artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プレビュー:Monochrome Circus+Kinsei R&D『T/IT:不寛容について』

会期:2017/03/10~2017/03/12

京都芸術センター[京都府]

ダンスカンパニー・Monochrome Circusを率いる坂本公成と、LED照明を手がける照明家・藤本隆行(Kinsei R&D)によるコラボレーション・シリーズ作品の第3弾『T/IT:不寛容について』が上演される。ドラマトゥルクにShinya B(米国ペンシルバニア州立テンプル大学芸術学部アート学科上級准教授)を迎え、作曲は元dumb typeメンバーの現代音楽家・山中透が手がける。最先端のメディアとダンスを融合し、国際社会が抱える問題を「Tolerance/Intolerance(寛容/不寛容)」という切り口から考察する舞台作品になるという。
1990年に設立され、京都を拠点に活動するMonochrome Circusは、各メンバーが独立してソロやデュオの公演を行なっており、グループとしては即興的なコンタクトを活かした有機的なアンサンブルを持ち味としている。家具やグラフィックのデザインを手がけるgrafなど、他ジャンルのアーティストとのコラボレーションも積極的に行なっている。今回、Monochrome Circusと3度目のコラボレーションを行なうKinsei R&Dの藤本隆行は、1987年から dumb type に参加し、主に照明並びにテクニカル・マネージメントを担当してきた。2000年代以降は、LED照明を使った舞台作品の制作を開始。2010年からは大阪の山本能楽堂にて、古典能の演目にLED照明を付ける試みも始めている。
世界的な難民問題、テロと移民排除の動き、ドナルド・トランプのアメリカ大統領就任がもたらす波紋など、人種・民族・宗教・言語といった共同体の成立基盤をめぐり、同化/排除の構造や対立はますます激しさを増している。そうした現代社会のあり方に対して、身体表現とメディアを融合した舞台作品がどのように切り込むのかが期待される。

2017/01/30(月)(高嶋慈)

プレビュー:村川拓也『Fools speak while wise men listen』

会期:2017/03/04~03/05 早稲田小劇場どらま館
会期:2017/03/09~03/12 アトリエ劇研

気鋭の演出家・村川拓也による演劇作品『Fools speak while wise men listen』(2016年9月に京都のアトリエ劇研にて初演)が、東京と京都の2都市で再演される。本作は、日本人と中国人の「対話」計4組が、ほぼ同じ内容を4セット反復するという基本構造を持つ。同じ「対話」が「(演出家不在の)稽古風景」のように何度も繰り返されるなか、「対話」の不均衡さが露呈されるとともに、「反復構造とズレ」によって「演劇と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造を鋭く照射する作品であった(詳細は以下のレビューをご覧いただきたい)。
この初演の後、村川は、中国でのワークショップとその発表公演、そしてユン・ハンソル監修の『国家』(韓国ver.)の2作品を各国で上演した。いずれも現地に滞在し、募集した出演者たちと共に作品を制作・発表することで、自身の立ち位置や政治・国家といった大きな事象への関わり方を問われる契機となったという。それは、2017年秋に京都で上演が予定されている〈日本・中国・韓国〉に関わる新作公演に向けての必要な過程であり、今回の再演にも大きな影響を与えるものと思われる。
また、村川は以前にも、「再演」の持つ可能性について追究してきた。前作『エヴェレットゴーストラインズ』は、公演の日時と舞台上で行なう指示が書かれた手紙を「出演者候補」に送り、指示に応じて現われた出演者(と指示を断った「不在」の出演者)によって舞台上の出来事が進行する、偶然性や不確定性をはらんだ演劇作品。1年後の再演では、上演形式を大きく変更し、4バージョンに展開して上演された(例えば、ver. B「顔」はある個人の死についての記憶を共有する複数人が舞台上に召喚され、ver. C「記録」ではARCHIVES PAYと共同制作し、あらゆる記録装置が持ち込まれた舞台上で、出来事の採集が同時進行的に行なわれた)。「初演のコンセプトを引き継ぎつつ、作品をひとつの演劇形式と捉え、その形式に4つのアイデアを投入することで本番ごとに異なる作品を生み出す」ことが目論まれた『エヴェレットゴーストラインズ』と同様に、今回の『Fools speak while wise men listen』の「再演」もまた、初演以降の現実社会の変化と村川自身の海外での上演経験によって、さらなる変貌を遂げて立ち現われることが期待される。

関連レビュー

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/01/30(月)(高嶋慈)

プレビュー:砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」と題されたパフォーマンス公演。演出・振付を手がける砂連尾理は、2003年より東北地域と交流があり、東日本大震災後に避難所生活をする人々が語る言葉とその身体に圧倒された経験をもとに創作された。タイトルの「サルト・モルターレ」とは、イタリア語で「命懸けの跳躍」を意味する。非常に困難な状況を経験した人々の命懸けの跳躍=サルト・モルターレを考察し、未来に向けて生きる私たちのサルト・モルターレの模索を試みるパフォーマンス作品であるという。
市民とのワークショップを通じて制作・上演されるこの作品は、2013年に北九州で、2015年に仙台で上演された。今回、大阪の茨木公演では、市内の追手門学院高校演劇部と協働し、自身の経験にない震災の記憶にどのように触れ、想像し、語り伝えていくかが模索される。さらに、どこで誰と演じるかによって振付の意味が更新される本作の巡演するプロセスを、アーカイブするプロジェクトが同時に開始されている。参加するのは、東北で記録と継承の活動に取り組む映画監督・酒井耕とアーティスト・ユニットの小森はるか+瀬尾夏美。ダンスと記録、アーカイブが互いに創発し合う試みを目指すという。3月10日~11日には、小森はるか+瀬尾夏美による展示「二重のまち/声の跳躍」が同センター内で開催される。本公演にあたって砂連尾と制作した映像と、絵や文章による展示が行なわれる。また、3月11日には、座談会「命懸けの跳躍(サルト・モルターレ)からどんな身体・言葉に出会うのか」も開催予定。さらに、2月~3月初旬にかけて、関連プログラムとして、酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」の上映会や、「みちのくがたり映画祭」も開催される。「語ること」と「聞くこと」、「他者の記憶の継承」という困難だが切実な試みについて、言葉と身体、映像を通して多角的に考える機会となるだろう。
公式サイト:https://sarutomortale.tumblr.com/

関連レビュー

プレビュー:みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/01/30(月)(高嶋慈)

プレビュー:みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──

会期:2017/03/02~2017/03/04

フラッグスタジオ[大阪府]

身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催されるドキュメンタリー映画祭。東日本大震災以降の東北に暮らす人々の「語り」に耳を傾けながら、記録し続ける映画監督・作家たちの作品計4本を紹介する。上映作品は、「波のした、土のうえ」(監督:小森はるか+瀬尾夏美)、「ちかくてとおい」(監督:大久保愉伊)、「なみのこえ 気仙沼編」(監督:酒井耕・濱口竜介)、「うたうひと」(監督:酒井耕・濱口竜介)。
「波のした、土のうえ」は、岩手県陸前高田市で暮らしていた人々と、アートユニット・小森はるか+瀬尾夏美の協働による作品。人々が語る言葉と風景の3 年8 ヶ月の記録を、物語を起こすように構成している。被写体となる地元住民へのインタビューを元に、瀬尾が書き起こした物語を、もう一度本人が訂正や書き換えを行ないながら、朗読する。その声と町の風景を重ねるように、小森が映像を編集する。また、「ちかくてとおい」は、津波で大きな被害を受けた岩手県大槌町で生まれ育った映画作家・大久保愉伊による作品。かつて町があった場所は、かさ上げ工事のために土に埋もれてしまう。大久保は、震災後に生まれた姪へ向けて、彼女が大人になる頃には消えてしまう風景について、映画で伝えようとする。さらに、「なみのこえ 気仙沼編」「うたうひと」は、酒井耕・濱口竜介の共同監督による東北記録映画三部作の第二部と第三部である。第二部「なみのこえ 気仙沼編」は、気仙沼で生きる人々どうしの「対話」を記録。百年後、この映画に収められた声は「死者の声」になり、波に消えた声と未来で繋がっていることを祈って制作された。「うたうひと」では、古来より口伝えで受け継がれてきた民話の「語り手」と「聞き手」の関係が、創造的なカメラワークによって記録され、スクリーンに再現される。
4作品の上映を通して、声による伝承、「語ること」「聞くこと」の身体的プロセスそのものを俎上にのせることで、単に「震災の記録」であることを超えて、「ドキュメンタリー」の成立基盤それ自体を再検証する視座をひらく機会となるだろう。

関連レビュー

プレビュー:砂連尾理『猿とモルターレ』|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/01/30(月)(高嶋慈)

渡邉朋也個展「信頼と実績」

会期:2017/01/07~2017/01/29

ARTZONE[京都府]

紛失した割り箸の片割れを、手元に残った割り箸の3Dモデリングと3Dプリンタによって「復元」する。くしゃくしゃになったレシートを「折り紙の一種」と捉え、山折り線/谷折り線の折り図を起こして「再現」可能にする。ぬりえの上に殴り描きしたぐちゃぐちゃのストロークを、そっくり同形で隣のページに「反復」する。二度と同じ模様が生まれないはずのスクリーンセーバーを、もう一台のパソコンの画面に「複製」する。渡邉朋也がさまざまに開陳してみせるのは、ほとんど無価値なものの「修復・復元」や、「複製不可能なものの反復」であり、そのために高度なデジタルファブリケーション技術や徒労に近い手間ひまが惜しげもなく投入される。
こうした「鋳型と発現」「データと出力」の手続きによって現われるのは、「反復・複製における同一性と差異」の問題であり、「二対構造」は本展において「作品解説・キャプション」という制度的なレベルにおいても繰り返される。本展の構造が秀逸なのは、「作家自身による解説キャプション」と「企画者による解説文のハンドアウト」を並置し、その落差を仕掛けることで、展覧会という制度、キュレーションと共犯関係、情報の「客観性」に対するメタレベルの問いを発している点である。
懇切丁寧な説明に説明を重ねる身振りは、ともすれば情報の過剰供給に陥りがちな「現代アート」(とりわけ専門用語を交えた難解な解説を要するメディア・アート)を揶揄するかのようだ。2種類の「解説」を見比べると、企画者が執筆した解説は、中立的で客観的に見える。一方で渡邉による解説は、一見すると作品とは無関係でナンセンスに思えるが、実は作品のポイントを抽象化して吸い上げ、別の例えやストーリーに置き換えたものであることが理解される(潜在的な構造の発見と星座についての語り、「同一性と差異」の問題と落語の『粗忽長屋』)。情報の量や質によって見え方が左右されること。どのレベルの深さで読み込むかによって、解釈が可変的なものになること。それは、「私たちは何を信頼して物事を見ているのか」という問いであり、「表面」への疑いである。例えば、《作品(ars)》は、ホームセンターで買った合板の木目に、ラテン語で「技術」を意味する「a」「r」「s」の文字が見出だされたとする位置をマスキングテープで示したものだが、「企画者による解説」には「コンピュータにおける画像認識のディープランニングの過程を内面化した渡邉が、自身で「a」「r」「s」を見つけ出すに至った」という、科学技術を根拠にしたウソかホントか分からない文章が書かれている。
先端的なメディアや技術を用いつつ、私たちがそれを「信頼」する根拠の危うさや不確かさについてユーモアを込めて問う態度に、メディア・アーティストとしての渡邉の優れた本質性がある。


左:《科学と学習》2015 撮影:砂山太一 右:《作品 (ars)》2016 撮影:新居上実

2017/01/29(日)(高嶋慈)