2019年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

入船 19

2019年04月15日号

会期:2019/03/28~2019/03/29

本町橋船着場~大阪ドーム前千代崎港[大阪府]

2015年より、アーティストやミュージシャンなどさまざまなゲストと共に、大阪市内の水路を夜間に船で巡るパフォーマンス・ツアーを行なってきた梅田哲也。夜間、それも船の上という非日常空間で、大阪の街並みを裏側から眺めつつ、乗船したアーティストらが船中で行なう、あるいは道中に仕掛けられたパフォーマンスを体験するというものだ。5年目となる今回は、これまでの公演やリサーチを踏まえて梅田が一人で行なう「夜のパフォーマンス・クルーズ」、中高校生とのワークショップを元に行なう「夕方のパフォーマンス・クルーズ」、誰も登場せず、何も起こらない「パフォーマンスしないクルーズ」の3本立てで開催された。

私が今回体験したのは、「夕方のパフォーマンス・クルーズ」。大阪市内の中高生と共に、「言葉を川に沈める」という構想の元、上演された。市内中心部の本町橋船着場から船に乗り、道頓堀や京セラドーム大阪の前を通って、水門を抜け、大阪港までクルーズする。観客はヘッドホンと受信機を渡され、ラジオから流れてくるさまざまな音声──女性の詩的なナレーション、中高生たちが語る「川」「湖」「水」にまつわる記憶、梅田の実況など──に耳を傾けながら、対岸の景色や移りゆく空を眺める。高速道路の高架が頭上を覆い、閉塞感を感じながらの序盤。高架がなくなり、空が抜ける開放感とともに、いくつもの橋をくぐりながら船はにぎやかな道頓堀へと向かう。筏に乗った中高生たちが、もう一隻の小さな船に引かれて併走する。ヘッドホンから流れる断片的な物語や中高生たちの語りは、誰かの記憶が混ざり合った川のなかに身を沈めるような感覚をもたらすが、道頓堀の看板の文字を掛け声のようにリズミカルに読む若い声が響き、目の前の光景に連れ戻す。あるいは、「この辺りは普段、鳥がたくさんいる」という梅田の声とともに、海鳥や(いるはずのない)アシカの声がヘッドホンから流れる。記憶の浮き沈みと、現実の光景とのズレ/二重化を繰り返すような体験だ。



[撮影:西光祐輔]

行き交う遊覧船や対岸の観光客が手を振るにぎやかなゾーンを抜けると、近未来的なドームが現れ、さらにその先の巨大な水門へ。対岸に船や倉庫が続き、「港」らしくなってきた風景のなか、「日本で唯一現存するアーチ型水門」について解説する梅田。水門を抜けると広い川面が広がり、夕陽が穏やかな水面を照らす。ボーッと鳴り響く太い汽笛。その音は、金管楽器が美しくも不協和に重なり合う和音に変わっていく。ヘッドホンを外し、冷たくなってきた風に晒されながら身を乗り出すと、その音は対岸の橋のたもと辺りから聴こえるようだ。「音」の演出を巧みに用いて虚実曖昧な領域に連れ出す、本作の個人的なハイライトであり、茫洋とした水面の広がりのなか、方向感覚も現実感も一瞬喪失するような感覚を味わった。



[撮影:著者]

「入船」はいわゆる「ツアー・パフォーマンス」の一種だが、「船の上から鑑賞する」形式も相まって、どこか揺らぎを伴っている。誰かの断片的な記憶、見えているものの実況、汽笛や鳥の声、あるいはそのフェイク。複数の「声」「音」によって目の前の光景が多層化され、虚実の皮膜が混じり合い、(見逃しや聞き逃しも含め)それぞれの観客が受け取るものはおそらく異なり、パーソナルな体験に近づく。実は私の受信機は調子が悪く、序盤のナレーションは雑音でほとんど聴き取れなかったのだが、「流れてくる音声に没入する」あるいは「音声を無視して対岸に手を振ったり、夢中で写真を撮る」他の観客たちの振る舞いを外側から観察するのも興味深かった。「ヘッドホン」は強制的な装置ではあるが、外してもいい(意志的な選択によって、あるいは機械の不調という不可抗力によって)。「同じ船にいながら、体験を完全には共有できない」という本作の性質は、経験の同質性を前提とする舞台芸術(とりわけ、古代ギリシャ以来、共同体の成立基盤でもあった演劇)への批評でもありうる。TPAM2018で上演された『インターンシップ』でも強く感じたが、「音」を通して日常/非日常が混淆するあわいを出現させ、身体的な揺さぶりをもたらす梅田作品の根底には、上演批判、劇場批判がある。



[撮影:西光祐輔]

公式サイト:https://newfune.com/

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