2019年12月01日号
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artscapeレビュー

トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために

2018年03月15日号

会期:2018/01/21~2018/05/06

国立国際美術館[大阪府]

全フロアを使用した、開館40周年記念展。第1部「The Multilayered Sea:多層の海」では「記憶や時間の多層性」を扱った作品、第2部「Catch the Moment:時をとらえる」ではパフォーマンス作品(とその記録)を中心に展示。コレクションを核に、本展のために制作された新作群を加えた構成となっている。

第1部「多層の海」では、「失われ(かけ)た記憶とその修復」に向き合う作品群が目を引く。例えば、「ジャコメッティ」の影に埋もれた元恋人の女性彫刻家の生涯を、息子の証言/映画的な再現映像で辿るテリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーの《フローラ》。スクリーンの表/裏に投影された2つの映像が同期することで、証言/フィクション、記憶/再現、カラーの現在/モノクロの過去が表裏一体のものとして交錯する。また、小泉明郎の映像作品《忘却の地にて》は、第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させることで、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する。ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダは、60年代の前衛美術を2年間熱心に記録し続けた美術ファンの男性によるスクラップブックを、紙のシワや裏写りまで正確に再現。「記録の空白」を埋める一個人の記録活動に敬意を示すとともに、彼の記録方法に倣って、「現在の東京」の美術動向を記録したもう一冊のスクラップブックを制作した。チラシやチケット、写真を紙に貼り付け、手書きのメモを添えるというアナログな方法だ。そこには、歴史を参照し、その方法論を「再利用」しつつ「現在」へとアップデートをはかろうとする作家的態度への自己言及性も見てとれる。

また、「コレクションとのコミッションワーク」も新たな試みとして注目される。ピピロッティ・リストは、高松次郎が「影」を描いた壁面絵画に映像を投影。お馴染みのポップで浮遊感あふれる植物や水中の映像が漂うが、「高松作品」である必然性に乏しい。地味で埋もれがちな高松作品をカラフルに救済し、「エントランスで観客の目を引く仕掛け」に留まる点が惜しまれる。また、カリン・ザンダーは、収蔵作家143名から自作にまつわる「音」を集めた《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》を制作。観客は、作家名のみが記されたキャプションの前で音声ガイド機のボタンを押して「鑑賞」する。物理的実体の代わりに「作家の肉声や制作時の音」を収集した本作は、一種の美術館批判と言えるだろう。あるいは、サービス重視に努める美術館での「作品鑑賞」が「オーディオガイドを聞く体験」に他ならず、「作品の不在化」に対する皮肉ともとれる(ちなみに、本展自体の「オーディオガイド」も例にもれず用意されている)。

一方、パフォーマンス作品(とその記録)に焦点を当てた第2部では、コレクションを紹介しつつ、ライブパフォーマンスを展示に組み込むことで、「収集」が困難な作品に向き合う美術館のビジョンを模索する。フルクサスのインストラクション(塩見允枝子)、記録写真(ヴィト・アコンチ、植松奎二、榎忠)、記録映像やビデオアート化(マリーナ・アブラモヴィッチ)、パフォーマンスに使用された残存物(工藤哲巳)というように、これまでの「パフォーマンスの収蔵方法」(=メディアの変換)を見せつつ、その延長線上に、生身のパフォーマーが展示室で行なうライブパフォーマンスを組み込んでいる。例えば、アローラ&カルサディーラの《Lifespan》は、同館で初めて収蔵されたパフォーマンス作品である。天井から吊るされた古代の小石に、3人のパフォーマーが息や口笛を吹きかけ合い、蘇生や交信を試みるようだ。

こうした取り組みは、「新たな美術館像」の提示としてチャレンジングである一方、慎重に考慮すべき側面もある。「美術館への収蔵」がパフォーマンス作品の制作の前提となり、ある種の「囲い込み」「選別」につながる可能性は否定できない。例えば、野外で行なったり、暴力的な要素や身体の露出を含むものは排除され、「美術館の展示室で安全に見せられる作品」が暗黙の内に収蔵の前提条件となるおそれがある。それは、政治的なボディ・アートやフェミニズム・アートにおける「支配的体制への身体的抵抗」という歴史的背景を切り捨ててしまうことに繋がりかねないだろう。この点で、ティノ・セーガルの参加は看過できない。出品作《これはプロパガンダ》は、観客が展示室に入ると、監視スタッフと同じ服装をして紛れたパフォーマーが歌い出し、不在のキャプションの代わりに「作品タイトル、作者名、制作年」を口頭で告げるというものだ。収蔵や展示にあたっての契約を口頭で行ない、一切の記録化を禁止するセーガル作品は、「パフォーマンスの物象化」への極北的な抵抗を示すようでいて、美術館制度との共犯関係の下に成立する。「監視スタッフ」という通常は不可視化されている存在を可視化しつつ、「行為の依頼や代行」という権力関係が浮上するのだ。

「パフォーマンス作品の収蔵」の取り組みは、既に海外の美術館では始まっている(例えば、上述のセーガル作品はテートが収蔵している)。それは、固定化された物理的実体に依拠する展示/美術館という近代的制度の中に、「時間軸の経験」を導入するものとして、根本的な変化をもたらすだろう。

2018/02/10(土)(高嶋慈)

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