artscapeレビュー
2022年01月15日号のレビュー/プレビュー
浜松の博物館めぐり
[静岡]
浜松の博物館めぐりを行なう。まず駅から歩いてすぐの浜松市楽器博物館(1995年開館)は、正直、建築空間として特筆すべきものはないが、充実したコレクションに感心させられた。一階はアジア、日本、設営中の企画展示として電子楽器、地下は西洋やアフリカの楽器を展示する。古今東西の楽器は、視覚的にもバリエーションがあって楽しいが、やはり音を聴いてみたいし、どのように演奏するかが気になる。展示では、映像やボタンを押しての音の再生によって表現していたが、まだ工夫の余地があると思われた。なお、鍵盤のエリアでは、触れる断面模型のモックアップによって音をだす仕組みを紹介している。
鉄道を挟んで向かいにある《浜松科学館》(1986)は、1980年代に流行したハイテクのデザインを子ども向けにアレンジしつつ、構造、空調ダクト、機械室などを可視化することによって、学びの素材としながら、科学のイメージを表現していた。ほかにも随所に設けられた小窓、階段室の遊具的なしかけ、内部の鉄筋を示す柱などの遊び心が確認できる。近年、展示のリニューアルが行なわれ、インタラクティブなメディア・アート的な展示によって、子どもが主体的に科学を理解する機会を提供していた。
《浜松市博物館》は、1979年に竣工した一昔前の建築だが、10年ほど前にリニューアルし、展示の手法は現代的にアップデートされていた。具体的にはグリッドのパターンにもとづくデザインを徹底し、パネルや什器を立面・平面ともに正方形の組み合わせによって構成している。また模型の一部は、市民が協力して制作しており、生々しい。
なお、敷地の周辺には、縄文後期の蜆塚遺跡や、ザ・モダンというべき昭和建築(旧館、もしくは収蔵庫か?)も隣接している。最後は静岡文化芸術大学(2000)を訪問し、教員の松田達、植田道則、藤井尚子らと面談し、学内のギャラリーや地域連携の展示の方法について状況をうかがう。また建築史家の長尾重武氏の関係で保管する、かつて展覧会で使われたレオナルド・ダ・ヴィンチの理想都市の大型の模型を見学し、活用の方法について意見交換を行なった。ちなみに、《静岡文化芸術大学》は巨大な複合施設のようなキャンパスになっており、とくにうねうねした屋上の空間がおもしろい。
2021/12/09(木)(五十嵐太郎)
登呂遺跡
[静岡]
久しぶりに静岡の登呂遺跡を訪れた。本来ならば、敷地から富士山が見えるはずで、おそらく、当時そこで暮らしていた人にとって大きな意味をもっていたと思われるが、現在はすぐ近くまで住宅地が迫っており、まったく視界に入らない。こうした関係性を確認するためには、隣接する登呂博物館に入り、その屋上テラスから周囲を見渡す必要がある。
ところで、復元された遺跡は、当初の復元と少し違う。博物館の順路の最後にある発掘の歴史を紹介する部屋において、建築史家の関野克の設計によって、1951、52年に復元された竪穴住居と高床倉庫の模型が展示されているが、これらの棟の先にはっきりとV字型に交差した材が張りだす。実は屋外でも、静岡市立芹沢銈介美術館の前の木陰に隠れて、旧復元建物を移築保存しており、そこがメモリアル広場と命名されている。現在の復元には存在しない細部のデザインは、おそらく、神社建築に特有な千木のイメージだろう。ちなみに、復元された現在の祭殿には、堂々とこのモチーフが使われている。日本建築の起源として登呂遺跡を位置づけたい欲望が、かつての住居や倉庫の復元案に千木をもたらしたと考えると興味深い。
もうひとつ登呂遺跡をめぐる欲望として個人的に大きな発見だったのは、当時の日本人がこれをどう考えていたかという社会背景を教えてくれる展示だった。最後の部屋における発掘に参加した人たちのインタビューをいくつか視聴したり、新聞報道などを読むと、敗戦後の日本にとって平和国家を歩む新しいシンボルとして、登呂遺跡の発掘に過剰な期待が寄せられていたことがわかる。なるほど、まだ食糧難が続く時代だった。しかも、サンフランシスコ講和条約の前だから、日本の主権が回復する前である。もともと戦時下の1943年に軍需工場を建設しようとしていたときに、遺跡が発見されたことを踏まえると、まさに同じ場所が戦争のための施設ではなくなり、稲作を行ない、平和に暮らす弥生人という日本の原点にシフトしたわけだ。インタビューでは、こうした熱気を受けて、発掘作業に従事していた高揚感が語られるとともに、現在ではそれがほとんど忘れ去られていることを嘆いていた。今では歴史の教科書の1ページでしかない。しかし、これは日本全国が注目した発掘プロジェクトだったのである。
2021/12/10(金)(五十嵐太郎)
libido:Fシリーズ episode:02『最後の喫煙者』
会期:2021/12/10~2021/12/26
せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]
libido:所属俳優によるひとり芝居シリーズ「libido:F」のepisode:02が上演された。今回、俳優の緒方壮哉が題材として選んだのは筒井康隆の「最後の喫煙者」。嫌煙権運動が過激化し喫煙者が排除されていく世界で「最後の喫煙者」となった小説家が、そこに至るまでを振り返る体裁の短編小説だ。筒井を思わせる作家の独白として書かれたこの短編を緒方はほとんどそのまま舞台に載せ、ひとり芝居として上演してみせた。
木ノ下歌舞伎やロロ、FUKAI PRODUCE羽衣の作品でも活躍する緒方の魅力のひとつはその身体能力の高さにある。舞台で跳ね回るような大きな動きから指先だけで行なわれるミニマムな演技まで、よくコントロールされた身体はどの舞台でもパッと目を引く。本作でも緒方は狭い会場で縦横無尽の暴れっぷりを見せる、のみならず、ラップやモノマネなどの「芸」も披露し、上演はさながら緒方壮哉ショーの様相を呈していた……のだが、50分の上演時間のほとんど最初から最後まで全力投球を(しかも間近で!)見せられるので、終わる頃にはこちらも少々疲れてしまった。もちろんそれは原作の作家の語り、筒井の文体が持つ勢いを体現したものではあるのだが、緒方のよさを活かすという意味ではもう少し緩急があってもよかったかもしれない。終始見せ場では見せ場がないのと同じである。
さて、俳優が自ら持ち込んだ企画を演出家の岩澤哲野とともに練り上げていくこのシリーズだが、アフタートークによれば、今回の演出上のアイデアの多くは緒方が持ち込んだもので、岩澤の主な役割はともすれば詰め込みすぎになるアイデアを上演を成立させるために整理していくことにあったという。アフタートークでは作品選定や演出の意図についても緒方が自らの言葉で語っており、自立したつくり手としての頼もしさを感じた。
会場である元社員寮を改装したアトリエはアパートの一室といった趣。そこに緒方が「帰ってくる」ところから芝居ははじまる。ドアを開け靴を脱ぎ、手にしたコンビニのレジ袋をちゃぶ台に置いた緒方はマスクを外すと一旦下手に消える。どうやら手洗いうがいをしているようだ。戻ってきた緒方はおもむろにタバコに火をつけると部屋の奥の神棚らしきものを拝む。よく見るとそれはタバコのパッケージが積み上げられたものだ。レジ袋から取り出した缶チューハイとタバコを手に、緒方は『最後の喫煙者』の文庫本を読みはじめる。
実はこの冒頭部はlibido:Fシリーズepisode:01『たちぎれ線香』を反復している。舞台側の出入り口が玄関の一箇所しかないことを逆手にとってか、男が帰ってきて手洗いうがいをし、部屋の奥に向かって拝んでみせるまでの一連の流れが『たちぎれ線香』と『最後の喫煙者』でまったく同じなのだ。シリーズを追う観客にとっては楽しいくすぐりだがそれだけではない。『たちぎれ線香』で拝まれていたのは主人公の若旦那が入れ上げていた芸者・小糸の位牌。『最後の喫煙者』でその位置をタバコが占めているのはブラックユーモア以外の何物でもない。小糸は恋煩いの末に亡くなってしまうが、タバコに執着した作家が結局は「最後の喫煙者」として(強制的に)保護されようとする結末を考えればなおさらだ。『たちぎれ線香』は線香が消えて終わるが、タバコに火をつけるところからはじまる『最後の喫煙者』のタバコの火は最後まで消えないのである。
続く物語世界への導入部分も秀逸だ。緒方が文庫本を読んでいると蠅の羽音らしきものが聞こえてくる。読書に集中できず追い払おうとするが、蠅はしつこく飛び回る。やがて緒方がちゃぶ台の上で蝿を踏み潰さんとしたその瞬間、蠅の羽音はヘリコプターのローター音へと切り替わり、一転して緒方は追われる側となる。BGMはモーリス・ラヴェルの『ボレロ』。部屋の奥に設置されたモニターには逃げ惑う緒方の姿が映し出され、隠れる場所はどこにもない。観念したのかちゃぶ台の上に丸椅子を置き、その上にどっかと座りタバコを吸う緒方。そこは国会議事堂の頂だ。
小説「最後の喫煙者」は国会議事堂の頂に追い詰められ「最後の喫煙者」となった語り手が「地上からのサーチライトで夜空を背景に照らし出され」「蠅の如きヘリからのテレビ・カメラで全国に中継されている」場面ではじまる。『ボレロ』が終わると同時に明かりは消え、再び明るくなると緒方は何事もなかったかのようにちゃぶ台で文庫本を読んでいるが、そこはすでに物語世界のなかだ。
原作の短編小説が発表されたのは1987年。しかしここで描かれた「禁煙ファシズム」は2021年の日本においてはすでにほとんど完成されてしまっている。優れたSF小説がしばしばそうであるように「最後の喫煙者」もまた未来を先取りしていた。小説「最後の喫煙者」を上演するということは俳優の身体でもって小説世界を現実化するということだが、「最後の喫煙者」の世界はすでに「現実化」されてしまっているのであり、だからこそ喫煙者である緒方が2021年の日本で演じる『最後の喫煙者』にはどこか哀愁が漂う。
蠅の羽音は直接的には「蠅の如きヘリ」の比喩から導かれたものであろうが、追う側であったはずの緒方が突如として追われる側に転じる導入も効いている。『ボレロ』の旋律は繰り返されるなかで異なる楽器に引き継がれていく。排除の旋律もまたその対象を変え繰り返されるだろう。たとえばマスクの着用をめぐる諍いが殺人にまで発展する現実を見れば、30年以上前の筒井のブラック・ユーモアはますますアクチュアルなものになっていると言えるだろう。それがもはや笑えないものになっているとしても。
2月には緒方個人としてK-FARCEプロデュース公演『#スクワッド』への出演が予定されている。libido:Fシリーズとしては鈴木正也によるepisode:03が4月に上演予定だ。
libido::https://www.tac-libido.com/
関連レビュー
libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)
2021/12/10(金)(山﨑健太)
八戸市美術館
2021年1月にすでに完成した躯体は見ていたが、開館後は初めてとなる《八戸市美術館》(2021)を訪問した。西澤徹夫・浅子佳英・森純平の設計による空間は、ジャイアントルームの吹き抜けが最大の特徴であり、廊下を介することなく、ホワイトキューブを含む、それぞれの専門的な部屋と直接につながっている。何もないときは工業地帯の景観が有名な八戸らしく(例えば、「八戸工場大学」の活動がある)、工場のような大空間だったが、市民がいる状況では、安東陽子がデザインしたカーテンによる空間の分節が効いており、ヒューマンスケールの調整を行なう。
開館記念の「ギフト、ギフト、」展は、ほぼ全室を使い、美術館のさまざまな空間を市民に向けてのお披露目を兼ねていた。八戸三社大祭やデコトラなど、地元の固有性をモチーフにした作品、桝本佳子の超絶技巧、KOSUGE1-16のユーモアなどを組み合わせる。そして建築チームは会場構成のみならず、作家としても参加し、リサーチをもとに、設計のヒントにもなった八戸の諸事象のネットワークを立体的に可視化した。近年の弘前れんが倉庫美術館、アーツ前橋、太田市美術館・図書館と同様、海外の巨匠を展示するのではなく、ここも地域資源に注目している。ただし、ラーニングというプログラムを積極的に打ち出したのが、新機軸だろう。
青森アートミュージアム5館連携協議会連携事業「建築にみるこれからの美術館 ~八戸市美術館の可能性~」のトークイベントにて、筆者はモデレーターを担当したが、閉じられた部屋での議論ではなく、上下左右のあちこちで人々が行き交うなかでのトークは、せんだいメディアテークのオープンスクエアよりも、さらに進んだ空間の体験だった。そして登壇者の発言、来場者の質問、視聴者の書き込みによって、今後この美術館をどう使ったらいいかという建築の可能性を考えるいい機会になった。実はトーク終了後の懇親会でも、同じテーマでさらに議論が続き、みんなで使い方をあれこれ提案したくなる、美術館の幸せな誕生に立ち会うことができた。市民からノルディック・ウォーク(!)に使いたいという要望があり、11月末に実現しているらしいが、この日も壁に何か描きたいとか、ジャイアントルームと諸室のアクティビティを逆転させるなどのアイデアが生まれている。
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続 コロナ禍のなかでの青森県立美術館──企画展再開と青森アートミュージアム5館連携協議会の始動|工藤健志:キュレーターズノート(2021年03月15日号)
2021/12/12(日)(五十嵐太郎)
山陽の磯崎建築をめぐる
[岡山、山口]
仙台を早朝6時台に出発し、新幹線を乗り継ぎ、11時台に岡山駅、そこからレンタカーを使い(途中で久しぶりに磯崎新の《岡山西警察署》(1997)に立ち寄ったが)、13時過ぎに奈義町現代美術館に到着した。企画展「花房紗也香展─窓枠を超えて─」のカタログに論考「どこまでが外部で、どこまでが内部か」を寄稿したこともあり、2年連続での同館の訪問となった。これまでに見た作品も勢揃いしつつ、子どもたちとのワークショップの作品も加わり、絵画によって白い展示空間にさまざまな「窓」をあけていた。展覧会にあわせ、彼女が企画した国際アートイベント「Nagi Contemporary Arts Project」はすでに終了していたが、山陰と山陽をまたぐYin-Yang (イェンヤン)Art Projectや(実際、奈義町は岡山よりも鳥取から行く方が近い)、今年、革細工作家が新設したギャラリースペースのStudio Moimを案内してもらう。またGallery FIXAの横には宿泊棟も開設したほか、今後はMOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIOによるこども園や、畝森泰行の中学校も建設されるらしい。人口5,500人台の奈義町において、いろいろな動きが起きている。
翌日は 秋芳洞で建築にはつくれない凄まじい自然の地下空間を体験してから、 《秋吉台国際芸術村》(1998)の磯崎建築群をまわった。力作である。ピアノの発表会が終わるのを待ってから見学した、ルイジ・ノーノ作曲の「プロメテオ」に対応する特殊な群島型のホールは、やはりほかに類例がない空間である。その造形は秋芳洞も想起させるが、ここで「プロメテオ」を聴いてみたい。
現在、芸術監督が不在であるため、本来のスペックを生かした実験的な取り組みはあまりされていないようだが、ポテンシャルをもつ施設だ。例えば、高山明に依頼したら、独特の空間を生かした興味深い作品ができるのではないか。本館棟の背後にあって、おそらくアンドレア・パラディオのテアトロ・オリンピコを意識した野外劇場も、草が生え、長く未使用になっている。展示ギャラリーでは、ポストカードのコンテストを開催中だった。とんでもなく天井が高いレストランは、ウェディング業者が運営に入り、一連の施設が結婚式などで活用されている。宿泊棟では、実際に一泊することで、付設された中山邸(再現バージョン)をラウンジとして利用することもでき、これは大変に良かった。3,000円台という良心的な値段であり、テレワークにも使えそうだが、星野リゾートあたりがリニューアルをして、食事付きのプランを設定すれば、高価格のデザインホテルに変えられるのではないか。
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「プロメテオ ──聴く悲劇(トラジェディア・デル・アスコルト)」日本初演|阿部一直:アートトピックス(1998年11月16日号)
2021/12/18(土)(五十嵐太郎)