと「帰る場所がない」という鉄の女が再び部屋に現われ、三人はお茶を飲み言葉を交わす。会話を通じて男と鉄の女には変化が訪れ、男は改めて考えるために散歩に出かけ、鉄の女はしばしその部屋に止まる。単純な筋なので話がわかりづらいということはないのだが、具体的な内実に欠けるやりとりから登場人物の感情の動きを追うことは困難だ。鉄の女の登場場面を除けば終始淡々と発せられる言葉の調子も感情を見えづらくしている。結末はある種の予定調和でありながら、短い上演時間も相まって男と鉄の女の変化に至る過程は十分に描かれていたとは言えないように思う。目を背けてきた罪とようやく対峙した加害者、追い続けてきた加害者とようやく対峙した被害者が少しだけ変わり、そして未来に目を向けるようになる。そんな図式だけが示されているようでさえある。


[撮影:トモカネアヤカ]


だがもちろん問題は、なぜそのように具体性を排除したかたちでこの物語は描かれているのか、という点にある。率直に言ってしまえば、観終えた直後の私は作品に対して大いに不満を抱いていた。加害/被害の問題を扱うのならば、それは具体的な内実とともに描かれるべきで、そうでなければ良し悪し以前の問題ではないか、と。

そう、これはおそらく良し悪し以前の問題なのだ。鉄の女が言うように「人間が人間を裁くためには、ライセンスと、そのための場所が必要」なのであり、客席はそのための場所ではない。登場人物たちの選択は彼女たち自身のもので、私にそれをジャッジする資格はない。小野は『ねー』で客席を「無力な世界、見ているだけで何もできない世界」と呼ばせていた。『おわれる』には直接的に客席に言及するような台詞はないが、世界の具体性は明らかに観客に対して伏せられている。それでも私はなんらかのジャッジを下そうとし、情報の不足に不満を覚える。あるいは登場人物に過剰に寄り添うのも同じことだ。そのような傲慢さは現実にもありふれている。『おわれる』を通してジャッジされるのは登場人物ではなく観客のふるまいなのかもしれない。


小野晃太朗『おわれる』:https://owareru-2021.jimdosite.com/

2021/12/30(木)(山﨑健太)

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