artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

芳木麻里絵「触知の重さ Living room 」

会期:2017/01/17~2017/02/04

SAI GALLERY[大阪府]

芳木麻里絵は、版画(シルクスクリーン)の工程における「版の刷り重ね」がもたらす積層構造を戦略的に活用し、二次元に圧縮された画像(情報)/三次元に出力されたインクの層(物質)とのズレや差異について問題提起を行なう作家である。芳木がモチーフとするのは、レースのカーテン、チョコレートや飴の包み紙、絨毯や布張りのソファなど、「表面」の繊細な陰影や起伏、柔らかな手触りを持ち、触覚性を喚起する質感を持つものだ。作品の制作工程は、以下のような段階的な手順を踏んでいる。1)作家が「質感の気になる手にしたくなったモノ」を写真に撮影し、2)パソコンの画像編集ソフトに取り込み、光の階調に沿って形状を参考にしながら6~8版に分解する。3)アクリル板の上にシルクスクリーンで、1つの版につき数十~百回くらいインクの層を刷り重ねていく。こうして、刷られたモチーフは数mm~1cmほどの立体的な膨らみを獲得し、近寄って斜めから見ると、インクの色ごとの層が地層のように積み重なっていることが分かる。
このように、デジタル化された画像データが、積層構造の出力によって再-物質化されるプロセスは、3Dプリンターによる造形を連想させる。また、「版」という概念は複製性とも結び付く。しかし芳木の作品は、単に「元のかたちの復元・再構築」ではない。1)写真撮影=画像化によっていったん二次元へと置換され、フラットに均質化された表面は、2)版分解の操作において、質感や光沢といった感覚的な差異を増幅され、3)インクの層として多層化・物質化されて再び三次元の世界へ送り返されることで、触知可能なものへと変換される。それは、イメージを原資とし、二次元の画像世界に一方では係留されていながら、物質性を帯びた三次元の世界へとわずかだが確実にせり出している。イメージでも物質でもあると同時に、非物質的なイメージの世界にも実在的な物質の世界にも完全には定位できない。むしろ、芳木の作品が仕掛けるのは、イメージ/物質、二次元/三次元、表面/本質という二項対立の撹乱、両者を完全に弁別することへの疑義である。
それは同時に、「私たちは何にどのようにリアリティを感じるのか」という問いの提出でもある。試しに、写真画像から質感や光沢といった感覚的情報を剥ぎ取ってしまったら、のっぺりと単調になった表面は何も魅力を語らず、私たちの目を惹きつける力を失ってしまうだろう。質感や光沢は、表面に依存する点でそれ自体は自律的存在ではないものの、「繊細できれい」「柔らかくて気持ち良さそう」「つややかで高級感がある」と感じさせるリアリティの在りかを逆説的に支えている。その効果が最も発揮されるのが、印刷物やモニター画面といった二次元の画像の領域だ。芳木作品は、「表面」に現象的に付随する──それゆえ「非実体的」「非本質的」とされる質感や光沢を、物質化=実体化するという矛盾・反転によって、私たちを取り巻く画像の視覚経験のあり方を照射している。
また、本展では、新たな展開として、「空間」「奥行き」に対する意識が見られた。以前の作品では、モチーフをスキャンして得た画像データを元に、一枚のアクリル板の上にインクを刷り重ねていた。一方、本展で発表された新作・近作では、「レースのカーテンのかかった窓辺」を撮影した写真が元になり、支持体のアクリル板が5~6cmほどの厚みのあるボックス型になった。「表面」をなめるように均一に読み取っていくスキャニングの水平的な視線から、「窓にかけられたカーテン」という垂直性への移行。そこには、透明なガラス面を境に、窓の桟の影が示す向こう側の空間と、カーテンの襞の揺らぎが示す手前の空間、といった奥行きや空間的秩序が発生する。インクの物質的な多層化と、手前から奥へと展開する空間的秩序が互いに陥入し合ってせめぎ合う作品は、美しく繊細な見かけの中に、「見ること」の安定した視座を崩壊させる暴力性をも秘めていた。


芳木麻里絵《Untitled(#1~6,8,10)》60.5cm×49cm×厚み 6cm、アクリルボックスの上にシルクスクリーン、2015~2016

2017/01/21(土)(高嶋慈)

山崎阿弥「声の徴候|声を 声へ 声の 声と」

会期:2016/12/17~2017/01/22

京都芸術センター[京都府]

山崎阿弥は、自身の「声」を自在に用いて表現するアーティストであり、映像・造形作家でもある。これまで、灰野敬二、坂田明、外山明、鈴木昭男、飴屋法水らとの共演を行ない、2017年1月からNHKで放送される『大河ファンタジー「精霊の守り人」』シーズン2では、ナレーションと「精霊」などのさまざまな声で出演している。本企画「声の徴候|声を 声へ 声の 声と」では、録音された声を多重的に空間配置してつくり上げるインスタレーションの【re:verb】と、生声によるライブの【re:cite】という異なる2つの発表形態が展開された。
ライブの【re:cite】では、石川高(笙)と森重靖宗(チェロ)と共演。暗闇と静寂が支配するなか、登場した山崎の喉から漏れるのは、小鳥の囁くようなさえずりだ。一瞬にして、清澄な空気に満ちた森の中へと、空間が変貌する。威嚇するような獣の鋭い声、深い森の奥で鳥たちが囁き交わすざわめき、風の吹きすさぶ草原、ゴボゴボと音を立てて速い水が流れる渓流、そして切れ切れに歌われる子守歌のような微かな旋律。口笛、囁き声、喉を鳴らす音、息の漏れる音、舌打ち、など多様な技法を駆使して発される「声」に、チェロと笙の神秘的な音が寄り添い、さまざまな「風景」が音響的に立ち現われては消えていく。山崎の姿は、モンゴルのホーミーやイヌイットのスロート・シンガーを思わせ、自身の声を媒介に自然と交信しているかのようだ。
一方、サウンド・インスタレーションとして展示された【re:verb】では、会場となった元小学校の1階から3階までのスロープや廊下に、10~20個ほどのスピーカーを点在させ、各スピーカーからそれぞれ異なる「声」が再生され、多重的に重なり合う音の磁場をつくり上げた。1階では動物や鳥の鳴き声が響き合い、生命に満ちた森の喧騒を思わせるが、スロープを上がるにつれて、口笛混じりの歌が聞こえ、「人間」の気配を感じさせる音響が入り混じり、3階の上方からは天上的なハミングの調べが恩寵のように降り注いでくる。あるいは、風に混じってしわがれ声の呪詛のような音響が耳の周りをすばやく通過する。空間の上昇とともにサウンドスケープが変化し、微かな物語性が発生する。録音の複製性を、声の「複数性」へと読み替えて展開させたこの【re:verb】では、ライブ公演における単線的な時間的展開に対して、鑑賞者の歩行やその速度、身体の向きの変化によって、音響が空間的な遠近感を伴って展開・聴取される。音の回廊の中を歩き周り、音の磁場の中で佇み、突然あらぬ方向から聞こえてきた音の方へ耳を澄ます。それぞれの観客ごとに、同じ聴取経験は二度となく、表現手段として複製技術を使っているものの、体験自体は複製できない。水や風がしゃべっているのか? 人の声が自然の音を模倣しているのか? 聞いているうちに両者が曖昧になり、境界が溶け合うような感覚に包まれる。真冬の夜の暗闇の中、ひとりで音の磁場の中に身を置いていると、肉体が消滅した後はこの響きの中に加わって一緒になるのだ、そんな思いに襲われた。

2017/01/20(金)(高嶋慈)

荒川朋子 個展「つぼ」

会期:2017/01/07~2017/01/15

KUNST ARZT[京都府]

荒川朋子は、民俗信仰のご神体や秘教めいた呪具、性器を象った儀礼的オブジェを思わせる木彫をつくり、その表面を体毛のような毛が覆ったり、長い黒髪が垂れ下がる彫刻作品を発表している。コロンと丸みを帯びたフォルムは愛らしいが、ツルツルに磨きこまれた表面は、体毛のような毛が生えることで人間の皮膚を思わせ、グロテスクで何とも薄気味悪い。
加えて本個展では、陶で制作した壺の表面にびっしりと「植毛」を施した《毛の生えた壺》が発表された。表面の滑らかさを嘲笑うかのように、毛穴のような極小の穴から「生えた」無数の毛。それは「皮膚」へと接近し、「彫刻」において捨象されてきた「表面(表皮)」と「触覚性」の問題を前景化させる。「表面に毛を生やす」荒川の作品は、視覚的フォルムと空間に占めるボリュームの問題として制度化されてきた彫刻に対して、捨象・抑圧されてきた「表面(表皮)」及びその「触覚性」を取り戻す批評的試みである。また、「彫刻」がその外部へと排除してきた民俗的・宗教儀礼的なオブジェを擬態していることを合わせて鑑みれば、「彫刻」の制度に対する二重の批評性を胚胎させていると言えるだろう。
さらに、荒川が表面に生やす「毛」の素材が、「つけまつ毛」であることに注目したい。つけまつ毛は本来、女性の目をパッチリと大きく美しく見せるために付けるものだ。しかしここでは、表面をびっしりと覆うまでに過剰に増殖し、グロテスクな変貌を遂げている。「表面の過剰な装飾」という点でそれは、携帯電話や小物の表面をキラキラのビーズやラインストーンで覆って多幸感あふれるオブジェに変身させる「デコ」という現代女性の文化・嗜好とも通じる感性だ。だが荒川は、女性をカワいく見せる「まつ毛」という増やしたいものを過剰に増殖させることで、「毛(ムダ毛)」という除去すべき(とされる)ものへと変貌させてしまう。「美」へのオブセッショナルな欲望が増幅されることで、むしろグロテスクでおぞましいものへと反転してしまうこの転倒した身振りは、女性が抱える「美(=他者からの肯定)」の強迫観念に対する批評としても解釈できる。荒川作品は、「ムダ毛」という、忌み嫌うべきものであるからこそ執拗に回帰してくる存在を「祓い、鎮める」現代の呪具なのだ。

2017/01/10(火)(高嶋慈)

プレビュー:DANCE BOX ARCHIVE PROJECT vol.1 1995年のGUYS

会期:2017/02/11~2017/03/05

アートエリアB1[大阪府]

関西ダンスシーンの中核を担ってきたNPO法人DANCE BOXは、20周年記念を機に、これまでの膨大で貴重なダンス関連資料を整理するとともに、舞台芸術関係者のみならず、さまざまな立場の人が活用できる仕組みの構築を目指して、「アーカイブ・プロジェクト」を立ち上げている。2016年10月には、「アーカイブ・プロジェクト vol.0」をアートエリアB1で開催。2014年のKOBE-Asia Contemporary Dance Festival #3で上演された、松本雄吉×垣尾優×ジュン・グエン=ハツシバによる『nước biển/ sea water』のアーカイブ展示を行なった。作品映像に加え、衣装、舞台美術、朗読テクスト、ミーティングの音声データなど、複合的な要素を展示空間に再配置し、モノと情報、記憶が交差する場をつくることを試みた。
「アーカイブ・プロジェクト」の本格的な始動となる今回の「vol.1」は、「1995年のGUYS~ダンスボックス設立前夜、関西のコンテンポラリーダンス激動の時代~」と銘打たれている。DANCE BOX設立のきっかけともなった、1995年に伊丹市のアイホールで行われた公演『GUYS』を基軸に展開する。冬樹、ヤザキタケシ、サイトウマコト、由良部正美ら、今も活躍するダンサーをはじめ、関西の男性ダンサー陣が一堂に出演した『GUYS』にまつわるさまざまな資料を振り返り、当時のアーティストが何を志向していたのか、そして彼らが現在に何をもたらしたのかを検証するとともに、関西ダンスシーンのこれからを考えるための場づくりを試みるという。本プロジェクトは、関西ダンスシーンの歴史的検証の場となるとともに、舞台芸術の記録・アーカイブのあり方をめぐって考える機会となるだろう。
また、90年代半ばの関西(とりわけ京都)では、アーティストたちが緩やかに連帯しながら、自分たちの手で環境作りを行なっていったことがひとつの動向として挙げられる。例えば、ダムタイプ周辺のアーティストたちが1992年に立ち上げた自主運営のアートセンター「アートスケープ」や、京都を拠点に活動するコンテンポラリー・ダンスカンパニーMonochrome Circusのメンバーが中心となって1995年に始めた国際ダンスワークショップフェスティバル「京都の暑い夏」がある。DANCE BOXの設立も、単にダンス分野の一団体の設立であることを超えて、そうした同時代的な動向の中で再考されるべきだろう。

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『nước biển/ sea water』特別展示上映 ダンスボックス アーカイブプロジェクト(高嶋慈):artscapeレビュー

2016/12/21(水)(高嶋慈)

プレビュー:小森はるか『息の跡』

会期:2017/02/18

ポレポレ東中野(東京都)、横浜シネマリン(神奈川県)、フォーラム仙台(宮城県)、フォーラム福島(福島県)、名古屋シネマテーク(愛知県)、第七藝術劇場(大阪府)、神戸アートビレッジセンター(兵庫県)

映像作家、小森はるかによる劇場長編デビュー作品。小森は、画家で作家の瀬尾夏美とともに、東日本大震災後、岩手県陸前高田市に移住し、アートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」としての活動を開始。土地の風景や人々の声を、色彩豊かなドローイング、詩的なテクスト、ドキュメンタリー映像によって記録する活動を続けてきた。本作『息の跡』は、山形国際ドキュメンタリー映画祭、神戸映画資料館、せんだいメディアテークでの上映を経て、待望の全国劇場での上映となる。
この映画では、津波によって流された種苗店を自力で再建し、ブリコラージュ的な工夫と知恵をしぼりながら経営する「佐藤さん」の日常が、季節の移ろいとともに約1年間かけて映し出される。さらに、佐藤さんは種屋の経営に加えて、もうひとつ別の仕事も行なっている。それは『The Seed of Hope in the Heart』という被災記録の自費出版であり、震災後に独学で習得した英語と中国語で執筆され、作中では英語の第5版を執筆中であるという。「記録すること」のそれほどまでの執念に彼を向かわせるものは何なのか。なぜ彼は、外国語の独習という困難な試みを引き受けて、「非-母語」で書くことを選択したのか。その答えは、ぜひ映画を見てほしい。
『息の跡』というタイトルは詩的で示唆的だ。吹きかけた息のように一瞬で儚く消えてしまうものと、息を発すること、すなわち「声」の痕跡をとどめること、という相反する契機がそこには読み取れる。本作は、単に「震災のドキュメンタリー映画」を超えて、「記録する」行為や衝動それ自体へのメタ的な言及をはらんだひとつの記録と言えるだろう。
公式サイト:http://ikinoato.com/

2016/12/21(水)(高嶋慈)